酒井忠正

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生年月日 1893年6月10日
没年月日 (1971-02-16) 1971年2月16日(77歳没)
酒井 忠正
さかい ただまさ
生年月日 1893年6月10日
出生地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市本郷区西片町[1](現:東京都文京区西片
没年月日 (1971-02-16) 1971年2月16日(77歳没)
死没地 日本の旗 日本千葉県船橋市
出身校 京都帝国大学法科大学
所属政党無所属→)
研究会
称号 正三位
勲一等瑞宝章
伯爵
配偶者 酒井秋子
子女 酒井忠元(長男)
親族 阿部正桓(父)
酒井忠興(義父)
宗教 神道
大日本帝国の旗 第15代 農林大臣
内閣 阿部内閣
在任期間 1939年10月16日 - 1940年1月16日
在任期間 1944年10月21日 - 1945年12月17日
貴族院議長 徳川圀順
選挙区 伯爵議員
当選回数 4回
在任期間 1923年9月22日 - 1945年12月17日
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酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年明治26年〉6月10日 - 1971年昭和46年〉2月16日)は、日本政治家篤志家華族。中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。

備後福山藩の最後の藩主だった華族阿部正桓伯爵の次男として生まれ、旧姫路藩主家で伯爵家の酒井家の当主酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年大正7年)に京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年(大正12年)9月22日に貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し[2]1945年(昭和20年)12月17日まで務める[3]阿部内閣にて農林大臣を務める。

安岡正篤の思想に共鳴、金鶏学院設立に支援を行った[4]。 政治的には右翼運動に近づき、東洋人の自覚と文化の普及に努めるためとして金鶏学院内に亜細亜文化協会を結成し[5]1927年(昭和2年)10月に金鶏学院より発行した『日本政教の根本問題 国体原論』において国体の明示を行い、次いで1928年(昭和3年)2月に金鶏学院の叢書「蛍雪集」において国維運動を提唱し、日本の行くべき具体的方策を公表した。その運動の一環として1932年(昭和7年)1月、金鶏学院の安岡正篤とその支持者を中心として黒維会を設立[6]。発起人に荒木貞夫後藤文夫近衛文麿、理事に酒井忠正・岡部長景吉田茂(内務官僚、戦後の首相とは別人)・松本学ら華族・官僚・軍人が名を連ねた[7]。黒維会は1932年6月1日から毎月、機関紙『国維』を発行した[8]

1930年(昭和5年)にドイツを訪問してナチス党の幹部ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書官シッケダンツと会談していた忠正は機関紙『黒維』で「独逸国民社会党の真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動を形式的模倣で終わらせないようナチス理解を広める役割も果たしていた[9]。その後、黒維会は日本全国各地に勢力を伸ばし、当時日本領だった朝鮮半島にも勢力を広げた[8]

満洲事変後の国家主義思潮の高まりに乗じて、日本精神に根ざした国政革新計劃の樹立と、人材の糾合を目的とした。いわゆる新官僚官僚主導政治改革を企図した内務官僚を中心としたグループ)が数多く参加し、活動の中心となる。同年の齋藤内閣に後藤が農相に就任、「農山漁村経済更生運動」を指導したのを始め、続く岡田内閣でも後藤・吉田・広田弘毅河田烈ら会員が入閣し、内閣書記官長の吉田を中心として「国策審議機関案」(この案に基づき後に内閣審議会内閣調査局企画院の前身)が生まれる)が作成された。しかし、こうした会員の進出は、同会が「政界の黒幕」「新官僚の母体」であるといった見方を広げ、陸軍統制派との繋がりを噂されたこともあり、これらの疑惑を解消するため1934年(昭和9年)12月に解散声明を発表、表面的な政治団体としての活動にピリオドを打った(理事会は朝飯会と呼ばれる団体に改組された[10])。

国民精神総動員運動にも参加し、翼賛会総務、翼政協委員、翼政会常任総務などを務めたことから1945年(昭和20年)12月6日、聯合国軍最高司令官総司令部による逮捕者リストに名を連ねた(第四次逮捕者9名中の1人)[11]。不起訴となり釈放されるが、公職追放の対象者となった。解除後の1952年(昭和27年)からヒロポン患者更生復光会会長や日本精神保健福祉連盟、中央競馬会理事長、横綱審議会委員長などを歴任した[1]。日本中央競馬会第3代理事長として、アジア競馬会議の開催を提唱し、1960年(昭和35年)に実際に開催するなど、日本競馬の国際的な地位向上に努めた。

また大相撲横綱審議委員会初代委員長、日本プロレス協会初代会長を務めるなど日本のスポーツ界にも足跡を残した。

特に角界では当時を代表する好角家とされ、「相撲の殿様」と呼ばれていた。1954年(昭和29年)に酒井の膨大なコレクションを基礎として相撲博物館が開館し、初代館長となった。 博物館には1961年(昭和36年)5月14日昭和天皇香淳皇后が大相撲観戦に合わせて行幸啓。酒井が説明役を担った[12]。 膨大な資料を駆使して著された『日本相撲史』(上・中巻、ベースボールマガジン社)は下巻が未完に終わったが、相撲史研究のバイブルとされている。双葉山定次とも親交があり、双葉山が谷風梶之助 (2代)の連勝記録を更新したことを最初に知らせた人物であり、それまでの最多連勝記録が谷風の63連勝であることを認定したのも酒井である[13]

略歴

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1925年(大正14年)4月16日 紺綬褒章[22]
1928年(昭和3年)11月10日 金杯一個[23]
1931年(昭和6年)5月1日 帝都復興記念章[24]
1932年(昭和7年)10月1日 朝鮮昭和五年国勢調査記念章[25]
1934年(昭和9年)4月29日 勲四等瑞宝章[26]
1939年(昭和14年)11月13日 勲三等瑞宝章[27]
1940年(昭和15年)11月10日 紀元二千六百年祝典記念章[28]
1965年(昭和40年)4月29日 勲一等瑞宝章[29]
1971年(昭和46年)2月16日 銀杯一組[20]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1927年(昭和2年)3月22日 ローマ法王庁 星章附コンマンドール大聖グレゴアル勲章[30]
1927年(昭和2年)4月19日 ローマ法王庁 千九百二十五年聖年祭記念布教博覧会功労章[31]
1934年(昭和9年)3月1日 満洲国 満州帝国 建国功労章[32]
1935年(昭和10年)9月21日 満洲国 満州帝国 満州帝国皇帝訪日記念章[33]
1941年(昭和16年)12月9日 満洲国 満洲帝国 建国神廟創建記念章[34]

親族

脚注

参考文献

関連項目

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