2025年-2026年イラン抗議デモ
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| 2025年-2026年イラン抗議デモ | |||
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| アジアZ世代抗議デモ、イラン経済危機内で発生 | |||
| 日時 | 2025年12月28日 - 現在 (3か月と5日) | ||
| 場所 | イランの主要都市(テヘランなど)や多数の都市[1]。 | ||
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| 現況 | 進行中
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| 抗議活動は経済問題に焦点を当てて始まったが、その後イスラム共和制の打倒を求める方向に変化した。 | |||
2025年-2026年イラン抗議デモは、イランにおいて、2025年12月28日に政府に対する広範な不満と経済危機が深まる中、複数の都市で勃発した大規模な反政府デモ。当初は物価の安定と生活必需品の確保を要求するために始まったこの抗議活動は、デモが全国に拡大すると、生活苦に加えて政府・体制への不満も表出。急速に現在の政治体制の終焉を求める広範な運動へと発展した。この反政府デモにより、イラン国内は政治的に極めて不安定となり、イラン・リヤル紙幣の深刻な下落を引き起こすなどの影響を与えている。
首都・テヘランの商店主や商人から始まったデモは、やがて大学に広がり、全国から多数の学生が参加した。デモ参加者らは「ハーメネイーに死を」「パフラヴィー朝が戻ってくる」といった反政府スローガンを掲げ、権力者への不満と広範な政治的要求を表明した[21][22]。
この運動は、マフサ・アミニの死で、2022年から2023年にかけて発生した抗議活動以来、イランにおける最大規模の騒乱となった[23][24][25]。死者数については時期や発表する組織によって開きがあり、イラン政府当局は2026年1月21日にデモ関連の死者数が3,117人に達したと公式に発表した一方[26]、1月25日にはロンドンに拠点を置くペルシア語衛星テレビ放送局イラン・インターナショナルが、1月8日から9日に限っても治安部隊が3万6500人以上のイラン人を殺害したとしている[27]。
抗議活動の波は、急速に悪化する経済状況によって引き起こされた。2025年10月にはインフレ率が48.6%、12月には42.2%に急騰し、家計を圧迫した。12月29日、イラン・リヤルは対米ドルで過去最安値(1ドル=145万リヤル)を記録したが、政府は1月3日、国民をなだめるためにリヤルを1ドル=138万リヤルに引き上げた。しかし効果はなく、1月6日にはリヤルは再び過去最安値を更新(1ドル=150万リヤル)し、食料品やその他の必需品の価格が急騰した。
当初はテヘランの商業地区に集中していた抗議活動は、イスファハン、シーラーズ、マシュハドといった主要都市にも拡大した。テヘランでは、抗議活動はグランドバザールを中心に展開され、商人たちは政府の対応を求めてストライキを行った、SNSで共有された映像では、治安部隊がデモ隊を解散させるために催涙ガスを使用している様子が映し出されていた[28]。
デモが規模を拡大するにつれて、複数の都市の抗議者たちは「自由」を求める声や、政府への明確な反対の意思表示など、政治的変革を求めるシュプレヒコールを叫んだ。
2026年1月6日、イラクのシーア派民兵組織約800人が、イランでの抗議活動鎮圧を支援するために派遣されたと報じられた。
背景
イラン経済危機
2024年以降、イラン経済は急激なインフレ、通貨価値の下落、エネルギー不足に直面し、度重なる電力・ガス供給の停止に至った。これに伴い、イラン大統領マスウード・ペゼシュキヤーンは国民に対して謝罪を行った。また、主要な同盟国であったシリアのアサド政権の崩壊などにより、イランは国際的影響力の大幅な低下も被ったとされる[29]。
2025年末には、為替相場が前例のない水準で急騰し、米ドルに対するイラン・リアルは約14万5,000トマンに達するなど、著しい通貨安が進行した[30][31]。さらに、同国の国家統計センターによれば、2025年12月のインフレ率は42.2%で、11月から1.8ポイント上昇した[23]。食料品価格は前年同月比で72%上昇し、保健・医療関連品の価格も50%上昇した[23]。また、イランは水資源管理の失敗による深刻な水不足にも直面している[24]。イラン国内メディアの報道によれば、政府はイラン暦新年が始まる3月21日から増税を実施する計画を立てており、これが市民のさらなる不安を招いたとされる[23]。抗議運動の一部では、経済的困難を政府の外交政策上の優先事項への批判と結びつける主張も見られた。

2025年12月のデモでは、「ガザでもレバノンでもなく、我が命はイランのために」といったスローガンを叫ぶ参加者もいた[32]。イラン国内の不満は政治腐敗にも起因していると指摘されており、抗議者らはイラン政府を権威主義的であると非難し、ヒズボラやハマースといった代理勢力を国内の要求よりも優先していると批判した[25]。
経済分析家らは、政府の金融・財政政策、経済政策の失敗、慢性的な財政赤字、ならびに国際社会からの制裁の継続を、主要な要因として挙げている。これらの状況は、とりわけ輸入に依存する事業者を中心に、商工組合や同業者組織に直接的な影響を及ぼした。深刻な為替相場の変動により、多くの商人は商品の価格設定ができず、仕入れの確保や事業活動の継続が困難な状況に追い込まれた[33][34][35][28]。
武力衝突
2025年を通じて、イラン国内では経済的不確実性が拡大した。2025年6月には、イラン・イスラエル戦争が発生し、その過程でイランの核開発計画が標的となり、核関連施設がアメリカ合衆国によっても攻撃を受けた[36][23]。さらに、2025年9月には、国際連合がいわゆる「イラン制裁の強制復活」を通じて対イラン制裁を再発動し、海外にあるイラン資産の凍結、武器取引の停止、弾道ミサイル計画に関連する制裁措置が課された[23]。多くのイラン国民は、アメリカ合衆国を巻き込むより広範な軍事衝突への発展を懸念しており、これが市場の不安定化を招いたとされている[23]。
ガーディアンによれば、経済危機が抗議運動の直接的な引き金となったが、抗議は次第に政府の腐敗に対する不満を表明するものへと拡大したとされる[37]。同紙はさらに、政府の打倒を求める声や、政府による対話の呼びかけに対する不信感が広がっており、それらが自己都合的で欺瞞的なものと受け止められているとも報じている[37]。また、NPRは、抗議運動が始まる数か月前から、深刻なエネルギー不足、市民的権利の侵害、広範な汚職を背景に、国民の怒りと不満が高まっていたと伝えた。抗議の発生により、事態がより深刻な状況へと悪化するのではないかとの懸念が生じたとも報じられている[38]。
アトランティック誌によれば、抗議運動の政治的性格は、最高指導者アリー・ハーメネイーを指して「独裁者に死を」と唱えるスローガンや[39]、2024年に善政を掲げて当選したペゼシュキヤーン大統領に対する信頼喪失に表れている。同氏は水道・電力供給の停止を監督し、インターネット検閲の解除という公約を果たせなかったと報じられている[39]。ペゼシュキヤーン大統領は抗議運動の代表者と面会する意向を示し、「平和的な抗議活動の憲法上の権利」を認めたものの、イラン治安部隊に対する統制権を有していないとされる。2026年1月1日までに、数十人の抗議参加者が逮捕され、学生、年金生活者、Z世代の若者を含むデモ参加者に対して、治安部隊が実弾を発砲したとする複数の事例が記録された[39]。また、シャヒード・ベヘシュティー大学の学生らは声明を発表し、「この犯罪的な体制は47年にわたり、私たちの未来を人質に取ってきた。改革や虚偽の約束によって変わることはない」と述べた[39]。
以前の抗議活動との比較
以前の抗議活動は、2022年に22歳のマフサ・アミニがヒジャブを不適切に着用したために拘束され死亡したことをきっかけに、全国的なデモが発生して以来、イラン最大のものと報じられている[40]。2025年12月30日、イギリス系イラン人の活動家、エリー・ボルハンは、この抗議活動の波が過去のものよりも力強いと見ている。2022年の「女性・生命・自由運動」および「マフサ・アミニ抗議運動」に対する弾圧以降、イラン国民の政府への信頼は失われていた。以前にも、2025年5月にはトラック運転手による抗議行動が始まり、彼らは低賃金、高額な保険料、そして将来的な燃料価格の上昇の可能性に対する不満から、道路や港を封鎖した[41] 。
イランの最後の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの息子クロシュ・レザー・パフラヴィーは暫定指導者として国政を引き継ぐ意思があると表明し、西側諸国に対し政権交代への全面的な支援を呼びかけている[42]。
市場商人は、1979年のイラン革命においても重要な役割を果たし、最終的に王制の打倒へとつながる世論の動員に寄与したとされる[23]。今回の抗議運動は、著名な反体制派の逮捕を含む、反対派に対する大規模な政府弾圧が進行する中で発生した点でも注目された[36]。報道によれば、イランにおける死刑執行数は2025年に2024年と比べて倍増し、2022年以降、増加傾向が続いているとされる。活動家らは、イラン・イスラム共和国が死刑を用いて国民に恐怖を植え付け、国内の反対勢力を抑圧しようとしていると主張している[43]。
タイムライン

2025年12月28日
12月28日、テヘランのアラエッディーン・ショッピングセンターやチャルスー・モールなど、複数の商業施設において、店主や商人のグループが店舗を閉鎖してストライキを行った[34]。これと同時に、これらの場所の周辺で抗議集会が形成され、広範囲にわたる店舗閉鎖の様子を写した画像や動画がソーシャルメディア上で拡散した。報道によれば、抗議者らは米ドル為替レートの上昇や市場の不安定化を挙げ、こうした状況が続けば多くの中小企業が倒産に追い込まれると警告した。一部の集会は ジョムフリ・イスラミ通りなど周辺の通りへと広がり、同通りでは店主以外の人々も経済状況に抗議して参加したとされる[33][44][45]。また、別の地域では、鉄鋼取引業者らが通貨価値の下落に抗議して店舗を閉鎖するなど、同様の抗議行動が行われた[46]。抗議が始まった時期、イラン・リアルの為替レートは一時、1米ドル当たり145万リアルという史上最安値を記録し、その後138万リアルまでやや回復した[47]。リアルは、米国の制裁による石油収入の減少などを背景として、イラン・イスラエル戦争以降、約40%価値を失っていたとされる。前年同月比のインフレ率は42.2%に達していた。抗議活動は当初、テヘラン中心部で電子機器を販売する店主らが店舗を閉鎖したことから始まった[28]。国営メディアは、当初は比較的小規模であった商人による抗議行動の様子を、ぼかしを入れた映像として公開した[47]。
動画や目撃証言によると、商店の集団が経済政策の失敗を非難するスローガンを連呼し、中には反政府感情を表明する者もいた[44] 。抗議者らはまた、「治安当局よ、支援せよ、支援せよ」と叫び、治安部隊に抗議活動への支援を求めた[48]。抗議者の主な要求には、為替レートの安定、商店の経済的困難への対応、予測可能な事業環境の創出、市場の変動による損失の防止などが含まれていた[33][44]。この日は治安部隊との衝突は報告されておらず、平和的な状況が続いたとされる[49]。
12月29日

抗議活動は12月29日の2日目も続き、グランド・バザールを含むテヘラン各地に拡大した。商店主や小売店主たちは店を閉め、路上に集結し、前例のないリアルの暴落と通貨・金価格の高騰に抗議した。抗議活動参加者は、購買力の低下と生活費の上昇を理由に、経済状況と政府の政策運営に対する反対の声を上げた。オンライン上で共有された動画には、ラレフザール、チャハルスーク、ジョムフリ通り周辺で集会が続く様子が映し出されており、参加者の多くは非暴力的に、政府の経済政策に対する批判的なメッセージを発していた[50][51][52]。テヘランのグランドバ・ザールの商人たちは、前日に抗議活動を開始した電子機器店の店主たちと合流した[28]。
独立系の情報源によって検証された映像には、テヘランのグランドバザール近くのショッピングモールで群衆が「自由」を叫ぶ様子が映っていた[36]。警察は、アラエッディーン・ショッピングセンターの外にいるデモ参加者を解散させるために催涙ガスを使用した[53]。抗議活動はイラン国内の他の都市にも拡大した[54]。2025年12月29日夜、南部のゲシュム、北部のザンジャーンとハマダーンを含むイラン全土の複数の地域で抗議活動が報告された。デモ参加者は、ゲシュム島では「独裁者に死を」、ザンジャーンで「セイエド・アリー(ハーメネイー)は今年中に打倒される」など、最高指導者を批判するスローガンを叫んだ[55][36]。イラン・インターナショナルは、テヘランのジョムフリー・エスラミ通りの真ん中に座り込み、バイクに乗ってきた治安部隊に対して動こうとしない抗議参加者の映像を報じた。その後、抗議参加者は暴行を受け、強制的に退去させられた。この映像はオンラインで拡散し、複数の報道機関が、この抗議参加者と一連の出来事を、1989年の天安門事件における「タンクマン」になぞらえた[56][57][40][58]。
12月30日
抗議活動開始から3日目には、ストライキと治安対策が拡大し、シューシュやモラヴィなどのテヘランの一部地域、そしてイスファハーンのイマーム広場では商店が閉鎖された。テヘラン、マシュハド、そしてK.N.トゥーシ工科大学では厳重な警備体制が敷かれたと報じられた。政府はこれに対し、寒さと電力不足を理由に、テヘラン州を含む11州で一時閉鎖を命じた。治安部隊はハマダーンで抗議活動参加者に発砲し、テヘランとマラードでは催涙ガスを使用した[59][60]。
デモはケルマーンシャー、シーラーズ、ヤズド、そしてシャダバードやシューシュといったテヘランの一部の都市にも広がった。アミール・キャビール工科大学、シャヒド・ベヘシュティ大学、ハジャ・ナシル大学、シャリーフ工科大学、科学文化大学、イラン科学技術大学、イスファハーン工科大学、ヤズド大学の学生たちが集会に参加し、「独裁者に死を」、「ハメネイに死を」、「ガザでもレバノンでもなく、我が命はイランのために」、「私たちは皆共に」、「セイエド・アリー(ハーメネイー)は今年中に打倒される」といったスローガンを唱えた[60][61][62][63][64]。ペゼシュキアン大統領は政府に対し、国民の要求に耳を傾けるよう求めた。これに対し、政府報道官は「コミュニケーショングループ」を設置すると発表した[65][66]。しかし、ペゼシュキアンの発言は、経済安定化だけにとどまらない要求を掲げる抗議参加者たちを鎮めるには至らなかったとされる[63]。さらに、一部のイラン国民は、経済問題の解決にはあまり力を入れられないという過去の政府声明を引用し、経済危機に対する政府の解決能力に懐疑的な見方を示している[67]。人権団体やZ世代の学生団体は、テヘランのシューシュ広場で11人の抗議参加者が逮捕され、学生5人が拘束された後、4人が釈放されたと報告した[68][69][70]。別の報道によると、テヘランのアミルカビール大学でのキャンパス集会に対するイスラム革命防衛隊の民兵組織・バスィージのメンバーによる弾圧によって、学生1人が重傷を負ったという[68]。
ソーシャルメディアに投稿された動画には、学生たちが政府を批判するスローガンを叫んだり、最高指導者の代表事務所に関連する看板を撤去したり、大学の入り口で治安部隊と対峙したりする様子が映っている[68]。
12月31日
イスファハーン、ケルマーンシャー、ファサーの住民は、抗議活動4日目に集結した。ファサーでは、知事室前で大規模な集会が開かれ、ケルマーンシャーでは市場が全面的なストライキに突入した。報道によると、警察は抗議活動参加者に対し実弾と催涙ガスを使用したという[71][72]。同時に、シルヴァンでは、現役教師と退職教師が教育局前に集結した。ケルマーンシャーでは、フェルドウスィー広場からガレージ(約8キロメートル)までに渡り、鎮圧部隊が展開され、治安部隊の厳重な体制が確認された[73]。ファサーでは、知事庁舎前での抗議活動で、マフディ・サマヴァティという人物が殺害されたと報じられた。半国営通信社メフル通信は、ファサー知事がこの報道を否定したと報じた[74]。
12月31日、ロレスターン州クダシュトで行われた抗議活動において、抗議活動家アミルヘサム・ホダヤリファードがイラン治安部隊員に頭部を拳銃で撃たれ死亡した[75]。国営イスラム共和国通信社(IRNA)とメフル紙は死亡を確認し、ホダヤリファードがバスィージのメンバーであったと報じた[76]。政府当局はホダヤリファードの家族に対し、彼がバスィージのメンバーであったことを明言するよう圧力をかけ、ソーシャルメディア上でこの件について沈黙するよう求めた[75] 。発砲は抗議活動家との衝突中に発生した。メフル紙によると、警察官とバスィージのメンバー13人が負傷した[76][77]。
政府は「寒さ」を理由に、全国的に事業の全面停止を命じたが[78]、一部の分析家は、その真の意図は抗議活動を抑えこむことにあると指摘している[79]。この措置はイランの31州のうち21州に適用された[80]。
政府は抗議者を弾圧すると脅し始め[81]、アメリカ合衆国国務省は抗議者が「脅迫、暴力、逮捕に直面する」ことを懸念していると述べた[81][82]。ビデオ映像には、商人、女性権利活動家、学生などの抗議者が「独裁者に死を」「ガザでもレバノンでもなく、我が命はイランのために」というスローガンを叫んでいる様子が記録されている[25][37]。
抗議活動が続く中、イラン政府はモハンマド・レザー・ファルジンの辞任を受け、元経済大臣のアブドルナセル・ヘマティをイラン中央銀行の新総裁に任命した[83]

2026年1月1日
抗議活動5日目、テヘラン中央青果市場の労働者と従業員は業務を停止し、流通サイクルを停止することで全国的な抗議に加わった。「熱意を持って、支援を、支援を」というスローガンを唱えながら、抗議活動参加者は市場関係者と一般市民に対し、ストライキを拡大することで国民の変革への意志を強めるよう呼びかけた。警察官は催涙ガスを使用してデモ参加者を解散させた[84]。報道によると、2025年12月31日に逮捕されていたテヘラン大学法学部教授会書記であり、同大学の教授会メンバーでもあるサリラ・カリミは、2026年1月1日に釈放された[85]。
抗議者たちはマルヴダシュトに集結し、「今年は血の年だ、セイエド・アリーは打倒される」などイスラム共和国政府を非難するスローガンを叫んだと報じられている[86]。マシュハドでは、抗議者たちがサーディ地下鉄駅に集まり、機動隊が武力で群衆を解散させようとしたとされる[86]。
ロル族少数民族の居住地であるロレスターン州では、抗議者たちが路上で火を放ちながら「今年は血の年だ、セイエド・アリーは打倒された」と叫んだと報じられた。また、警察が抗議者たちに対して実弾を使用したとの報告もある[87]。ローデガン郡では、ローデガン市内の複数の場所で集会が開かれ、州知事庁舎や市庁舎広場周辺も抗議活動が行われた。報道によると、緊張が高まるにつれ、一部の人々は政府機関や銀行の建物を破壊しようとした。警察は群衆を解散させるために催涙ガスを使用し、双方の間で衝突が報告された。この騒乱で複数人が負傷し、不確定情報によると複数の死者が出たとされる情報もある[88]。ローデガンでは、少年を含む少なくとも3人が死亡した[89][90]。ゴムには政府軍が多数駐留していた。
1月2日

1月2日、信頼できるメディアの報道によると、テヘラン、ゴム、イスファハーン、シーラーズ、イーラーム、マシュハド、カラジ、ザンジャーン、ハマダーン、ゲシュムで大規模な抗議活動が継続していた[91]。ザーヘダーンとテヘランでは、抗議活動が再び活発化した。治安部隊によって殺害された抗議者の葬儀がフルアシャール、クダシュト、マルヴダシュトで執り行われ、参加者は「ハーメネイーに死を」とスローガンを唱えるなど、政府への抗議を表明した。クダシュトで行われたホダヤリファードの葬儀では、バスィージと革命防衛隊の兵士たちが石を投げられ、スローガンを浴びせられ、葬儀場から追い出された。ホダヤリファードの父親は、息子がバスィージのメンバーではなかったことを確認した[92]。
1月3日
1月3日の抗議行動は、前日よりも地理的に広がり、参加者数も増え、治安部隊の展開も増した[93]。イラン国民抵抗評議会(NCRI)とイラン人権通信社(HRANA)は、デモの場所としてカゼルーン、マレクシャヒ、ケルマーンシャー、シラーズ、マシュハド、アルカヴァズ、イスファハーン、テヘラン、ハフシェジャン、カラジ、シャフレコルド、ファルディスなどを挙げた。イラン人権通信社は、抗議活動開始以降の死者数は累計16人に上り、その中には政府治安部隊員1人も含まれていると報じた[5][93]。1月3日のスローガンに見られる抗議行動の主題は、経済的不公正や統治の問題から自由や正義の要求まで多岐にわたる。人権通信社は、抗議活動の目的が変化しており、「商業関連の日常的な要求と政治的要求の境界が曖昧になり、進行中の抗議活動は蓄積された多層的な不満に基づいて形成されている」と見ている[93]。
ドナルド・トランプ大統領が、イランが抗議活動参加者を射殺すれば米国が救出に出るだろうと警告したことを受けて[94]、最高指導者アリー・ハーメネイーは1月3日に「我々は敵に屈しない」と述べ、「暴徒はしかるべき場所に入れなければならない」と述べた[95][96]。同日、米国国務省は抗議活動参加者の葬儀に対する弾圧を非難する声明を発表した[97]。
Cloudflareはイランにおけるインターネット通信量が35%減少したと報告しており、イランのインターネット利用者は頻繁な通信障害や接続速度の低下を報告している[98]。
1月4日
テヘランのグランドバザールには治安部隊が多数配置された[99]。イラン全土の少なくとも20の大都市と小さな町で抗議活動とストライキが発生した[100]。ドナルド・トランプ大統領は、さらなる抗議活動参加者が殺害された場合、イラン当局は「大きな打撃を受ける」と述べた[101]。
1月5日
9日目、抗議活動はイラン全土で続いていた。テヘランのバーグ・セパーサーラール(Bagh-e Sepahsalar)地区では、「ハーメネイーに死を」というスローガンが響き渡った。テヘラン大学付近では特殊部隊が厳戒態勢を敷き、マルヴダシュトなどの都市では、日常生活に抵抗が浸透する中で、広範囲にわたるストライキが報告された[102]。
ヤースジュでは、治安部隊が、州庁舎の外に集まった拘束された者の家族と対峙した。報道によると、抗議活動はイラン国民の不満を背景に、サマン、サンサル、クシュクといった小さな町にも広がっているとされる[103]。
前述の都市に加え、チャハール・マハル州とバフティヤーリー州のサマン、セムナーン州のサンサル、ザヘダーン、カラジ州のファルディス、ファールス州のメシュカン、ママサニ州のヌーラバードなど、全国の複数の場所で抗議活動が報告されている。さらに、イスファハーン州のカズヴィーン、ハメダーン、イラム、マシュハド、ネイシャブール、アバデ、ブシェフル、バボル、ボジュヌールド、クシュク、マルカズィー州のシャザンド、そして北部の都市ラシュトとサーリでもデモ活動が行われたことが確認されている。報道によると、これらの地域の抗議活動参加者は公共の場所に集まり、スローガンを唱え、ハーメネイー政権への不満を表明しており、全国的な不安が広がり続けていることを示している[104][105][102]。
1月6日
共同声明の中で、イラン・クルディスタン民主党(KDPI)、コマラ、革命的労働者協会、クルディスタン労働者協会、イラン・クルディスタン闘争組織、クルディスタン自由党(PAK)、クルディスタン自由生活党(PJAK)など、いくつかの主要なクルド人政治団体が抗議活動への支持を表明し、イラン国内のクルド人に対しストライキやデモを行うよう呼びかけた[6][7][106]。イランのクルド地域にあるアブダナン市とマレクシャヒ市は、国の治安部隊によって放棄され、抗議活動参加者によって占拠されたと報じられた[107]。
テヘランのグランドバザールでは、抗議者による座り込みが行われた[108]。市場の商人たちはストライキを行い、特に金・通貨市場、織物市場、履物市場、家電市場などの通路にある多くの店が一部または全面的に閉店した。ストライキは突発的なものと見られ、一部の報道によるとバザールは戦場と化した[109][110]。座り込みは治安部隊が催涙ガスを用いて解散させた[108]。
HRANAの推定によると、10日間の抗議活動の拠点は27州88都市285カ所に上り[111]、22の大学でも抗議活動が行われた。抗議活動のスローガンは、経済、社会、政治への不満など幅広い内容に及んだ[109]。
ヤズダン・シャーでは、警察が抗議活動参加者に対して過剰な武力を行使し、最初は催涙ガスを使用し、その後民間人に向けて実弾を発射したと地元住民が語った[110]。
治安部隊が負傷した抗議者を逮捕するためにテヘランのシーナ病院とイラムのイマーム・ホメイニ病院を襲撃したことは、全国的な注目を集めた。イラムでは、家族や医療従事者が治安部隊に抵抗したとされる。治安部隊はイラム病院への襲撃に、建物内や病院敷地内への催涙ガスの使用も含めた攻撃を行った。内務省 (イラン)はイラム病院襲撃事件の調査と報告書の提出を命じられた[109]。
1月6日には、逮捕された抗議参加者による、強要された自白ビデオ合計15本が公式メディアで放送された[109]。
クロシュ・レザー・パフラヴィーは、オンラインソーシャルメディア上で、1月8日と9日の両日、イラン標準時午後8時に自宅や路上でスローガンを叫ぶよう呼びかけた。パフラヴィーは、その目的を「デモを規律正しく、可能な限り大規模に」維持することだと説明した。また、この呼びかけへの反応次第で「次の行動の呼びかけを発表する」と約束した[112]。
1月7日
HRANAによると、24州37都市で街頭集会、抗議活動、ストライキが発生し、抗議活動開始以来、累計31州111都市348か所で発生したことになる。1月7日には10の大学が抗議活動に参加し、参加大学は総数45になる。逮捕者による強要された自白はテレビで放映され、その数は40件に上った。芸術家や教師たちは、抗議活動を支持し、治安部隊による抗議活動参加者への弾圧を批判する声明を発表した[113]。
HRANAは、治安部隊による逮捕や暴力にもかかわらず抗議活動が継続していることについて、「(イラン)社会の相当部分が、抗議活動の代償は、沈黙や無活動の代償よりも低いと考えるようになったことを示している」と分析した。抗議の主題は引き続き経済問題と政治問題への不満であり、「一つの問題の二つの側面」と見なされている。HRANAは、芸術家や教師の発言は、「専門分野と文化分野がますます抗議活動の論調に同調しつつある」ことを示していると解釈した[113]。
1月7日、バローチの民族主義武装組織人民戦闘戦線(PFF)の武装勢力がイランシャール市の警察署長マフムード・ハキカットを暗殺した[8][9][106]。
革命防衛隊傘下のメディアは、チャハール=マハール・バフティヤーリー州ローデガンでの抗議活動中にデモ参加者が警察司令部の警察官2名を殺害したほか、イーラーム州マレクシャヒでは身元不明の治安部隊員1名を殺害したと報じた[106]。
マシュハドでは、抗議活動参加者たちが巨大なイランの国旗を旗竿から降ろし、その後それを半分に引き裂く様子が見られた[114]。
1月8日

抗議活動は続いた。パフラヴィーが人々に声を上げるよう呼びかけたことが、抗議活動の後押しになった可能性がある。政府が強硬な弾圧に踏み切る前によく行う措置として、複数の都市で電話回線とインターネット回線が即座に遮断された[115]。テヘランでスローガンを叫んでいた群衆は、主にパフラヴィー支持派だったとされる。CBSは、抗議活動が「転換点を迎えた可能性がある」と報じ[116][117][118]、ユーロニュースは「抗議運動の新たなスカレーションを象徴している」と報じた[115]。カエミヤでは、抗議活動参加者が、2020年に米国によって暗殺され、その後イラン・イスラム共和国によって殉教者と宣言された革命防衛隊司令官ガーセム・ソレイマーニーの像を倒した[119]。
1月9日
金曜日の夜、イランの抗議活動者たちは亡命中のクロシュ・レザー・パフラヴィー元皇太子の呼びかけに応じ、2夜連続で街頭に繰り出したことが動画や目撃証言から明らかになった[120]。また、パフラヴィーはドナルド・トランプ大統領にイランの抗議活動者たちを支持するよう要請した[121]。エコノミスト誌は、抗議活動は2009年以来最大規模にまで拡大したと報じた。また、「ベテランのイラン専門家の中には、今回の抗議活動は1979年の君主制打倒以来最大規模だと考える者もいる」と報じた[122]。
エスファハーンにあるイラン・イスラム共和国放送局の事務所で火災が発生[123]。抗議者たちはテヘラン市内の建物にも放火し、ゴルハク地区やサアダト・アバド地区のモスクも放火した[124]。
最高指導者アリー・ハーメネイー師は、短時間テレビ出演し、抗議活動について演説した[125][126]。演説の中で、ハーメネイー師はトランプ大統領を「傲慢」だと非難し、その手はイラン国民の血で染まっていると述べたうえで、さらにトランプ大統領は他の傲慢な指導者たちと同様に打倒されるだろうと発言した[125][126]。また、抗議活動参加者を有害な人物であり暴徒であると述べた[127]。
大規模な抗議活動により、アラブ首長国連邦、カタール、オマーン、トルコなどからイラン各都市への航空便が欠航となった[128]。
1月10日
ロンドンの在英国イラン大使館では、抗議デモ参加者が大使館に掲揚されていたイランの国旗を引き降ろし、イラン革命前の獅子と太陽が描かれた旧国旗を掲げる騒動が起きた[129]。
1月13日
イラン当局が一連の抗議デモで治安部隊を含め約2000人が死亡したと発表。これが当局が初めて公表したデモ隊鎮圧による死者数。ただし、イラン国外にいる反体制派は、さらに多くの死者が存在すると主張[130]。
1月17日
ハーメネイーがテレビ演説を行い、一連の抗議デモで数千人が死亡したことを認め、ドナルド・トランプ大統領がデモ隊に軍事支援を約束し、公然と扇動したことが原因であるとして非難[131]。
手段

抗議活動者
全国的なストライキ
企業、店舗、カフェ、労働者のほか、オンラインショップやソーシャルメディアのインフルエンサーによって全国的なストライキが行われた[134][135][136][137][138]。
有名なスローガンとシンボル
抗議活動中、デモ参加者は反政府感情、王政復古の呼びかけ、そして抗議者間の団結を象徴する複数の著名なスローガンを連呼した。これらのスローガンは、マノトやイラン・インターナショナルといったペルシャ語メディアの動画や報道で頻繁に取り上げられた。パフラヴィー朝の歴史的背景を引用したものもあれば、最高指導者アリー・ハーメネイーやイラン・イスラム共和国の指導者を直接標的としたものもあった。抗議活動に関連するシンボルには、獅子と太陽の旗があり、これは君主制への支持と反政府の象徴として、複数のデモで掲げられた[132][139][140]。
- 「独裁者に死を」 (ペルシア語: مرگ بر دیکتاتور、Marg bar Diktâtor) - 政府指導者を標的とした反権威主義的なスローガンが、テヘラン、エスファハーン、ケルマーンシャー、マラード、ナハヴァンド、ヌーラバード、カラジで報告された[141][142][143][144][145][22][146][147][148]。
- 「ハーメネイーに死を」(ペルシア語: مرگ بر خامنهای、Marg bar Khâmene'i) - 最高指導者アリー・ハメネイ師に対する直接的な呼びかけ。エスファハーン、ファルサン、アラクなどの抗議活動現場で唱えられた。2021-2022年と2022-2023年の抗議活動でも使用された[149][150][151][152]。
- 「ガザでもレバノンでもなく、我が命はイランのために」(ペルシア語: نه غزه نه لبنان، جانم فدای ایران、Na Qazze na Lebnan, jânam fadâ-ye Irân) - イラン自身の国益を無視して、パレスチナ過激派勢力に対するイスラム共和国の軍事的、財政的、政治的支援に対する一部のイラン人の反対意思を表明したスローガン[32][153]。
- 「恐るな、恐るな、私たちは皆共に」(ペルシア語: نترسید، نترسید، ما همه با هم هستیم、Natarsid, natarsid, mâ hame bâ ham hastim) - エスファハーンでの夜間の集会中に唱えられた、抗議者間の団結と勇気を促すスローガン[154][147]。
- 「不名誉な、不名誉な」(ペルシア語: بیشرف، بیشرف、Bi-sharaf, bi-sharaf) - 治安部隊や政府関係者に向けられたもの[155]。
- 「自由、自由、自由」("Freedom, freedom, freedom" )[156][152]
- 「シャー万歳」(ペルシア語: جاوید شاه、Jâvid Shâh) -ハマダーン、アラーク、ニハーヴァンド、デロランなどの都市で夜間の抗議活動中に叫ばれた王政復古を求める繰り返しのスローガン[139][157][158][159][160][161][162][42][163]。
- 「これは最後の戦いだ、パフラヴィーは戻ってくるだろう」(ペルシア語: این آخرین نبرده، پهلوی برمیگرده、In âkharin nabarde, Pahlavi barmigarde) - 政権交代とパフラヴィー王朝の復帰への決意を伝えるフレーズで、アラク、ラシュト、ホッラマーバード、エスファハーン、ナハヴァンド、ドルードで唱えられた[21][164][165][150][139][147]。
- 「シャーは帰国し、ザッハークは打倒される」(ペルシア語: شاه مییاد به خونه، ضحاک سرنگونه、Shâh mi-yâd be khune, Zahâk sarnegune) - イラン神話(暴君ザッハーク)を参考に、現政権の打倒とシャーの復帰を唱えるスローガン[166]。
組織
1月7日時点で、HRANAは抗議活動がネットワーク化されていると見ていた[113] 。1月8日、AP通信は抗議活動は「概して指導者不在」と見なし、レザー・パフラヴィーの影響は不明瞭であると述べた[167]。イランワイヤーは、イランのZ世代を2025-2026年の抗議活動において「最も目立つ活動的なグループの一つ」であり、彼らの政治的見解は2022-2023年のマフサ・アミニ抗議運動から強く影響を受けていると見ていた[168]。
政府
政府によるインターネット規制
抗議活動の間、政府はコミュニケーションと情報発信を制限するため、インターネットアクセスに大幅な制限を課した。イラン・イスラエル戦争とは異なり、全国的な公式なインターネット遮断は行われていない。しかし、デモが活発に行われている都市では接続が著しく不安定化し、市民がメッセージを送信したり、メディアを共有したり、さらなる抗議活動を組織したりすることが困難になった。これらの措置は、当局による反対体制的意見の抑圧と、混乱をめぐる言論統制の一環と広く見なされている[169]。1月9日、Cloudflareは、イラン国内のインターネットが政府によって完全に遮断された可能性があると報じた[170]。
イラク民兵の募集
イラン・インターナショナルは、2026年1月2日、イラン政府傘下のイラク民兵組織が、イラン国内の抗議活動鎮圧にあたる治安部隊を支援するため、部隊を募集したと報じた[171]。2026年1月6日には、カタイブ・ヒズボラ、ヒズボラ・アル・ヌジャバ運動、カタイブ・サイード・アル・シュハダ、バドル組織を含むイラクのシーア派民兵組織から約800人がイランに派遣されたと報じられた[171]。部隊はシャラムチェ、チャザベ、ホスラヴィーの各国境検問所を通過したと報じられており、公式には「マシュハドのアリー・リダーの聖地への巡礼」を名目にしていたが、実際にはアフヴァーズの基地に集結し、その後、抗議活動鎮圧を支援するため各地に派遣された[171]。イラン・インターナショナルによれば、イスラム共和国によるこの行動の背景には、イラン警察が非武装の一般市民への攻撃命令に従わない恐れがあるという懸念、もしくは単にイランの軍事力が100以上の都市での抗議活動を阻止するには不十分である可能性があるためとしている[172]。
死傷者
2026年1月11日の報道によると、アメリカを拠点とする人権団体は、デモによる死者数が、37人の軍の兵士や治安部隊の隊員を含めて116人に上ると発表した[173]。また、同日の他のメディアの報道によれば、11日までに少なくとも192人に達したという情報がある他[174]、イランの反政府メディアによれば2日間で2000人が死亡したとの情報もある[175]。
2026年1月21日のイラン国営放送は反政府デモを巡り、治安関係者を含む3117人が死亡した事を公表した[176]。
反応

イラン国内
- 最高指導者アリー・ハーメネイー師は、デモ参加者は「自らの町を破壊し、アメリカの大統領を喜ばせようとしている」と非難し、国民に対して団結を求めるとともに、「アメリカには多くの問題があり、自分の国の管理に注力するべきだ」とアメリカを牽制した[177]。
- イラン司法当局は、デモ参加者は神の敵であるとみなされ、死刑に値する可能性があると表明した[178]。
各国の反応
アメリカ合衆国 - 国務省は抗議活動参加者への支持を表明した上でイラン政府に対し、「暴力的な弾圧に頼るのではなく、国民の権利を尊重し、期待に応えなければならない。」と述べた[179]。
日本 - 外務省はイラン在住の邦人に対し、安全に行動し、抗議活動を含む集会に近付かないように呼びかけた[180]。また1月11日、高市早苗首相は、Xで「日本政府として情勢の悪化を深く懸念している」、「平和的なデモ活動に対するいかなる実力行使にも反対の立場だ」と述べた[181]。
イスラエル - 諜報機関であるモサドは抗議活動に支持を表明し、公式Xで「私たちがあなた達についている。遠くからの言葉だけでなく、現場でもあなた達についている。」と述べた[182]。
オーストラリア - 外務省は治安部隊による抗議活動参加者への弾圧を非難し、イラン政府に対し平和的な抗議者の権利を尊重するよう求めたと述べた[183]。
欧州連合:欧州対外行動局はイラン政府に表現の自由、結社、平和的集会の自由などの権利を尊重し、情報の透明性を確保するとともに、抗議活動参加者に対する弾圧を控えるよう求めた[184]。
イギリス:外務・英連邦・開発省は英国民に対してイランへの渡航を控えるよう勧告し、深刻な騒乱や治安状況の悪化に陥った場合は英国政府が英国民を避難させたり、対面での支援を提供するのは難しいと警告した[185]。