鹿野藩

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鹿野藩(しかのはん)は、因幡国気多郡鹿野城(現在の鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)を居城とした[1]。織豊大名として当地に配された亀井氏が、1581年から1617年まで2代37年にわたって鹿野を治めた[2]。その後1640年から1662年まで、鳥取藩に預けられた池田輝澄(元・播磨山崎藩主)が当地で堪忍料[注釈 1]1万石を与えられた。

明治維新期の短期間、鳥取藩の新田支藩(鳥取東館新田藩)が鹿野を居所として「鹿奴藩」を称している[1]。この藩については当該記事参照[注釈 2]

前史

鹿野藩の位置(鳥取県内)
鹿野
鹿野
鳥取
鳥取
関連地図(鳥取県)[注釈 3]

戦国時代の鹿野

鹿野は因幡・伯耆両国の境目の要地であり、戦国期にはたびたび争奪の対象とされたが[7]、天正元年(1573年)には毛利氏の支配下に入った[7]

入封までの亀井茲矩

亀井茲矩は出雲国の戦国大名であった尼子氏の家臣・湯永綱の子である[8]。永禄9年(1566年)に尼子義久が毛利氏に降り(第二次月山富田城の戦い)、戦国大名としての尼子氏は滅亡するが、茲矩は山中幸盛らの率いる尼子再興軍に加わった[9]。天正2年(1574年)[10]山中幸盛の養女(実父は亀井秀綱で、茲矩は亀井名字を称した[10][注釈 4]と結婚。天正6年(1578年)に山中幸盛が死すと、幸盛の娘婿であった茲矩が尼子再興軍を率いた[12]

寛政重修諸家譜』によれば、天正8年(1580年)春の時点で羽柴秀吉から武田孫五郎(武田助信?)・赤井忠家・福屋彦太郎(福屋隆兼? 里村隆兼?)・亀井茲矩の4人が鹿野城番に任じられたとあり、茲矩は鹿野に攻め寄せた鳥取城兵と戦ってこれを退けたという[13](この前後の状況については鳥取城#秀吉の鳥取城攻略戦も参照)。

亀井氏の藩

天正9年(1581年)10月、鳥取城を陥落させた羽柴秀吉は、亀井茲矩因幡国気多郡で1万3500石を与え、鹿野城主とした[1]。茲矩は鹿野城の改築と城下町の建設を行った[7]。また、天正16年(1588年)には日光池の干拓工事を行う[注釈 5]など、領内の開発にあたった[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて茲矩は東軍方についた[1]。本戦後に因幡国および伯耆半国の平定(城受け取り)を命じられ、小出吉政別所吉治赤松広英の援兵を付けられて任務を完遂した[11]。この功績によって[11]因幡国高草郡内で2万4500石を加増され、合計3万8000石を領することとなった[1][11]。茲矩は高草郡においても、大井手用水の開削や、湖山池の干拓を行い、領内の開発を進めた[1][2]。大井手用水は、灌漑用水が不安定でしばしば干害に見舞われていた千代川流域千町歩を潤す約20kmの水路で[2]、工事には慶長7年(1602年)から7年の歳月を要した[2]。開削に関しては取水口となる河原(現在の鳥取市河原町河原)[注釈 6]周辺の八上郡布袋村(鳥取市河原町布袋)などと、良港である賀露(現在の鳥取市賀露町。鳥取港参照)の一部を、鳥取藩池田長吉池田輝政の弟)と交換した[2]

また、茲矩は朱印船貿易にあたった大名の一人としても知られる[1][2]。慶長12年(1607年)8月15日に朱印状を受けた茲矩は、庶子の鈴木八右衛門を総奉行に任じて長崎に派遣し、大船を建造した[2]。茲矩は3度にわたってシャムに朱印船を派遣して貿易を行った[2]。しかし慶長14年(1609年)に幕府は西国諸大名が所持する500石積以上の大船の破却を命じたため、茲矩の大船も慶長15年(1610年)に淡路島沖で破却されたという[2]

茲矩は慶長14年(1609年)1月に隠居し、家督を政矩に譲った[2]。政矩は家督相続以前より徳川家に出仕しており、伯耆国久米・河村2郡内5000石を知行していたが[11]、これらも鹿野藩領に加えられ、合計4万3000石となった[1]。慶長17年(1612年)1月26日、茲矩は鹿野城で病没した[2]。茲矩は武蔵山(鳥取市気高町山宮・同市鹿野町宮内の境界付近)に葬られた[15]

元和3年(1617年)7月20日、政矩に石見津和野藩への転封が命じられた[1][2]。これは、池田光政池田輝政の長男・利隆の子)が因伯両国32万5000石を治める大名として鳥取藩に入封することにともなう措置である。

亀井家の移転は急いで進められ、政矩は8月13日に津和野城に入城した[2]。鹿野城にあった荷物は酒津(鳥取市気高町酒津)・青屋(鳥取市青谷町青谷)・泊(東伯郡湯梨浜町泊)に建てた蔵に収納したが、それらをすべて津和野に送り終えたのは、20年ほど経った寛永年間(1624年 - 1644年)半ばだったという[2]

池田輝澄の藩

池田家略系図
池田恒興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長吉
 
 
 
 
 
 
 
輝政
 
 
 
督姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利隆忠継忠雄輝澄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光政
 
 
 
光仲政直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綱清仲澄清定

寛永17年(1640年)7月26日、播磨山崎藩(6万8000石)の藩主・池田輝澄(輝政の四男)はお家騒動(池田騒動)を起こしたことにより領地を没収され、甥にあたる鳥取藩主・池田光仲(輝政の三男・忠雄の子)に預けられた[1][16]。輝澄には鳥取藩領から堪忍料として1万石を与えられ[1][16]、鹿野に籠居した[16]。鹿野藩の再立藩と見なされる[1]。光仲には代地として播磨国神崎郡内で1万石が与えられた[17]寛文2年(1662年)4月18日、輝澄は鹿野において死去した[16]

輝澄の子・政直は万治元年(1658年)に赦免を受け[16][18]徳川家綱への御目見や叙任も済ませており[16]、寛文2年(1662年)9月25日に遺領の継承を認められた[16]。ただし領地は播磨国神崎郡・印南郡内に移された(福本藩[1][16][18]。鹿野藩領は鳥取藩領に戻され[17]、播磨国内の代地は収公された[17]

鳥取東館新田藩(鹿奴藩)

貞享2年(1685年)に鳥取藩主・池田光仲は二男の池田仲澄新田として2万5000石を分与し、仲澄は大名に列した[1](その後、さらに5000石の分知を受け合計3万石)。のちに仲澄の弟・池田清定も新田分知をうけて大名に列する。鳥取新田藩(因幡新田藩)と呼ばれる2つの藩の成立である。仲澄の家は「東館(ひがしやかた[19])家」と呼ばれたため[1][注釈 7]鳥取東館新田藩と呼ばれる。2つの新田藩の居所は鳥取とされる[20][21]。実際には支配する所領はなく、財政は本藩からの蔵米支給によって運営されており[1][22]、独立した藩としての性格は薄かった。本藩藩主と同様に松平名字を許された。

大政奉還後の明治元年(1868年)12月10日、東館新田藩は鹿野(鹿奴)を居所ととなえ、「鹿奴藩」と称した(「鹿野藩」[1][19]「鹿野新田藩」[1]とも)[注釈 8]。ただし、新政府はこれを公認しなかった[19]。明治2年(1869年)6月に諸侯(大名)の称号が廃止され、藩主池田徳澄華族に位置づけられた。同年、この藩は廃止されて本藩である鳥取藩に編入された[1]

のちに徳澄の継嗣・池田源子爵に叙せられる。この家は「旧鹿奴藩主家」「鹿奴池田家」と認識されるようになり、鹿野と関係を有しなかった江戸時代にさかのぼって鳥取東館新田藩を「鹿奴藩」と表現することがある。

歴代藩主

亀井家

3万8000石→4万3000石、外様(1600年 - 1617年)

  1. 茲矩
  2. 政矩 4万3000石に加増
池田家

1万石、外様(1640年 - 1662年)

  1. 輝澄

領地

脚注

参考文献

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