東国大学校時代の1982年世界野球選手権大会に出場し、決勝の日本戦でサヨナラホームランを放つなど活躍。
卒業後、OBベアーズへ入団。初出場の試合で3打点を挙げ、鮮烈なデビューを飾った。しかし、結果を残せず肝炎を患ったり、当時の金星根監督と不仲になるなど散々だった。
1986年からヘテ・タイガースへ移籍[1]。すると、勝負強い打撃で4番へ抜擢され、ヘテ4連覇へ貢献。本人が在籍時のヘテは、6度の優勝を果たすなど当時の最高の打線とも言われた。また、勝負どころに強く、短い在籍期間の中でも、幾多の決勝打を放ち、「解決士」のあだ名を得ていた。
1993年12月4日に、3対2のトレードでLGツインズへ移籍。サードのレギュラーとして活躍し、2度の優勝を経験し自身も史上最多の通算8度目となるゴールデングラブ賞も1994年に受賞。
1997年にサンバンウル・レイダースへ3たび移籍。OB時代から仲が悪かった金星根監督と再び揉め、43試合しか出場できず現役を引退。史上最多となるファン投票選出の3塁手部門で11回オールスター戦にも出場した。
母校東国大学校野球部の監督に就任。プロ野球選手の中で彼の門下生は、朴漢伊・朴正権など。
2004年は、ヘテ時代からの旧知の仲でもある宣銅烈率いる三星ライオンズの打撃コーチに就任し、翌2005年にヘッドコーチへ昇格。
2009年シーズンオフ、金寅植の後継者としてハンファ第8代監督に選任され、本人も承諾。ハンファの本拠地、大田広域市出身者が監督を務めるのは球団初のことであった。チーム内から高く期待され、他球団からは上位進出とも囁かれた。だが、主力級の選手が昨年オフから兵役に就いたこともあって、苦戦を余儀なくされる。結局、2010年は球団史上初の2年連続最下位に終わる。
2011年も最下位は当然だと開幕前の評価は低かったが、カリーム・ガルシアやデニー・ボーティスタといった外国人選手の活躍もあり、LGと同率6位でシーズンを終え上昇の兆しを見せた。
だが2012年は序盤からずっと最下位のままで、シーズン途中ながら成績不振で8月28日に辞任した。
2013年より起亜の2軍監督に就任し、ヘテ時代以来20年ぶりの古巣復帰となった。
2014年より起亜の首席コーチとなったが同年限りで退団。
2015年より韓国野球委員会(KBO)の運営委員としてプロ野球の試合進行などにかかわっている。