銭象祖 From Wikipedia, the free encyclopedia 銭象祖 銭 象祖(せん しょうそ、1145年 - 1211年)は、中国南宋の政治家。字は伯同。号は止庵。杭州銭塘県の人。 呉越忠懿王の八世の孫であり、銭端礼の孫にあたる。父は銭簹。 蔭位により任官し、太常寺主簿・太常寺丞・刑部郎官・吏部尚書などを歴任した。嘉泰4年(1204年)、進士出身と同様の待遇を受けることになり、開禧元年(1205年)には参知政事兼同知枢密院事に任じられた。翌開禧2年(1206年)3月、職務の回避を理由で罷免され、信州に移った。 開禧3年(1207年)4月、参知政事の職を回復し、中央に復帰した。同年11月には史弥遠らと共に北伐の失敗に追い詰められた韓侂冑の暗殺を企て、政変を成功させている。その論功行賞により右丞相兼枢密使となった。嘉定元年(1208年)、太子少傅を兼ねて皇太子趙詢の補導に臨み、同年10月には左丞相に昇進したが、やがて史弥遠との権力闘争で敗れ失脚した。 仏教を信奉し、晩年には浄業に専念したという。嘉定4年(1211年)2月、病死した[1]。 脚注 ↑ 『仏祖綱目』 参考文献 『宋史』巻38~39 寧宗本紀 『仏祖綱目』巻第39 Related Articles