酒井哲哉
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福岡県出身。東京大学法学部卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。同大法学部助手、北海道大学法学部助教授を経て、2009年から2024年まで東京大学大学院総合文化研究科教授[2]。2010年4月より2012年3月まで、国際日本文化研究センター客員教授も務めた。
年譜
- 1958年4月 福岡県生まれ
- 1977年3月 福岡県立門司高等学校卒業
- 1981年3月 東京大学法学部卒業
- 1983年3月 東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了
- 1983年4月 東京大学法学部助手
- 1986年4月 北海道大学法学部助教授
- 1994年4月 東京大学教養学部助教授
- 1999年4月 東京大学大学院総合文化研究科教授
- 2009年4月 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻長(2011年3月まで)
- 2010年4月 国際日本文化研究センター客員教授(2012年3月まで)
- 2012年4月 東京大学駒場図書館長(2015年3月まで)
- 2024年3月 東京大学大学院総合文化研究科教授退任[3]
年譜の節は各種資料をもとに作成[4]。
研究・人物
20世紀日本の外交史や国際思想史に関する画期的な研究をいくつも発表し、長く学界をリードしてきた[5]。
東京大学大学院では三谷太一郎を指導教官として、日本政治外交史を学ぶ[6]。大学院生の頃は「科学主義化」が進む政治学と、「職人芸的」な国史学のあいだにあって、「自分の学問的立脚点」について悩むこともあった[7]。1983年、日本外交におけるロシア要因を分析した論文[8]で修士号を得る。この論文と、1930年代の日本外交と内政との相互作用を解明した助手論文[9]は、のちに単著として『大正デモクラシー体制の崩壊』(1992年)にまとめられ、「外交史の領域で著者が他の追随を許さない高み」[10]にあると評された。本書で吉田茂賞を受賞[11]。
1986年、学部同期の山口二郎から声をかけられたことで[12]、北海道大学法学部に赴任する。中村研一によれば、当時の北大法学部は「80年代に山口、川崎、酒井、と来るから、それは凄まじいものだった」[13]。1988年のレビュー論文[14]では、昭和前期を対象にした政治史研究の行き詰まりに対して社会史と思想史の視点を導入すべきと主張して、この分野における研究上の指針の一つとなった[15]。1991年の論文[16]では「9条=安保体制」という概念を提起し、相反するイメージのある「憲法9条」と「日米安保」という2つの路線が実のところ対立者間でもコンセンサスのある一体的な日本外交の枠組みであったことを喝破して、その後も長きにわたって幅広い立場から参照されている[17]。
1994年に東京大学教養学部に異動すると、国際関係論コースに所属した[18]。その後、2000年代にかけては、狭い意味での外交史研究を超えて、国際秩序の理想と現実をめぐる言説を精力的に研究する[19]。一連の成果をまとめた『近代日本の国際秩序論』(2007年)は、帝国秩序と国際秩序が重なり合う近代の東アジアにおいて、日本の外交史、国際政治学、植民政策学などの言説がもった同時代的な意義や今日的な含意を鮮やかに描き出して、「めまいを覚えるほどの快感と感銘」[20]を与える仕事と評価された。本研究は韓国でも翻訳、出版されたほか[21]、英語圏での研究とも軌を一にするものとして受容されている[22]。
2000年代後半からは自身の研究にくわえて、共同研究プロジェクトの代表者[23]として、また叢書[24]やアンソロジー[25]の編者として、近現代日本の外交思想や帝国日本の学知に関する分野で、研究の交流と普及に尽力している[26]。研究の出発点となった日ソ関係史の分野でも、国内外の専門書に寄稿している[27]。酒井自身は、かつて自分のことを「たぶん最後の『戦後の歴史家』である」[28]と述べたこともある。
教育の面では、毎年、酒井ゼミにはいくつもの学部・専攻から学生が集まった。出身国もさまざまで、一時期は12か国から学生が参加することもあった[29]。酒井ゼミからは芝崎厚士[30]、詫摩佳代[31]、帯谷俊輔[32]らが輩出し、「日本における国際連盟、国際組織史の研究拠点」[5]と評されている。その他にも浅野豊美[33]、菅原光[34]、神田豊隆[35]、春名展生[36]、李穂枝[37]らの論文を指導し、多くの後進を育てている。