酒井忠惇

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酒井 忠惇(さかい ただとし/ただとう)は、江戸時代末期の旗本大名明治時代日本華族男爵)。

時代 江戸時代後期 - 明治時代
死没 明治40年(1907年11月10日
改名 幸五郎(幼名、孝五郎とも)→忠優(初名)→忠惇
概要 凡例酒井 忠惇, 時代 ...
 
酒井 忠惇
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保10年7月28日1839年9月5日
死没 明治40年(1907年11月10日
改名 幸五郎(幼名、孝五郎とも)→忠優(初名)→忠惇
別名 勘解由(通称
戒名 慈徳院殿義徹忠惇源信大居士
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位下、河内守従四位下、侍従雅楽頭正四位従三位正三位
幕府 江戸幕府老中
播磨姫路藩
氏族 酒井氏(雅楽頭家分家旗本家→雅楽頭家宗家→雅楽頭家分家男爵家)
父母 父:酒井忠誨、母:家女
養父:酒井忠夏酒井忠績
兄弟 忠績、忠恕、忠惇
正室:酒井忠欽の娘
側室:いせ(青鹿源右衛門の長女)
忠精(長男、男爵家後嗣)、鍈子(立花寛治継々夫人)、錥子(酒井千代吉麿夫人)、登喜子(浅野養長夫人)
養子:忠邦(雅楽頭家後嗣)
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雅楽頭系酒井家宗家17代目当主で、慶応3年(1867年)に兄酒井忠績の隠居で播磨姫路藩の第9代藩主を襲封し、江戸幕府老中となったが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦い徳川慶喜に従って江戸に逃亡したため官位褫奪・蟄居となる。明治2年(1869年)に赦免され、明治13年(1880年)11月に姫路酒井家から忠績とそれぞれに分家、明治22年(1889年)5月に揃って華族の男爵に叙された[1]

略歴

姫路藩主家分家の御小姓組番頭・酒井忠誨(5000石)の四男として江戸に生まれる。母は家女。

旧暦文久元年12月(1862年1月)に5500石の寄合旗本酒井忠夏の養子となり、文久3年10月4日1863年)に家督を相続、12月15日に御使番に任命される。翌元治元年6月28日1864年)に御使番在任のまま箱根関所の見廻りを命じられ、7月2日に箱根へ出発し、8月2日に江戸に戻る。6日に本家を継いで姫路藩主となっていた兄・酒井忠績の養子となり、13日忠優と改め、19日通称を勘解由と改める。10月27日に従五位下・河内守に叙任、同日に従四位下に叙される。慶応元年4月15日1865年)に溜間詰に列せられ、5月15日侍従に任じられる。

慶応3年2月28日1867年)、兄の隠居により姫路藩主となり、諱を忠惇に改める。3月2日に雅楽頭に任じられ、12月30日に老中に任命される。しかし慶応4年1月(1868年)の鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜ら旧幕府側に与したため2月5日に老中を罷免された上、3月7日には官位を剥奪され、入京も禁止される。さらに5月20日明治新政府から隠居謹慎を命じられ、 分家の伊勢崎藩から酒井忠邦を養子に迎えて家督を譲った[2]。そして明治元年12月12日(1869年1月)、駿府徳川亀之助(後の家達)へ預けとなり、翌明治2年9月28日1869年)に蟄居預かりを解かれる。明治4年2月3日1871年)、兄と同じく静岡藩士族・酒井録四郎忠恕(忠績と忠惇の間の兄弟)方へ終身同居することを許される。明治5年1月6日1872年)、従五位に叙される。

新暦1876年(明治9年(4月12日、宗家の忠邦方へ復籍。1880年(明治13年)5月18日に従四位に叙され、11月18日に分家して終身華族に列せられる。1889年(明治22年)5月11日に永世華族に列せられ、男爵を授与される。6月17日、東京上野東照宮副祀官に任命される。6月26日、正四位に叙される。1890年(明治23年)12月27日、上野東照宮副祀官を辞職する。1893年(明治26年)10月21日に久能山東照宮宮司に任命され、1896年(明治29年)1月28日まで勤める。

1899年(明治32年)6月20日に従三位1907年(明治40年)11月11日に正三位に叙され、同日薨去享年69。

栄典

脚注

参考文献

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