大塚栄三郎
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中学卒業後は3年間の板前修行を経て、18歳の頃からは中山・吉野勇厩舎で修行を積み、1977年に騎手免許を取得。同期には根本康広、猿橋重利らがいる。
1年目の1977年は3月5日の中山第4競走4歳未勝利・スタービートで初騎乗初勝利[1]を挙げ、関東では1976年の津曲幸夫に続いて2年連続での達成となった[2]。4月23日の東京第6競走春蘭賞を10頭中10番人気のクリタッチで勝利して初の特別勝ち[3]を挙げ、ダービーデーの5月29日には東京第7競走むらさき賞をクリセイハで勝利[4]。10月22日・23日の中山では初の2日連続勝利[5]を挙げるなど、初年度から2桁の13勝[6]をマークし、同年に創設された関東の新人賞に当たる民放競馬記者クラブ賞を受賞[7] [8]したほか、同年から24年連続2桁勝利[6]を記録。
2年目の1978年には皐月賞が行われた4月16日に皐月賞の前の中山第8競走5歳以上600万下をイナズマオーで勝利し[9]、7月22日の函館では初の1日2勝[10]を挙げる。
3年目の1979年には北海道3歳ステークス・カツルーキーオーで重賞初勝利[11]を挙げ、1981年には初の20勝台となる22勝[6]をマークし、1983年から1998年まで16年連続で20勝超え[6]を記録。
1981年のクラシック戦線ではスーパーサバンナで弥生賞5着・スプリングステークス4着[12]、NHK杯ではサンエイソロン・カツトップエースに次ぐ3着[13]に入り、東京優駿ではミナガワマンナに先着する6着[14]であった。古馬になってからは1982年の目黒記念(秋)でメジロファントムの2着、1983年の中山記念ではエイティトウショウの3着に入った[12]。
1983年の出走停止明け[15]から栗東に移籍する[16]1986年までドウカンヤシマの主戦騎手を務め[17]、1983年の函館記念では51kgで皐月賞馬ハワイアンイメージ、桜花賞馬のブロケード・リーゼングロスら相手に逃げ、一時は2番手に6馬身差を付けるなど独走[15]。直線に入っても先頭を保ち、追い上げてくる後方勢に2馬身半差を付ける逃げ切りで重賞2勝目を挙げる[15]。当日は13頭中11番人気と人気が無く、単勝2060円、枠連5770円の高配当を記録した[15]。秋はセントライト記念で牡馬最先着[18]、京都新聞杯でカツラギエース・リードホーユーに次ぐと同時にミスターシービー・スズカコバンに先着し[19]、共に3着[17]であった。クラシック出走を果たした菊花賞では悪癖が出て17着に敗れ、菊花賞の後は悪癖矯正を厩務員と取り組む[15]。1984年の始動戦となった金杯(東)では好位に位置し、3コーナー時点で勝利を確信すると、直線で先行勢を交わしてからは独走態勢となり、後方に3馬身差をつけて重賞3勝目となった[15]。1985年の東京新聞杯では最重量で2番手に位置し、直線で内から抜け出すと、後方から迫ったダスゲニーを半馬身振り切り重賞4勝目となった[15]。大塚は「(前略)でも正直いってまさか勝てるとはねえ」と述懐しているが、1969年にタケシバオーも制していることから、東京新聞杯父仔制覇を達成[15]。当日は15頭中10番人気で、単勝4050円、枠連8350円の高配当となった[15]。
1986年にはハツノアモイで7着までハナ、アタマ、アタマ、クビ、クビ、ハナの接戦となったフェブラリーハンデキャップを制し[20]、サニーライトではスプリングステークスとダービー指定オープン[21]の青葉賞を制し[22]、セントライト記念3着・京都新聞杯2着で共にダービー馬ダイナガリバーに先着[23] [24]。
1987年からはフリーとなり、スプリングステークスでは12頭中12番人気のバンブーアトラス産駒ウインストーン[25]で小雨の良馬場を逃げ[26]、直線も粘って東西3歳王者のメリーナイス・ゴールドシチー[26]に先着[27]したが、馬群を縫うように飛んできた[26]マティリアルの3着[27]に終わる。4歳牝馬特別(東)・優駿牝馬では共にクリロータリーで逃げてマックスビューティの2着[28]に粘り、天皇賞(秋)では14頭中11番人気のトチノニシキで後方から追い込んで4着[29]と健闘。
1988年には同年開業の藤沢和雄調教師が若い管理馬たちのリーダーとなるように地方からスカウトした老馬ガルダン[30]の主戦[31]となり、4月24日の新潟第11競走谷川岳ステークスではコーセイをハナ差抑えて[32]藤沢に開業初勝利[33]をもたらしたほか、藤沢の重賞・GI初出走となった安田記念(12頭中6着)[33]でも騎乗し、初の30勝台で自己最多の34勝[6]をマーク。
1989年には初めて夏の新潟に本格的に滞在し、18頭立ての関屋記念では14番人気のミスターブランディに騎乗[34]。逃げる形が理想のミスターブランディにとって4歳馬ダイワゲーリックに騎乗する増沢末夫の出方がポイントとなり、ダイワゲーリックは前走のラジオたんぱ賞を2番手から抜け出して快勝し、先手を取れるスピードはここでも通用すると思われた[34]。大塚がミスターブランディに騎乗するのは2年ぶりであったが、前日追いに跨り、2年前とは馬の状態が全く違っていたことに驚いて「これなら勝負になる。行くだけ行こう」と決める[34]。当日はゲートが開くと、ダイワゲーリックが大外8枠18番から初速の違いでハナに立つが、大塚はミスターブランディをスタートから気合十分に押しまくり、半ば強引にハナを奪う[34]。増沢はダイワゲーリックが気性面で不安の残ることから折り合いに専念し、2番手に控えた。大塚は徐々にラップを落とし、3ハロンを34秒7で通過すると、手応え十分に直線に向く[34]。有力馬のマークがダイワゲーリックに集まる隙を突いて逃げ込みを図るという大塚の作戦が見事に嵌り、直線半ばで迫るダイワゲーリックを振り切ると、4角14番手から鋭い脚を使ったマティリアルをクビ差しのぎきった[34]。第100回天皇賞では14頭中13番人気キリパワーに騎乗し、平成三強の一頭イナリワンにクビ差先着の5着と健闘[35]。
1990年にはジムクインを3連勝で中山牝馬ステークス制覇[36]、ビゼンニシキ産駒ハシノケンシロウを福島記念制覇[37]に導くなど2年ぶりに34勝[6]をマークし、岡部幸雄・郷原洋行・坂井千明・菅原泰夫・中舘英二と共にフェアプレー賞を受賞[38]。
1991年にはハシノケンシロウでオールカマーを11番人気4着[37]と好走すると、カブトヤマ記念を制すなど[37]2年連続30勝台となる31勝[6]をマーク。
1992年のスプリングステークスではテン乗りのマーメイドタバンで、直線でサクラバクシンオー・ライスシャワーがはるか後方でもがく中、ミホノブルボンの7馬身後ろの2着に上がった[39]。当日は14頭中13番人気で、マチカネタンホイザ・ノーザンコンダクトにも先着し、馬連54780円の波乱となった[40]。エプソムカップではキヨヒダカ産駒ヒダカハヤトで12頭中12番人気2着[41]、ハシノケンシロウではカブトヤマ記念2着・愛知杯3着[37]とするなど、3年連続30勝台で前年と同じ31勝[6]をマークし、加藤和宏・的場均と共にフェアプレー賞を受賞[42]。
1992年8月23日の新潟第2競走3歳新馬ではメリーナイスの初年度産駒[43]マイネルリマークで初出走初勝利[44]に導き、重賞初出走となった新潟3歳ステークスでも4着[44]に入り、この時点で大塚はクラシックを狙える素質があると感じ取る[45]。1993年の共同通信杯4歳ステークスではスタートから逃げ馬がハイペースを演出する中を先行し、中団に構えたビワハヤヒデの前方に位置[45]。3コーナーに差し掛かるところで逃げ馬との距離を縮め、直線に入ってから進出して先頭を奪取し、後方にいるビワハヤヒデからの逃走を図る[45]。ビワハヤヒデが進路を探して右往左往して追い遅れ、終いになって迫ってきたが、粘って抵抗し先頭を守り切った[45] [46]。ビワハヤヒデにアタマ差先着し[45]、産駒の重賞初勝利[47]となった。ハシノケンシロウでは新潟大賞典を制したが[37]、10月17日には京都で京都新聞杯・マイネルリマークなど騎乗する予定であったが、前日深夜まで飲食をしたために同場の調整ルーム入りが3時間遅れ、なおかつ連絡を怠り、その日の全レースが騎乗停止となる[48]。
1994年にはヒダカハヤトで金杯(東)ではステージチャンプの追撃を振り切って[49]逃げ切り[41]、秋にもカブトヤマ記念を逃げ切って[41]4年ぶりの同一重賞制覇と話題となった[49]。
1994年には関屋記念・マイスーパーマンで14頭中13番人気ながら逃げたシスティーナをゴール寸前でハナ差とらえてコースレコードタイで重賞2勝目に導き、管理する鹿戸幸治調教師曰く「もうひと花」を咲かす事が出来たほか、大塚は同レース2勝目となった[50] [51] [34]。
1996年の七夕賞では7歳牝馬グロリーシャルマンで軽量51kgを利して直線も粘り、サクラエイコウオーの3着に好走[52] [53]。秋の府中牝馬ステークスでも12番人気とノーマークであったが、勝ったサクラキャンドルから0.4秒差の3着に入り存在感を見せた[53] [52]。
1996年10月26日の新潟第8競走4歳未勝利ではポットベルーシーで2着[54]であったが、最後の直線で3着のマイネルトムに騎乗した藤原英幸[54]と鍔迫り合いになり、レース後には検量室で大塚と揉み合いになる[55]。大塚は施行規定第126条第20号により、翌27日から11月9日まで実効4日間の騎乗停止となった[55]。
1997年には最後の30勝台となる32勝[6]をマークし、蛯名正義・小野次郎・菊沢隆徳・木幡初広・中舘・的場と共にフェアプレー賞を受賞[56]。
1999年には中野栄治厩舎のアブクマレディー・キングデールでダート戦線を活躍し[57] [58]、アブクマレディーでは川崎のスパーキングレディーカップ・エンプレス杯で共にファストフレンドの2着とし、盛岡のクラスターカップを勝利[57]。キングデールでは金沢のサラブレッドチャレンジカップを逃げ切り、ダービーグランプリでは4コーナー先頭からタイキヘラクレスの2着に粘った[58]。
2000年には最後の20勝台となる22勝をマークし、2001年には初めて1桁となる5勝に終わる[6]。
「逃げの大塚」と呼ばれて人気を博したが、2002年に挙げた11勝が最後の2桁勝利[6]となり、2003年以降は騎乗数が激減。その頃から藤沢和厩舎を手伝いながら、同厩舎で調教助手に転身するつもりであったが、年齢と賃金を理由に断られていた。
ジムクインを母に持つセレクターで勝った2003年7月12日の函館第3競走3歳未勝利[59]が最後の勝利[60]、2004年3月27日の中山第5競走3歳未勝利・フーテンガール(15頭中15着)が最後の騎乗[61]となった。
2005年には岡部が引退したことで平地の現役最高齢騎手となったが、2006年2月17日、同年度のJRA騎手免許の更新を行わず、そのまま現役を引退[62]。
引退後は調教助手転身を希望するが、当時は各厩舎に調教助手の空きがなく、さらに当時52歳ということで当初は進路未定となっていたが、後に高松邦男厩舎の調教助手となる。その後は高市圭二厩舎で調教厩務員を務めた後、武藤善則厩舎で再び調教助手となった。