野村洋三

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野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日明治3年1月20日 [1]〉 - 1965年〈昭和40年〉3月24日[2] )は、日本の実業家。元横浜商工会議所会頭。幼名は梅太郎。妻は社会活動家の野村ミチ

1870年(明治3年)に岐阜県揖斐郡公郷村(現在の大野町)で、父平作、母きくの長男として生まれた。野村家は関ヶ原の合戦落武者だったといわれ、農家だったが名字帯刀を許されていた[3]

1881年(明治14年)に岐阜中学校へ入学[4]。外国への興味が高まり、中学をやめて外国へ留学するため東京で勉強したいと両親に願い出たが父親はそれを認めず、1884年(明治17年)に14歳で大阪へ出奔した[5]。様々な職に就いて機会を窺っていたが、外国人と接する機会が多い古美術商に目をつけて京都に移り、池田清助が経営する池田商店に入った[6]。ここでの経験が後に古美術商を営むことにつながり、開店時には池田の助言を受けた。

1885年(明治18年)、上京して東京専門学校文科に入学したが実益的な英語教育を受けることができなかったため、フレデリック・イーストレイクが経営する国民英学会にも通って英語を習得した[7]。国民英学会に在学中、野村は『国民英語雑誌』の懸賞論文で1等賞を獲得した。この時3等賞となったのは、後に東京大学帝国大学総長となった小野塚喜平次だった[8][9]

1890年(明治23年)、輸出製茶業を営む丸尾文六の依頼でアメリカ視察団の通訳となり渡米した。この時、名前を洋三と改めた。アメリカ滞在中には、東京大学帝国大学教授を辞めて帰国したボストン美術館東洋部長のアーネスト・フェノロサ、動物学者のエドワード・S・モース森村市左衛門高峰譲吉十文字大元新井領一郎らと知遇を得た[10][11]

野村は、当時アメリカで深刻になりつつあった日本人排斥の世論に対して抗議する論文を現地の英字紙に投書し、その論文がサンフランシスコ領事を務めていた珍田捨巳の目に触れた。野村に対して珍田は、雇われているのではなく自分で事業を興すよう助言した[12]

1891年(明治24年)、アメリカ人実業家を案内するために帰国する際、欧米留学を終えて帰国する新渡戸稲造と同じ船室となって親しくなり、武士道を大切にしていた新渡戸に感化された[13]。このことが古美術商となる際にその屋号を「サムライ商会」とすることにつながった。

同年に前記の実業家に随行して2度目の渡米をしたが思うような活動はできず、失意のまま1892年(明治25年)に帰国した[14]。今後の身の振り方に悩んでいた際、新渡戸に相談したところ参禅を薦められ、鎌倉円覚寺で参禅するようになった[14]1893年(明治26年)、円覚寺の管長であった釈宗演シカゴ万国博覧会に合わせて開催された万国宗教大会に出席することとなり、その通訳として渡米した[15]。この時に宗演が講話を行ったが、その原稿の英訳は当時円覚寺で参禅していた鈴木大拙が行い、夏目漱石が加筆した[16]

シカゴでの行事が終了した後、野村は宗演と別れて、会議に出席していた土宜法龍に随行してヨーロッパへ渡った。フランスで土宜と別れ、イタリアインドを経由して1894年(明治24年)に単身帰国した[17]。 その後、岩田茂穂獅子文六の父)が経営する岩田商店やイギリス人経営のバンタイン商会などに勤めて商売のやり方を覚え、1894年12月、横浜本町1丁目に古美術店サムライ商会を開店した。当時安物や偽物を高値で外国人に売りつけるような商売が横行する中、野村は本当の美術品を販売することを旨とした。また、奇抜な店構えで外国人にアピールした[18][19][20][21]

1898年(明治31年)、日本銀行初代総裁であった吉原重俊の妻米子[注釈 1][22]からの依頼を受けた矢代宗勝[注釈 2]の紹介[23]により、箱根芦乃湯の老舗旅館「紀伊國屋」(現きのくにや)を経営していた川辺儀三郎の長女ミチと結婚した[24]。ミチは東洋英和女学院の出身で英語が堪能だった。また実家は著名人が数多く逗留する旅館だった[25]

その後、野村は仕事を通じて日本や世界の政財官界の指導者と知遇を得て、それらの人々の橋渡し役を務めた。 野村と付きあいがあった国内外の人物には、政界では井上馨大隈重信伊藤博文田中光顕桂太郎小村寿太郎田健治郎原敬後藤新平加藤高明若槻禮次郎井上準之助濱口雄幸平沼亮三、経済界では渋沢栄一益田孝若尾幾造高橋義雄中村房次郎井坂孝、教育・美術関係では福沢諭吉岡倉天心、海外ではジョン・ロックフェラーウィリアム・スタージス・ビゲローチャールズ・ラング・フリーアセオドア・ルーズベルトラース・ビハーリー・ボースマニュエル・ケソンがいる[26][27][28][29]

また、釈宗演の紹介[27]で、横浜で活躍していた同郷の実業家、美術品収集家である原富太郎と知り合って師友の関係となり[30] 、原が進めていた三溪園の造営に協力した。

1916年(大正5年)に来日したインドの詩人タゴール横山大観の依頼で接待し、原に紹介した[31][32][33]。タゴールは半年近く横浜に滞在した。その後、タゴールが1924年(大正13年)、1929年(昭和4年)に来日した際にも接待した。

1923年(大正12年)に関東大震災が発生した際は、野村は原とともに箱根にあった原の別荘に滞在していたが、交通が遮断していたため徒歩で横浜に戻った。4日目にようやく横浜に到着したが、サムライ商会の店舗と約32000点の美術品は焼失していた[34]。店に置いていた美術品の多くは同業者から販売を委託されていたものだったため、その弁済にはその後5年の年月を要した[35]。復興に向けてサムライ商会の跡地を横浜市復興会の事務所として一時的に提供し、野村自身は横浜市復興会の庶務委員となり、復興会会長となった原とともに横浜の復興に尽力した[36]

日本美術に関する国際的な著名人となっていた野村は、1929年(昭和4年)にはホノルル美術館から、1931年(昭和6年)にはハワイ美術館からの招きで講演旅行を行った。また、財界人として1933年(昭和8年)[37][注釈 3]にはホノルルで開催された汎太平洋貿易振興会議に、1934年(昭和9年)にはシドニーで開催されたロータリー汎太平洋会議、1937年にはニュージーランドで開催されたロータリー汎太平洋会議に出席した[28]

当時の横浜市長だった有吉忠一の発案で、横浜の復興の足がかりとする目的で外国人向けホテルが再建されることとなり[38]、野村は1926年(大正15年)に設立されたホテルニューグランド取締役に就任し[39]、ホテルは1927年(昭和2年)に開業した。1938年(昭和13年)、初代会長井坂孝に代わって野村は2代目会長に就任した[40]。それに伴い、サムライ商会の経営は四女富美子の夫である野村光正(のちのホテルニュールランド社長)に任せた[41]。なおサムライ商会は、戦況の悪化に伴い1942年(昭和17年)6月に閉業した[42]

1945年(昭和20年)、空襲で焼け残ったホテルが進駐軍に接収されることとなり、連合国軍最高司令官として来日したダグラス・マッカーサーが一時滞在した[43]。当時ホテルに居住していた野村は、マッカーサーに日本の食糧事情の困窮を訴え市民への食糧放出を懇請し[44][45]、それが実現する第一歩となった。その後ホテルは、1952年(昭和27年)まで高級将校婦人部隊将校の宿舎となった[44]

1946年(昭和21年)、横浜商工会議所会頭となり[42][46]、戦後復興に尽力した。1950年(昭和25年)に退任。同年横浜興信銀行(現在の横浜銀行)取締役に就任し、亡くなるまで務めた[47]。1952年に横浜日米協会初代会長に就任[48]1959年(昭和34年)に、神奈川県知事内山岩太郎の要請でこの年に開業したシルクホテル社長に就任した[49][50]

1965年(昭和40年)3月24日に死去。95歳没。墓所は北鎌倉東慶寺にある[2]

人物

野村は気ままな行動が多く、長期間家を留守にして国内外を外国人顧客の供をしたり、買い出しを兼ねて漫遊したことがあり、妻のミチを困らせた[51]

仏教に興味を持ったサンフランシスコの実業家アレクサンダー・ラッセルの妻アイダ・ラッセルらが1902年(明治35年)に来日し、野村の紹介で半年間ほど円覚寺で参禅した[52]。その後、1905年(明治38年)に円覚寺管長の釈宗演は、アイダの招きでサンフランシスコを訪問している[53]

野村は、留岡幸助が開設した家庭学校北海道分校に土地を寄進し、岐阜県の農民をここに送って、その生活費を支弁した[54]。その土地は野村農場と呼ばれた。

美術評論家の矢代幸雄は、野村の紹介で原富太郎のもとに出入りするようになり、審美眼を持つきっかけとなった[55]

1947年(昭和22年)、進駐軍に校地を全面接収され学校の存続が危ぶまれた神奈川県立横浜第三中学校(現在の神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)の後援組織である後援三徳会の理事長に野村は請われて就任し、副理事長の原良三郎[注釈 4]とともに校地の接収解除に尽力した[56][57]。その後、理事長は亡くなるまで続けた。野村の後任には、ホテルニューグランドの取締役でもあった磯野庸幸が就任した[58]

晩年までホテルに居住していた野村は「ミスター・シェークハンド」と呼ばれ、毎朝ホテルの食堂で宿泊客に挨拶しながら握手した。またホテルの向かいにある山下公園を散歩する姿は横浜の名物となっていた[59][60][61]

1960年(昭和35年)10月14日、当時90歳だった野村は、開業から88周年となる鉄道記念日にあたって、国鉄桜木町駅一日駅長を7歳の曾孫とともに務めた[62]

家族・親族

野村の妻ミチの妹セキは、朝日新聞記者の土屋元作に嫁した[63]。その関係で、ミチは1908年(明治41年)に朝日新聞社が主催した「世界一周会」に参加した54人の中で3人だけ選ばれた女性の1人として参加した[64]。また、土屋は野村と同時期に円覚寺へ参禅しており、その当時からの知人である。

アメリカ留学経験がある長女富貴子は外交官西春彦に嫁した[65]。西は野村の没後、ホテルニューグランドの会長に就任した[66]

真珠王と呼ばれた御木本幸吉の妻うめの弟である久米楠太郎の長男邦武は野村の三女多賀子と、三男光正は野村の四女富美子と結婚した[67]。なお、光正は野村に改姓した。御木本の真珠はサムライ商会でも取り扱われた[68]

鈴木大拙

野村と同時期に円覚寺で参禅していた仏教学者鈴木大拙は同い年であり、終生の友であった。1897年(明治30年)に大拙が初めて渡米する際、野村が乗船券を手配するなどの世話をした[69]1911年(明治44年)、大拙が横浜でベアトリス・アースキン・レインと結婚した際は、野村が媒酌人を務めた[70]。また、関東大震災により野村が財産を失った際は、大拙が心の支えとなった[71][72]。晩年に大拙が鎌倉の松ヶ岡文庫に住むようになると、野村は月に2回ほど訪問して大拙と語り合った[73]。大拙は『野村洋三伝』に序文を寄せている。野村の葬儀では大拙が葬儀委員長を務め[74]、70年近い交際を振り返って弔辞を述べた[75]。その翌年に大拙も他界した。

野村は、大拙と同時期に参禅していた夏目漱石西田幾多郎杉村楚人冠とも親しくなった[76][77]

栄典等

栄典
受章

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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