U255 (潜水艦)

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建造所 ブレーマー・フルカン造船所、ブレーメン・ヴェゲザック[1]
艦種 潜水艦
U-255
PQ17船団の船への攻撃後、4つの勝利ペナントと商船パウルス・ポッターの旗を掲げたU-255、ナルヴィクにて
PQ17船団の船への攻撃後、4つの勝利ペナントと商船パウルス・ポッターの旗を掲げたU-255、ナルヴィクにて
基本情報
建造所 ブレーマー・フルカン造船所、ブレーメン・ヴェゲザック[1]
運用者  ドイツ国防軍海軍
艦種 潜水艦
級名 UボートVIIC型
艦歴
発注 1939年9月23日[1]
起工 1940年12月21日[1]
進水 1941年10月8日[1]
就役 1941年11月19日, 1945年3月2日[1]
退役 1944年9月1日[1]
最期 1945年5月17日降伏、1945年12月13日、デッドライト作戦で自沈[1]
要目
基準排水量 769t
水中排水量 871t
全長 67.1m(耐圧殻50.5m)
最大幅 6.2m(耐圧殻4.7m)
吃水 4.74m
主機 ディーゼルエンジン2基
電源 電動モーター
電力 750PS
出力 2800 - 3200PS
推進 2軸
速力 水上17.7ノット、水中7.6ノット
航続距離 8500海里(水上10ノット)、80海里(潜航4ノット)
潜航深度 230m、圧壊深度250 - 295m
乗員 将校4名、士官40~56名
兵装 533mm魚雷発射管(前方4門、後方1門)、魚雷14またはTMA機雷26
8.8 cm SK C/35 艦載砲 1門
2cmC/30対空火器
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U-255第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ海軍で活動したVIIC型Uボートである。U-255は1940年12月21日にブレーメン・フェゲザックにあるブレーマー・フルカン造船所起工され、1941年10月8日に進水し、1941年11月29日にラインハルト・レーチェ大尉の指揮下で就役した[1]

北極海で活動した中で最も成功したUボートの1隻であり[2]、U-255は1942年から1943年はノルウェーで、その後1944年から1945年はフランスで活動し、15回の戦闘哨戒を行い商船10隻合計47,670総登録トンを撃沈し、7,191総登録トンの船1隻を全損させる程度の損傷を与えた[3]。U-255はまた、1,200トンのエドサル級護衛駆逐艦レオポルドを撃沈した[3]。終戦時、U-255はイギリスに降伏し、1945年12月13日にデッドライト作戦中に沈没した[1]

U-255は1939年9月23日にナチス・ドイツ海軍に発注され、1年以上後の1940年12月21日にブレーメン・フェゲザックにあるブレーマー・フルカン造船所で建造番号20として起工された。U-255は1941年10月8日に進水し、同年11月19日にラインハルト・レーチェ大尉の指揮下で就役した[1]

艦歴

バルト海のケーニヒスベルクを拠点とする第8潜水隊群での訓練期間の後、1942年7月1日にU-255は戦線で活動するため西ノルウェーベルゲンを拠点とする第11潜水隊群に移籍した。

第1哨戒

1942年6月15日、U-255はレーチェ大尉の指揮下でキールから出航し、20日にナルヴィクに到着した。U-255はその後6月23日に第1哨戒に出港し、ロシアの北のバレンツ海に入った[4]

7月6日、U-255は7,191総登録トンのアメリカのリバティ船ジョン・ウィザースプーンをノヴァヤゼムリャ沖約20マイル(32km)で撃沈して初めて戦果を出した。ウィザースプーンは7月4日に海軍本部の命令によりバレンツ海で解散したPQ17船団の一員であり、8,757トンの弾薬と戦車を積んでボルチモアからアルハンゲリスクへ向かう途中であった。4本の魚雷が命中した後、ウィザースプーンは真っ二つに割れ、数分以内に沈没した。乗組員は船を放棄し、船員1名が水中に転落して溺死した。U-255は生存者に尋問を行い、食糧と水を与え、一番近い陸地の方向を教えてその場を去った。7月9日、乗組員はイギリス海軍の船に救助された[5]

翌日の7月7日、U-255はPQ17船団に所属する5,116総登録トンのアメリカのホッグ・アイランダーのアルコア・レンジャーを撃沈した。1本の魚雷がアルコアに命中し、船体は右舷側に大きく傾いた。乗組員は船を放棄し、15分以内に救命ボートで脱出した。U-255は乗組員に尋問した後、アルコアに約100m(330フィート)の距離から砲撃を始め、最低でも60発(生存者の中には150発と発言した者もいた)を船が沈没するまで撃ち込んだ。同日の夜、乗組員はソ連の哨戒艇に救助された[6]

7月8日の朝、U-255はPQ17船団の6,00トンの爆発物、ガソリン、トラックを甲板に積んでいた6,069総登録トンのアメリカ商船オロパナを捕獲した。1本の魚雷がオロパナに命中し、全ての隔壁が吹き飛ばされ乗組員7名が死亡した。生き残りの乗組員は船を放棄して救命筏4隻で脱出し、U-255は浮上して20発の砲弾を撃ち込み、船は20分後に沈没した。U-255は生存者に尋問し、陸地への航路を教え、その場を去る前に十分な食料と水があるかどうかを尋ねた。2日後、生存者はノヴァヤゼムリャのモーラー湾に上陸した[7]

7月13日、U-255は一般貨物2,250トン、弾薬、戦車34両、航空機15機、トラック103台を積んだ7,186総登録トンのオランダ商船パウラス・ポッターが放棄されて漂っているところを発見した。ポッターはPQ17船団が解散した翌日である7月5日にビュルネイ島の北東でKG30第3飛行隊に所属するJu88急降下爆撃機の攻撃を受けていた。乗組員はすぐに沈没するだろうと考え大破したポッターを放棄した。76名の乗組員全員は5日間かけてノヴァヤゼムリャに上陸し、最終的にソ連捕鯨船に救助された。U-255の准尉と兵曹がポッターを発見して船に乗り込んだ後、エンジンの始動を試みたが、機関室は浸水していた。彼らはその後船内を捜索し、ポッターを魚雷1本で撃沈する前に毛布、たばこ、船橋で発見された機密文書を含むその他の有用な物資、戦果としての船旗を略奪した[8]。7月15日にU-255はナルヴィクに帰還した[9]

第2哨戒

1942年7月28日、U-255はナルヴィクを出港し、20日にベルゲンに到着した[9]。8月4日にU-255は第2戦闘哨戒のためベルゲンを出港し、ソ連水域の奥を目指し、戦果はないものの[10]、9月9日にノルウェー、フィンランド国境のネイデンフィヨルドに到着する前にU-255はヴンダーラント作戦の一環としてソ連の無線局2つ[2]を砲撃した[10]

第3哨戒

1942年9月13日、U-255はネイデンフィヨルドを出航し、グリーンランド海に向かう前にバレンツ海の哨戒を行ったが、戦果はなかった[11]。9月20日、U-255は5,000トンの皮革、クロム鉱石、甲板に木材パルプを乗せたアルハンゲリスクからニューヨークに戻る途中で4,937総登録トンのアメリカ商船シルバー・ソードを攻撃した。魚雷が2本命中して船尾柱、プロペラ、舵が吹き飛ばされ後部弾薬庫が爆発し、乗組員48名と乗客16名(PQ17船団の生存者)は船を放棄して救命ボート2隻と救命筏1隻で脱出した。船はその後W級駆逐艦ウースターの砲撃を受け沈没した。乗組員はその後イギリス船に救助され、男性1名がその後負傷により死亡した[12]

3日後の9月23日、U-255はヤンマイエン島南方でイギリス海軍第210飛行隊に所属するカタリナ哨戒機の攻撃を受けた。2発の爆雷を受け大破した後、ベルゲンへの帰還を余儀なくされ、25日に到着した[11]

改装と第4哨戒

1942年9月29日、U-255はベルゲンを出航し、10月3日にキールに帰還した[9]。1943年1月7日に再出航する前、そこでU-255はシュノーケル水中呼吸装置[1]を装備し、18日にノルウェー北部のハンメルフェストに到着した[9]

ノルウェー北部の以前奇襲を行った海域に戻り、1943年1月12日にU-255はハンメルフェストを出航し[13]、26日にベア島の西方で2,418総登録トンのソ連商船クラースヌイ・パルチザンを2本の魚雷で撃沈したとされる。このロシア船はU-625英語版の追跡から逃れた直後に行方不明となった。パルチザンは同日にU-255が撃沈を記録していることからおそらくこの潜水艦に撃沈された。クラースヌイ・パルチザンとされる不明商船の撃沈後、U-255は浮上して生存者への尋問を試みた。彼らはロシア語しか話せず、会話が不可能であった。結果としてU-255の乗組員はこの船の身元の確認ができなかった[14]。1月29日、U-255は1,892総登録トンのロシア貨物船ウファをベア島の南方で撃沈した[15]。クラースヌイ・パルチザンとウファは2隻とも木材を積みアメリカへ向かっており、U-255が撃沈した不明ロシア商船の生存者がクラースヌイ・パルチザンの乗組員だった場合を除けばどちらも生存者は発見されていない[14][15]

2月3日の午後、アイスランドの北東約600マイル(970km)でU-255はムルマンスクからニューヨークに向かうRA52船団に魚雷を一斉掃射し、7,460総登録トンのアメリカ商船グレイロックに命中させた。グレイロックは攻撃の回避を試みたが、水線下に穴が開き、直ちに浸水して右舷側に傾き始めた。15分以内に乗組員61名と乗客9名は船を放棄し、救命ボート4隻で脱出した。イギリス護衛船がその後砲撃を行い航行不能となった船を沈めた[16]。2月9日、U-255はナルヴィクに帰還した[9]

第5哨戒

1943年2月22日、U-255はナルヴィクを出航し、再び北海に侵入した[17]。3月5日、ムルマンスクからスコットランドに向けて航行中のRA53船団に3本の魚雷を一斉掃射し、1,500トンの塩化カリウムを積んだ4,980総登録トンのホッグ・アイランダーのエグゼクティブと4,000トンの材木を積んだ7,191総登録トンのリバティ船リチャード・ブランドの2隻のアメリカ商船に命中させた。

魚雷はエグゼクティブの右舷側に命中した。爆発により縦桁、エンジン、発電機、命中箇所の周辺が破壊された。船倉の1つが急速に浸水し、船尾から沈み始めた。乗組員9名が死亡し、残りの53名は船を放棄して救命ボート3隻と筏で脱出した。攻撃から1時間後、駆逐艦からの砲撃により沈没した[18]

リチャード・ブランドは雷撃を受けたが爆発せず魚雷は船体を貫通し、両側に8フィート(2.4m)の穴が開いた。ブランドは船団にとどまったが、3月6日の夜に強風と荒波の中で船団を離れ、単独でアイスランドに向かった。5日後の3月10日、U-255はブランドをアイスランドのランガネス半島沖35マイル(56km)で発見し、さらに魚雷を2本命中させ、船橋のすぐ前で真っ二つに船体を破壊した。乗組員は船を放棄し、乗船中の69名のうち船長、将校5名、乗組員13名、武装した警備員15名が荒波で救命ボートが沈んだため死亡した。船尾部分はU-255の雷撃を再び受けて沈没した[19]。U-255はその後ナルヴィクに戻り、3月15日に到着した[9]

第6哨戒

1943年3月29日、U-255はナルヴィクを出航し、バレンツ海を哨戒したが戦果はなく、4月29日にベルゲンに到着した[20]。1943年6月1日、U-255はトロンハイムにあるDORA1潜水艦基地を拠点とする新たに創設された第13潜水隊群に移籍した[1]

第7哨戒

1943年6月7日からエーリッヒ・ハルムス中尉(U-255の元准士官)の指揮下に入り[1]、7月9日にU-255はベルゲンを出航して16日にナルヴィクに到着した[9]。7月19日にナルヴィクを出港し、ソ連領海に侵入した[21]U-255は7月27日に411総登録トンのロシア測量船アカデミック・ショカルスキーを艦載砲と小火器の砲撃で撃沈した[22]。U-255はノヴァヤゼムリャに水上機基地を設営し[2]、海上で63日間を過ごした後、9月19日にナルヴィクに帰還した。

1943年12月1日、U-255は再び転属し、今回はフランスのサン・ナゼールを拠点とする第7潜水隊群に配属された[1]

第8哨戒

1944年2月26日、U-255はベルゲンを出港し、グリーンランドアイスランドの間の北大西洋に進出した[23]。3月10日、アイスランドの南方約400マイル(640km)でU-255はCU16船団を発見したが、アメリカ護衛駆逐艦レオポルドソナーに探知された[24]。レオポルドは接触して調査するために方向を変えたが、音響魚雷が命中した。乗組員は船を放棄し、数時間後に沈没した。乗組員199名のうち、生存者は28名のみで姉妹艦ジョイス英語版に救助された。U-255は他の護衛船に3時間追跡されたが、脱出に成功した[23][25]。4月11日、帰還中のU-255は浮上中、護衛と共にイギリスのモスキート15機に捕捉された[26]。これらはドイツのJu88機の反撃を受けた。同日の夜、U-255は小破しつつも新たな母港のサン・ナゼールに到着した[1]

第9、第10哨戒

1944年5月6日から9日、6月6日から15日にかけてU-255はビスケー湾で2度の短い哨戒を行ったが、戦果はなかった。1944年5月6日、U-255はサン・ナゼールを出港して第9哨戒を開始した。しかし、海上に出てからわずか2日後の5月8日、母港に呼び戻された[27]。U-255は第10哨戒でも前回と同じように呼び戻された。1944年6月6日(ノルマンディー上陸作戦の日)にサン・ナゼールを出港し、海上に出てからわずか10日後の6月15日に母港に呼び戻された[28]

第11から第14哨戒

1944年8月、空襲で損傷したU-255は修理のため退役した[2]。1945年3月1日、第13潜水隊群に移籍し、3月2日にヘルムート・ハインリヒ中尉の指揮下で再就役した[1]。1945年4月から5月上旬にかけて[9]、U-255はサン・ナゼールとラ・パリス間で4回短い哨戒を行い、機雷を敷設した[2]

第15哨戒

ドイツ降伏の日である1945年5月8日、U-255はヘルムート・ハインリヒ中尉の指揮下で最後の航海を開始し、サン・ナゼールを出航してスコットランドの5月19日にロック・アルシュに向かい、到着後に正式に降伏した[9][2]

ウルフパック

U-255は6つのウルフパックに参加した。

  • アイストイフェル (1942年7月1日~12日)
  • ネベルケーニヒ (1942年8月7日~9日)
  • ノルトヴィント (1943年1月24日~2月4日)
  • タイフーン (1943年4月2日~4日)
  • アイスベア (1943年4月4日~15日)
  • プロイセン (1944年3月9日~22日)

最後

U-255はロク・エリボールへ移動され、その後「デッドライト作戦」のためロク・ライアンへ移動した[1]カビット英語版に曳航され、12月13日にイギリス空軍第254飛行隊のボーファイター機のRP-3ロケット弾により沈没した[29]。アイルランドの南西北緯51度16分 西経13度38分 / 北緯51.267度 西経13.633度 / 51.267; -13.633座標: 北緯51度16分 西経13度38分 / 北緯51.267度 西経13.633度 / 51.267; -13.633で沈没した[1]

戦果一覧

全ての座標を示した地図 - OSM

ナチス・ドイツ海軍での活動中、U-255は10隻の船47,640総登録トンと1,200トンの軍艦1隻を撃沈し、7,191総登録トンの商船を全損させた[3]

日付[3] 船名[3] 国籍[3] 総トン数[Note 1][3] 結果と位置[3]
1942年7月6日 ジョン・ウィザースプーン アメリカ合衆国の旗 アメリカ 7,191 北緯72度05分 東経40度30分 / 北緯72.083度 東経40.500度 / 72.083; 40.500 (John Witherspoon (ship))で沈没
1942年7月7日 アルコア・レンジャー アメリカ合衆国の旗 アメリカ 5,116 北緯71度38分 東経49度35分 / 北緯71.633度 東経49.583度 / 71.633; 49.583 (Alcoa Ranger (ship))で沈没
1942年7月8日 オロパナ アメリカ合衆国の旗 アメリカ 6,069 北緯72度10分 東経51度00分 / 北緯72.167度 東経51.000度 / 72.167; 51.000 (Olopana (ship))で沈没
1942年7月13日 パウラス・ポッター オランダの旗 オランダ 7,168 北緯70度00分 東経52度00分 / 北緯70.000度 東経52.000度 / 70.000; 52.000 (Paulus Potter (ship))で沈没
1942年9月20日 シルバー・ソード アメリカ合衆国の旗 アメリカ 4,937 北緯75度52分 西経00度20分 / 北緯75.867度 西経0.333度 / 75.867; -0.333 (Silver Sword(ship))で沈没
1943年1月26日 クラースヌイ・パルチザン ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 2,418 北緯73度45分 東経17度30分 / 北緯73.750度 東経17.500度 / 73.750; 17.500 (Krasnyj Partizan (ship))で沈没
1943年1月29日 ウファ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 1,892 北緯73度40分 東経24度30分 / 北緯73.667度 東経24.500度 / 73.667; 24.500 (Ufa (ship))で沈没
1943年2月3日 グレイロック アメリカ合衆国の旗 アメリカ 7,460 北緯70度52分 西経00度21分 / 北緯70.867度 西経0.350度 / 70.867; -0.350 (Greylock (ship))で沈没
1943年3月5日 エグゼクティブ アメリカ合衆国の旗 アメリカ 4,978 北緯72度44分 東経11度27分 / 北緯72.733度 東経11.450度 / 72.733; 11.450 (Executive (ship))で沈没
1943年3月10日 リチャード・ブランド アメリカ合衆国の旗 アメリカ 7,191 北緯66度53分 西経14度10分 / 北緯66.883度 西経14.167度 / 66.883; -14.167 (Richard Bland (ship))で全損
1943年7月27日 アカデミック・ショカルスキー ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 411 グリッドAT3513で沈没
1944年3月9日 レオポルド  アメリカ海軍 1,200 北緯58度44分 西経25度50分 / 北緯58.733度 西経25.833度 / 58.733; -25.833 (USS Leopold (DE 319) (ship))で沈没

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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