黒田健吾

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国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県
生年月日 (1907-10-28) 1907年10月28日
没年月日 1979年
黒田 健吾
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県
生年月日 (1907-10-28) 1907年10月28日
没年月日 1979年
身長
体重
167 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1936年
初出場 1936年4月29日
最終出場 1942年11月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

黒田 健吾(くろだ けんご、1907年10月28日 - 1979年[1])は、岡山県[2]出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手

関西中学校出身。同級生には、後に阪急で共にプレーする井野川利春がいた。新国劇では4番打者兼エース投手で、「一刀両断の黒田」と呼ばれた。

1936年名古屋金鯱軍へ入団し、主将をつとめた[2]。しかし球団と対立したため同年の秋季リーグからは阪急軍へ移籍[2]。堅実な三塁守備は「黒田のあり地獄」として恐れられ[3]、相手打者が走らないとわざと捕手へ送球して打者を走らせた[4]。阪急軍でも1938年からは主将をつとめた[2]1938年9月4日東京セネタース戦(後楽園球場)では、戦前の粗悪なボールでは珍しい1試合2本塁打を放っている。1940年4月6日南海戦(西宮球場。32-2で勝ち、プロ野球歴代最多得点記録を樹立した試合)では山下好一と共に、チーム最多の5得点を記録した[5]1942年に退団。

戦後はプロ野球界に戻らず、全神戸の選手として1948年には41歳という年齢で都市対抗野球に出場(9番・三塁手)した[2]。ノンプロの三輪運輸工業でもプレーをした後、現役引退。高校野球審判員にも携わった。黒田の娘の孫に当たる人物が開設しているブログ[6]によると、1979年(詳細な月日は不明)に死去。数え73歳没。

珍しい記録としては戦前〜戦後に活躍した選手を除き、戦前のみで通算打席及び通算打数が2000を超えているのはこの黒田のみである。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1936春夏 金鯱 1259526131001464--0--7--02--.250.339.269.608
1936 阪急 221018413110001153--5--12--09--.131.240.131.371
1937 492271882947700542411--9--28--27--.250.353.287.640
1937 49232201314970262188--9--21--118--.244.318.308.627
1938 35163138213260450204--1--24--010--.232.346.362.708
1938 401821682947534701912--0--14--010--.280.335.417.752
1939 7430826230571101713213--4238--218--.218.321.271.592
1940 10242736540781010902921--5547--531--.214.312.247.558
1941 843693033460603752315--10--55--123--.198.323.248.571
1942 10546538925831501101422323--72--132--.213.338.260.597
通算:7年 57225332150258477684155982181142467318--12160--.222.325.278.604
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1940 阪急 1000000--------123.0003--0100000.001.00
通算:1年 1000000--------123.0003--0100000.001.00

背番号

  • 6 (1936年)
  • 24 (1936年 - 1942年)

出典

関連項目

外部リンク

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