Wikiwand AI

阪神851形電車

From Wikipedia, the free encyclopedia

阪神851形電車(はんしん851がたでんしゃ)は、阪神電気鉄道が1936年に導入した鉄道車両である。新設軌道線(阪神本線系統)の急行系統を中心に運用され、特徴ある貫通扉のデザインをはじめ阪神間モダニズムの影響を大きく受けた内外装を持って登場した、昭和戦前期の阪神及び関西私鉄を代表する車両のひとつである。

881形899(1947年4月3日)

本項目では続いて製造された861形・881形の各形式についても併せて紹介する。

久しぶりの新造車

1930年代の阪神間の鉄道では、国鉄が1934年7月の吹田 - 須磨間電化に伴う省線電車開通と同時に大阪 - 神戸間で急電の運転を開始した。一方の私鉄側も1933年の阪神本線の神戸市内地下化工事完成、1936年3月の阪神本線神戸市内地下線が元町に、4月には阪急神戸線が三宮にそれぞれ延長した。

阪神では地下化工事に着手するとともに、木造車の301,311,321,331の各形式の鋼体化工事を推進、すでに1001,1101,1111,1121の各形式が登場していたが、最後の331形から1141形への改造工事に取り組んでいた1936年2月、翌月の元町延長に伴う所要車両数の増加に対応して、急行電車用に7年ぶりの新車として、1001形各形式の鋼体化における成果を採り入れ、急行用にふさわしい新車として大きくモデルチェンジした851形を増備することとなった。

概要

851形を基本に解説する。

車体

1101形など鋼体化改造車の車体長を1m延長して約14.7mとした形態の2扉ロングシート車で、広幅窓と明かり窓が設けられた[1]。半室運転台で車掌台側に小窓があるため、側面窓配置はd1D6D11dとなった。前面は正面の雨樋を緩やかなカーブで下げ、その上に水切りを取り付けてアクセントとしていた。また、車両の溶接技術も進んだことから、同時期に登場した1141形同様車体裾部以外はノーリベットで登場したほか、アンチクライマーも省略された。

正面貫通扉は展望効果とデザイン性を狙って縦長の窓ガラスを使用した2枚折戸[2]となり、大型ガラス防護と手すりを兼ねた金属パイプが斜め方向に設置された[3]。そのスタイルが店の入口のように見えることから、鉄道ファンには「喫茶店」と呼ばれていた[4]。

塗装は831形まではブルー系であったが、851形では1001形以降と同じく茶色となった[4]。社章も小型化され、側面の車両番号は片側に1箇所ずつとなった[4]。

行先表示器は831形では正面の運転台窓の上にあったが、851形では側面の運転台側乗務員扉の上に移動した[4]。通風器は通風効果向上のため1129・1130号で試用されたガーランド型を本格採用し、屋根上に左右2列の配置とした[4]。

851形の計画時には車体長19m、車体幅2,800mmの大型車として製造することも計画されていたが、競合する阪急の三宮延長に対抗するため、施設改良に時間がかかることから831形をモデルチェンジした小型車となったという経緯がある[1]。結果的に阪神の車両大型化は1954年の3011形の登場まで20年近く実現しなかった[4]。

車内

小型車であるものの収容力の増加も配慮されており、1101系で全室式であった運転台は851形では半室式となった[4]。運転台として使用するときには曲面ガラスを用いた仕切扉で客室と分離、車掌台や貫通路部分は乗客に開放することで収容力の拡大を図っていた[4]。中間車に組み込まれる時は仕切扉を畳んで運転機器を覆い、運転台にも客を入れられるようにしていた。車掌台側の乗務員扉の横の客室部分には小窓が設けられた[4]。

騒音の大きい地下線内を走行することから、日本初の車内放送装置が設置された[4]。

主要機器

性能は831形とほぼ同様である。台車は汽車製造製ボールドウィン78-25AAを装着した[2]。ローラーベアリングが本格採用されたほか、831形841・842で試用された両抱き式ブレーキも搭載されている。

モーターは東洋電機製造製TDK-513T[5]、制御器は芝浦製作所製のRPC-51、ブレーキはAMM自動空気ブレーキであった。連結器は急行車共通のバンドン式密着連結器で、従来車はアメリカのバンドン社製であったが、851形からは国産の神戸製鋼所製となった[4]。

集電装置は当初よりパンタグラフを装備し、芝浦製作所製RPG-17Fを採用した[4]。パンタグラフは一部の例外を除き、奇数車は大阪向き、偶数車は神戸向きに取り付けられた[4]。

形式別概要

各形式の概要については以下のとおりである。

851形

1936年4月からの神戸市内地下線元町延長に伴う運用増に伴い、1936年2月に851 - 857の7両が日本車輌製造で製造された[2]。新車としては7年ぶりの製造であった[6]。

ラストナンバーの857は台車にカバーを取り付けた姿で登場し、そのために乗務員扉下のステップがなく、屋根上に釣合空気溜を移設していた[7]。カバーを取り付けた理由は不明ではあるが、騒音や粉塵の飛散防止が目的であると推測されている。カバーはほどなくして取り外され、機器の配置も他車と同一になった。

861形

1936年には元町まで路線が延長され、続いて1937年の日中戦争勃発による沿線への軍需工場への需要が増加したことで特急を中心に利用者が大幅に増加、更なる増発・増結が求められるようになった[8]。このため、1937年7月には851形の仕様を若干変更した861形861 - 877の17両が川崎車輌で新造された。

車体は溶接構造となり、851形では若干残っていたリベットが省略された[2]。正面の雨樋を直線に変更した。同時期に登場した併用軌道線(国道線・甲子園線・北大阪線系統)の71形「金魚鉢」とともに優れたデザインと評されており、鉄道ファンの間では最も戦前の阪神本線車両らしいものであるとの認識がなされている[8]。

ブレーキ装置はA型動作弁を使用する日本エアブレーキ製AMA自動空気ブレーキ、パンタグラフは1001形ほか鋼体化車と同じ東洋電機製造製のPT-11Aが採用された。台車はスウェーデンのSKF社製ローラーベアリングを使用した川崎製ボールドウィン78-25AA台車が装着された[9]。

881形

1939年3月には梅田駅の地下化に伴って更に利用者が増加、特急・臨時急行の輸送力増強が喫緊の課題となったため、同年6月に鉄道省に対して台車の軸受をプレーンベアリングに変更した881形30両の増備申請を行った[10]。しかし、鉄道省からの製造認可がなかなか下りなかった[10]。

阪神では客室面積が省線電車のモハ41形の6割しかないことや、小型車ゆえに大出力モーターを搭載できないためMT編成を組成できないとの理由からやむなく全車電動車として申請していると説明した[11]。鉄道省側からは「車両が足りないというのであれば、併用軌道線用の車両を新設軌道線で運用できないのか」といった照会があったとされる[11]。この30両の認可が降りたのは1939年12月で、全車川崎車輌において製造が開始された。

物資統制が厳しくなったこともあって、最初の15両が登場したのは1941年8月の中等学校野球輸送(大会は地方大会の途中で中止)からであった。戦時体制に入ってからの就役となったことから、併用軌道線の201形同様、それまでの車両から内外装とも簡素化された形で登場した。

車体は当初設計から大きく変更され、灯火管制に配慮するため幕板部の明かり窓を廃止した[12]。乗降時の混雑緩和を図るため、扉の幅を従来の1100mmから1220mmに拡大、それに伴って車掌台後ろの小窓の幅を550mmから315mmに縮小、ウインドシルが平帯となった[11]。屋根は、運転台上部の水切りがなくなったほか、キャンバス張りとなった。座席定員も従来の46名から8名減少した38名となり、袖仕切がパイプ製のものとなった[11]。室内灯が従来の中央に配置したグローブ型から、管球を左右2列配置した形に変更した。

モーターを東洋電機製造製のTDK-596A[13]に変更した。台車は川崎車輌製のボールドウィン78-25AAであるが、軸受は第二次世界大戦の影響でローラーベアリングの輸入が困難になったためプレーンベアリングに変更された。搭載したモーターの関係でホイールベースが2030mmに延長され、バネ構造及びイコライザーの形状が変わったが、台車形式名は変わらなかった[11]。

連結器はバンドン式であるが、電気連結器を取り付けた。併用軌道線の71形における使用実績を受けたもので、バンドン式連結器の両側に設置された[14]。

1942年には残り15両が登場したが、そのうち10両(896 - 900,902 - 904,908,909)は太平洋戦争中の資材不足のため、暫定処置として阪神初のモーターなし車両(制御車)として登場した[12]。主電動機は搭載されていないが、パンタグラフや空気圧縮機などは搭載されていた[15]。

その後、1942年に881形15両の新造計画が立てられたが、実現しなかった[15]。このため、同年に登場した896 - 910の15両が阪神における車長14 - 15m級の小型車最後の新造車となった。

改造・変更

電動車と制御車の番号振替

881形は電動車・制御車で車両の番号が混在しており、制御車にもパンタグラフを搭載していたため、増解結時に制御車だけを切り離して本線上で立ち往生、といった事態が発生した[14]。このため、登場後間もなく制御車と電動車の番号振替を実施した。番号は896 - 900を電動車に、901 - 910を制御車に整理し、制御車のパンタグラフを取り外した[14]。

この時に896が偶数車ながら大阪側にパンタグラフを搭載し、901が逆に神戸側にパンタグラフを搭載スペースがあるという、通常の車両と逆配置で登場した[15]。

電気連結器の撤去

電気連結器を装備していた881形は当初は同形車のみで編成を組み、他形式との併結運転の際はジャンパケーブルを使用した。しかし電気連結器は床下機器が狭く母線の振り分けが困難なこと、ガスケット(パッキン)の交換が不便なこと、降雨時にはデッドアース(短絡)が発生するなどの不具合があり、初期不良とはいえ以後は採用されなかった[14]。881型のみの編成でも再びジャンパ栓とケーブル使用に戻されている。

第二次世界大戦後には904の下り方にのみ電気連結器が残されていた[14]。その後、阪神では電気連結器は2006年に登場した1000系まで採用されなかった。

被災復旧車

太平洋戦争末期の1945年になると、戦災の上に事故が重なった。4月23日未明に三宮駅構内で発生した火災によって、851形各形式のうち856・862・876・884・885・888・892・898・904・905の10両が全焼した。6月15・22日の尼崎空襲では883・895が半焼、874が中破した。戦後の1947年7月には住吉駅 - 御影駅間の架線切断によるデッドアースで853が全焼した。

これらの車両のうち三宮構内被災車は1946年6月29日付でいったん廃車されたが、1948年までに制御車として車籍復活した。その後1952年までの第二次整備で電動車として復旧した。この他、881形の未電装車輌のうち、被災車904,905以外の8両は1948年に電装取り付け工事が実施され、晴れて電動車となった。1948年6月には897と制御車として復旧したばかりの904が尼崎車庫構内の火災が延焼して全焼、再度工場で復旧工事が施された。

戦後の各種改造

1947年ごろから数年間は窓周りをクリームイエローに塗ったツートンカラーの車両が登場したほか、側面のナンバーの字体も現在の縦長ゴシックとなった。

1954年の3011形に始まる大型車の投入に伴い、乗降用扉に張り出し式のステップが設けられた[16]。同年12月15日に発生した摂津車輌の火災においては864,871,883,905の4両が被災し、そのうち864と905の2両は翌1955年12月15日に廃車された。905が電動車として運用されたのはわずか数年であった[17]。

1956年までに正面のエアインテークに標識灯を増設し、車内照明を蛍光灯に改造した。行先表示は表示板を使用することになり、乗務員扉上の方向幕は埋められた[18]。

801形の制御器を1101,1111,1121形のPC-5に換装したことから、1957年までに被災復旧車はPC-4A、その他の車両はPC-Hと、自動加速専用に簡素化された制御器に換装した。この他、1958年には阪神パークで開催された科学博をPRするために881形5連の車体をクリームイエロー、屋根をグレーに塗った特別塗装車を登場させた。

1963年には851・852の2両が着脱式のステップを取り付けて武庫川線の運用に充当されるようになった。その後、851,861形全車と881形の一部の台車が801,831形の廃車発生品の台車と交換され、捻出されたボールドウィン台車は7801系の付随車である7901形のうち34両に流用された[12]。

851,852の廃車後は881,882が武庫川線運用に充当されるようになったが、大型車に合わせて車両限界が拡幅されたためステップ付きで入線した[19]。881は武庫川車両工業への入出場車の牽引にも使用されており、牽引時にはバンドン式連結器を一時的に撤去して木材の棒で連結していた[19]。

運用

851形は1936年3月の神戸市内地下線元町延長に合わせて登場し、801,831形などと混結して3 - 4連で特急運用を中心に充当された。翌月に三宮延長を果たした阪神急行電鉄の900系・920系や、同じく4月から阪神の元町延長に対抗して急電を元町駅に停車させるようになった、省電の代表車であるモハ52系、モハ42系を向こうに回して三つ巴の激しい乗客獲得競争を繰り広げることとなった。

翌年の861形増備後からは同形式で基本3連と付属2連を組成、付属編成の増解結をこまめに繰り返すことによって3 - 5連のきめ細かな運用を行っていた。創業以来阪神は全車電動車であり、ラッシュ時の5連運用においても全車がパンタを上げて走行する姿が見られ、迫力あるものとして鉄道ファンの羨望の視線を浴びた。

881形の第一次増備車が登場した翌年の1942年3月16日から、急行系車両の6連運用が開始された。しかし、第二次世界大戦の影響による故障車両の増加による車両不足のため、1943年7月10日から再び5連運用に戻った。

終戦直後には稼働率が極端に低下、国道線で代行輸送を行うところまで落ち込んだ。しかし、終戦からわずか4ヶ月後の1945年12月30日には関西大手私鉄では戦後初の急行運転を開始した。また、この時期には在籍車両の半数近くが被災した601形や電装品の故障に悩まされて車両の稼働率が低下した1001形各形式の応援に、801,831形ともども普通運用に充当されることもあった。

1949年5月には5連運用が復活、1950年には梅田 - 三宮間の所要時間が戦前並みの36分まで短縮した。同年秋にはジェーン台風の被害を受けたものの、1952年までには戦前の最盛期に近いレベルまで復興した。

1954年の3011形に始まる大型車の登場以降も、851形各形式は5 - 6連で急行や準急を主体に運用を続けた。普通用の「ジェットカー」量産車である5101・5201形登場前にはラッシュ時の普通運用に投入されることもあったほか、2連で西九条開業前の伝法線(現在の阪神なんば線)の運用にもつくことがあった。1963年2月のダイヤ改正で小型車の運用が朝ラッシュ時限定となり、一時転入していた71形が併用軌道線に引き上げた武庫川線には851・852が転用された。

851形各形式の淘汰は1964年から開始され、5月に875,877の2両が廃車されたのを皮切りに6月に867・893・899・907・910の5両、8月に884・885・888・906・909の5両、9月に863・876・891・904の4両が廃車され、1965年には6月に851・865・869・871・890・892・901の7両、8月に856・862・870・874・887・897の6両、11月に853・861・868・873・883・898の6両が廃車された。この時点で851形各形式は17両が残るのみとなった。

1964年11月8日午前7時38分甲子園駅発の梅田行き区間急行を最後に阪神本線から撤退、同列車は約1,200人にも及ぶ満員の乗客を詰め込んで梅田駅に到着、何のセレモニーもなく静かに運用を終えた。武庫川線では851・852から881・882に置き換えられ、この2両が阪神最後の営業用小型車となった。

しばらくは予備車として残留していたが、12月に852・854・855・857・866・872・886・908の8両が廃車、1966年には残った9両のうち900・902・903の3両が廃車、882・889・894 - 896の5両が休車となって、営業車として残ったのは武庫川線用の881のみであった。休車のうち889・896の2両は4月に廃車、残った3両も11月に廃車された。

武庫川線の運用が1967年3月20日から3301形に置き換えられたため、阪神の小型車の旅客営業運転も終了した[20]。881は保留車となった後、同年9月11日付で廃車[21]された。これにより大手私鉄で初めて吊掛車が完全に淘汰されたと同時に、ここに創業以来60数年に及ぶ阪神電鉄の小型車の歴史に幕を下ろした。

私鉄譲渡

一部車両は地方私鉄に譲渡されている。その概略は以下の通り。

京福電気鉄道(福井支社)

京福電気鉄道には福井支社(現えちぜん鉄道)へ861形3両(867,875,877)が譲渡され、同社のホクハ31形となった。

主に元京王デハ2400形のホデハ261形と東西大手私鉄の小型車同士という組み合わせで使用された。両運転台構造であるが、片側は京王車の間接非自動加速、もう片側は京福福井オリジナル車の間接自動加速に対応する、異なる主幹制御器を装備していた。1974年の越前本線勝山駅 - 京福大野駅廃止時まで使用された。

野上電気鉄道

野上電気鉄道には861形4両(869,870,871,874)が譲渡された[14]。874の電装を解除し、台車を交換してクハ201形201として竣工、871,869は台車・主電動機および集電装置を他社からの譲受品に変更し、それ以外の電装機器はそのまま流用してモハ51形51,52として竣工した。

しかし、流用した電動機の調子が思わしくなく、しかも床下機器が阪神時代のままで他車と連結出来ない為、運用が限定されたものとなり、やがて次第に使用されなくなり、早くも1972年頃には休車となってしまった。結局、野上では殆ど使用される事なく、1974年に廃車解体された。同時に入線した870は、車輌としては使用されず、他の3両とともに解体された。

高松琴平電気鉄道

高松琴平電気鉄道には881形16両(881,882,890,892 - 895,899 - 903,906,907,909,910)が譲渡され、30形(2代)となった。内訳は881,902,903,900,893,899,910,907,906,909,890,892,901→27 - 39と882,895,894→55 - 57である。

譲渡後、当初は志度線で使用されたが、志度線の1500V昇圧後全車長尾線で使用された。1976年12月26日に長尾線も1500Vに昇圧されたために、譲渡から約10年後の1977年1月17日付で全廃されたが、下回りは車体の数よりも多く導入され、元京急デハ230形の30形(3代)電動車等、長尾・志度線旧型車に多用された。現在も動態保存車等に使用されている。

エピソード

阪神電気鉄道881→琴電27の前面扉 尼崎市立歴史博物館
  • ニックネームは有名な「喫茶店」のほか、「床屋さん」とも呼ばれていた[22]。また、ファンや利用者の中にはデパートや食堂などの出入り口を連想することがあったという。
  • 小型車といえども、パンタグラフを林立させて5 - 6連で快走する851形各形式の姿を、阪神タイガースの名遊撃手で牛若丸とあだ名された、吉田義男の小柄な姿と華麗で素早い守備にダブらせて回想するオールドファンもいた。
  • 戦後になると敗戦と食糧不足の腹いせから乗客によって窓ガラスが割られるという事態も発生したが、阪神では百貨店のショーウインドウガラスを転用するなどして、その整備に尽力した。
  • 851形各形式は、芦屋市で生まれ育ち、阪神電鉄に良く乗った鉄道ライターの川島令三が、幼年期からよく好んだ車両でもあった。
  • 東急東横線・祐天寺駅近くにあるカレーショップ「ナイアガラ」には本形式の貫通扉が店舗内ドアとして使用されている。
  • 琴電27(元881)は廃車後、西宮市在住の男性が貫通扉を譲り受け保管していた。この貫通扉は2026年3月に尼崎市立歴史博物館へ寄贈され、同館で常設展示されている[23]。

脚注

参考文献

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks