西塚安夫
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小学校時代からの1つ先輩が笹倉武久で、中学校も一緒で同じ柔道部であった[2]。
日本大学時代は古武道部を創部し初代主将を務め、後に部下となる河野通文が同部の2代目主将に抜擢されている。
1972年に父・十勝の厩舎で調教助手となり、1986年に調教師免許を取得[3]。
1年目の同年は3月14日の中山第5競走障害4歳以上未勝利・ワールドモナーク(9頭中2着)で初出走[4]を果たし、6月13日の東京第5競走障害4歳以上未勝利・ミミオブシャークで初勝利、同28日の札幌第2競走3歳新馬・ファインフェアーで平地初勝利を挙げる[5]。ファインフェアーは札幌3歳ステークスに出走させ、マイネルロジックの稗田研二と共に重賞初出走となった[6] [7]。10月31日の東京第2競走3歳新馬では岩手産馬レオライトが13頭中13番人気で勝利し[8]、翌月1日の福島でも勝ち星を挙げて初の2日連続勝利を記録[9]するなど、初年度は6勝[10]をマーク。
2年目の1988年には5月14日の新潟で初の1日2勝[9]を記録するなど9勝[10]をマークし、数少ないタマトップの初年度産駒[11]の一頭であるミョウジントップが京成杯3歳ステークスでドクタースパートの3着、西塚のGI初出走[12]となった朝日杯3歳ステークスでもサクラホクトオーの3着と走った[13]。
3年目の1989年にはミョウジントップが5着までアタマ、クビ、ハナ、クビの接戦になった京成杯で2着[14]に入り、公営新潟から移籍してきたキリサンシーが900万特別戦で3勝するなど[15]初の2桁となる10勝[10]をマークし、1994年まで6年連続2桁勝利[10]を記録。
1990年には長期休養明けのキリサンシーが函館の巴賞を人気薄の格上挑戦ながらラッキーゲランの4着[16]と健闘し[15]、道営札幌の第2回ブリーダーズゴールドカップではプレジデントシチー・タキノニシキ・ホロトマイケル・ホロトウルフに敵わず殿負けに終わっている[17]。
1991年には中山の準OP・迎春ステークスを岡部幸雄の騎乗で快勝し、オープン入り初戦は目黒記念で道中は好位に付ける走りを見せ、僅差の5着と健闘[15]。続く日経賞では道悪馬場の中、前走の目黒記念の勝ち馬カリブソングをゴール前で捉え切って、西塚は重賞初勝利を挙げる[15] [18]。次走は日経賞と同じ田中勝春とのコンビで天皇賞(春)に挑戦し、道中は後方からレースを運び、最後の直線で馬群の中央から追い込んでメジロマックイーンから0.6秒差の5着と大健闘[15]。レース後は重度の故障で安楽死まで検討されるほどの事態となり、公営新潟時代に管理していた向山勝厩舎に戻した[15]。
1991年は東京ダービーを勝った大井の牝馬アポロピンクが転厩し、移籍初戦のクイーンステークスでイナズマクロスの4着に入ったのが最高であった[19]。
同年は初の重賞勝ちを含む20勝をマークするが、結局この年が自己最多となった[10]。
1992年にはハッピィーギネスが根岸ステークスで14頭中12番人気の低評価を覆して重賞2勝目[20]を挙げ、スプリンターズステークスでは後方14番手からニシノフラワーに次ぐ上がり34秒4でサクラバクシンオーに先着する5着[21]と健闘。
1994年からはタマモクロス産駒カネツクロスがデビューし[22]、3戦目に中山ダート1200m戦で勝ち上がると、ダービーデー[23]の昇級初戦も武豊でクリアして連勝[24]。同年暮れから本格化し[22]、先行してロングスパートの戦法がすっかりと板につくと[22]、エプソムカップを重賞初挑戦でトップハンデを背負いながら勝利[25]。父タマモクロスに重賞初勝利[26]をもたらしたが、西塚にとっては最後の重賞勝利[27]となった。一時は馬主の名義貸しに関与していたことが発覚して調教停止処分を受け、堀井雅広厩舎に転厩[28]。処分明けの帰厩初戦となった七夕の宝塚記念はメンバー唯一の関東馬で2番人気に支持され、スタートでは内枠を利して出たレガシーワールドを抑え、12番枠から9番枠のマヤノトップガンを外から被せるように先手を主張[29]。向正面でリードを広げるが、残り1000mのハロン棒を通過して馬群が縮まっていき、残り600mで13頭の馬群が一団となる[29]。4コーナーを回りながら、馬なりでレガシーワールドを交わし2番手に上がっていたマヤノトップガンに早くも捉えられると[29]、直線で中団から脚を伸ばしてきたダンスパートナー[29]、後方から追い込んできたヒシナタリー[29]にも交わされて、6着[24]に粘るのが精一杯であった。ダートで力を付けて芝で花開くあたりは父タマモクロスを彷彿させたが、GIでは一息足りないレースを続けてしまった[22]。
1996年の宝塚記念前日の七夕賞では7歳牝馬グロリーシャルマンを出走させ、大塚栄三郎とのコンビで軽量51kgを利して直線も粘り、サクラエイコウオーの3着に好走[30]。秋の府中牝馬ステークスでも12番人気とノーマークであったが、勝ったサクラキャンドルから0.4秒差の3着に入り存在感を見せた[30]。明け8歳になった1997年には単勝67.5倍の10番人気であった東風ステークスで単勝1.5倍のツクバシンフォニーをメンバー最速の上がりで差し切り、函館記念も単勝88.6倍の14番人気と全くのノーマークであったが、中団からまくり気味に進出すると、勝ったアロハドリームの2着に入り波乱を演出[30]。その後は再びOP特別を中心に使われ、UHB杯8番人気5着、札幌日経オープン7番人気2着と堅実な走りを見せた[30]。続く道新杯では外からまくって上がっていくと、直線では尾を振り回しながら一気に伸びて勝利し、秋は府中牝馬ステークスで2着に入った[30]。
1997年には3年ぶりの2桁となる10勝をマークしたが、結局この年が最後の2桁勝利となった[10]。
その後は預託頭数の少なさから馬房が空いてしまい[31]、倒産寸前で遠征費すらままならない状態[32]であったが、苦しい時代は父サッカーボーイ・母父ナオキのビジネスサイクル[33]が障害戦で息長く活躍[32]。宗像徹とのコンビで2006年に京都のオープンを勝利し[33]、2007年の東京ハイジャンプでは14頭中12番人気ながらコウエイトライ・フミノトキメキ・クールジョイに先着する5着[34]に入った。宗像はビジネスサイクルに騎乗できない時でも代役を探し、金欠の時には交通費をまけてくれたこともあった[32]。
2006年には柴田政人厩舎からアグネスタキオンの初年度産駒で母父シアトルスルーという良血馬ノボワールドが転厩し[35]、明けて2007年1月20日の小倉第9競走4歳以上500万下では17頭中17番人気[36]であったが、道中は後方の内に着け、4コーナーでは大外を回って直線一気で勝利[35]。この勝利をきっかけに、オーナーの所有馬に鞍上の田辺裕信が騎乗する機会が増えていった[35]。
2007年にはマーベラスサンデー産駒ノボライトニングが新潟ジャンプステークスでミヤビペルセウスの2着、東京オータムジャンプでベストグランチャの3着に入った[37]。
2008年11月16日の福島第4競走3歳以上500万下・ノボディーヴォが最後の勝利、12月7日の中山第6競走2歳新馬・エイダイベアハート(14頭中11着)が中央最後の出走、同9日の船橋第9競走フェイスフルステッキ特別・オカールノキセキ(14頭中14着)が最後の出走となった[38]。