イギリスにおける死刑
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イギリスにおける死刑廃止思想は古く、トーマス・モアにまで遡ることができる。これは当時のイギリスでは数多くの罪状に対し死刑が適用されており、多くの者が処刑されていたことが背景にある。
ただその後の宗教改革の中で、1553年にはカトリックのメアリー1世の即位を妨げるためジェーン・グレイをイングランド女王に即位させたノーサンバーランド公ジョン・ダドリーらはメアリー1世側の蜂起に敗北して死刑に処されており、1679年にはカトリックのチャールズ2世に対しボスウェル・ブリッジの戦いを起こした長老派は、摂政でスコットランド議会議員、枢密院議員の弁護士のジョージ・マッケンジー(英語版)により約1200人のカヴェナンターが墓地に隣接する刑務所に投獄され虐待のうえ死刑に処されるなどの出来事があった。
1723年のブラック法では窃盗犯や紙幣偽造犯など50もの罪状に適用されていた。また「被害者が自衛する機会がない」として強盗犯よりも悪質とされていた窃盗犯が処刑される場合も少なくなかった。このような厳罰主義の法制と刑罰体系は後世「血の法典」と呼ばれた、このように厳罰にしたのは、犯罪者を死刑にすれば犯罪は減ると支配階層が考えたからだとされているが、有産階級の財産を守る為でもあった。1660年以降、死罪になる罪名は50から1750年には160、1800年当時は220[1]、1815年には288と増加した。この時代に死罪になる犯罪は、5シリング以上の価値のあるものの窃盗、馬若しくは羊の窃盗のほか、放火、脅迫、反逆、殺人などが含まれていた。
なお、一般庶民は基本的に絞首刑に処せられており、貴族には斬首刑が適用されていた。また殺人や強盗といった凶悪犯への死刑が一般的なのは当然なことで、少年犯罪者に関しては「明らかな悪意の証拠」があれば年齢に関わらず死刑が適用されたが、現代の基準から見ると死をもって償わなければならない程ではないと思われる罪で死刑に処された人々も少なくなかった。たとえば1717年5月20日に当時18歳のマーサ・ピラが店舗内での窃盗を理由にタイバーンで公開処刑されたほか、1750年12月31日に当時17歳の少女であったキャサリン・コナーは遺書を偽造した罪により同じくタイバーンで公開処刑されている[2]。
また、イギリスにおける記録史上の最年少死刑囚は、チャールズ1世治世下で1629年2月23日に2件の納屋か家屋を放火した罪で8歳か9歳で公開処刑されたジョン・ディーンである。少女の場合、ヘンリー8世治世下の1546年4月13日で処刑理由は不明であるが(殺人か魔術を使用した罪)、当時11歳のアリス・グラストンがマッチ・ウェンロックで処刑されている[2]。
死刑判決が教会の儀式のひとつとして赦されたり、また軍務につくと永久に執行猶予される場合もあった。1770年から1830年の間にイングランドとウェールズでは35000人以上に死刑が宣告されたが、実際には7000人程度の執行に留まり、相当が免除されていた。
このように、19世紀まではあまりにも死刑の適用範囲が広すぎたため、1808年にはスリのような窃盗犯が除外された。これを皮切りに、1820年代から30年代にかけて多くの死刑適用犯罪が外されるようになり、1823年には反逆罪と殺人罪以外には死刑を適用できないように法が改正された。また、当時イギリスの植民地であったオーストラリアへ犯罪者を流刑にするようになった。このように19世紀には徐々に死刑を適用できる犯罪を制限するようになったが、それでも反逆罪や殺人に対しての死刑は維持された。また1866年には公開処刑が廃止され、死刑執行は刑務所内で行われるようになった。
1908年には少年法の改正により16歳未満に対する死刑が禁止され[3]、1933年には18歳未満に年齢が引き上げられた。また1931年には妊婦への死刑が禁止された。そして1938年に死刑廃止案が下院を通過したが、第二次世界大戦勃発により議論は立ち消えとなった。なお1900年から1949年までに、イングランドとウェールズでは621人の男性と11人の女性が処刑されたが、戦時特別立法によって13人のドイツのスパイも処刑された。
戦後は死刑廃止を求める声が高まり、1948年に労働党のシルバーマン議員が死刑廃止法案を上程した[1]。1957年の法律で殺人犯のうち囚人による看守の殺害や警察官殺害犯、爆弾テロ犯などに死刑の適用が限定されるようになった。これによって死刑制度支持派に譲歩した形になった。しかしながら、エヴァンス事件やA6殺人事件など、決定的な証拠が無いまま処刑され冤罪が疑われる事件をきっかけとして死刑廃止要求がさらに高まったため、1965年11月9日に死刑執行を5年間停止する時限立法が議会で可決された。なおイギリス国内最後の死刑執行は1964年8月13日午前8時に執行されたピーター・アンソニー・アレン(ウォールトン刑務所)とグウィン・オーウェン・エヴァンス (ストレンジウェイズ刑務所) の2人である(2人とも同時に執行されている)。死刑廃止の理由としては、「犯罪抑止のための威嚇としての価値が証明されていない」「猟奇殺人の多くは精神異常者の行為で責任能力がない」「誤審による死刑の危険性」「死刑自体が時代にそぐわず不健全」などとしている[1]。
その後ジェームズ・キャラハン内務大臣により、1969年12月に正式に死刑廃止が決定した。当初は北アイルランドは適用が除外されていたが、1973年に北アイルランドも死刑が廃止された。だが、IRAのテロが活発になった1975年以降、国民の一部から死刑復活が叫ばれるようになった。復活論者であったマーガレット・サッチャー率いる保守党政権が総選挙で圧勝し、2度死刑復活法案が提出されるがいずれも圧倒的大差で否決(1度目は362対243、2度目は357対195)された[4]。
なお、死刑が全面的に廃止されたのは1998年のことである。それまでは反逆罪と海賊行為のみ死刑の対象とされていたが[1]、適用された事例は皆無である。また、海外領であるチャンネル諸島では執行された事例はなかったが、法律上2006年まで死刑制度が存続していた。マン島では1993年に死刑が廃止されたが、最後に処刑が行われたのは1872年の事であり、稀に死刑判決が出ても内務大臣によって終身刑に減刑されていた。
死刑の回避
イギリスは歴史上、極めて死刑が多い国であったが、死刑を回避する方法も様々なものがあった。 これには、立法と司法の分離が発達していたことにより、立法側のあまりに多い死刑要求に対して司法側が死刑の適用を極力制限されるように努力していたという背景もある。
中世時代のイギリスには死刑を免れる以下の4つの方法があった。
- 恩赦(Pardon)
- 国王により罪が減刑されることによって死刑を免れることができる。近代ではこの特権は内務大臣に与えられた。
- 死刑が非常に多かった血の法典時代には裁判官が死刑不相当と思う犯罪者のリストを作成して分厚いリストに対して一括恩赦を国王に願い出るという方法が取られていた。
- 聖域(sunctuary)
- 教会の支配地域には世俗の法律が及ばなかったため、犯罪者はにげこむことによって死刑を回避できた。
- しかし、一定期間を過ぎるとイギリスから出て行かなければならず、実際には死刑を流刑に減刑しているようなものだった。
- 聖職者の特権(Benefit of clergy)
- キリスト教の聖職者は世俗の刑罰を受けないという特権により死刑を免除された。
- 後に特権が適用されないように法改正が進み、この制度はなくなる。
- 良心の偽証
- 血の法典により12ペンス以上の品物に対する窃盗にまで死刑が適用されていた時代には、被害を過小に証言することで死刑判決を回避することが行われていた。
執行方法
イギリスでは死刑のための特別な法律が地方自治体や個別立法で作られたことが何度もあるため、特定の地域や時期しか行われなかった死刑執行方法が多数ある、そのため非常に種類が多い。
| スコッチ・メイデン | 1564年 - 1708年 | 一部地域のみ使用 |
| ハリファックス断頭台 | 1541年 - 1650年 | 一部地域のみ使用 |
| 釜茹で | 1531年 - 1547年 | 特別立法により毒殺犯のみ適用 |
| 火刑 | 1401年 - 1790年 | 主に魔女に適用された |
| 斬首刑 | ????-1747年 | 貴族に対して適用されていた |
| 首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑 | ????-1820年 | 大逆罪に対してのみ執行されていた |
| 絞首刑 | ????-1998年 | 最期の死刑執行方法として死刑制度廃止の日まで使用された |
死刑執行人
詳細は死刑執行人#イギリスを参照