フランスにおける死刑
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1790年にマクシミリアン・ロベスピエールが死刑制度廃止を議会で投票にかけたが否決された。これがフランスの歴史上最初の死刑廃止法案だったと言われているが、皮肉にもマクシミリアン・ロベスピエール自身が後に方針を転換して恐怖政治による死刑の乱発を行うことになった。
1791年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、残酷な死刑の禁止が初めて法制度化された。これによって八つ裂きの刑や車裂きの刑や絞首刑などの残酷な処刑方法はすべて禁止となり、死刑は人道的にギロチンのみで行うことになった。これ以降、死刑制度廃止までギロチンが使用されるようになり、他の国でも人道的な死刑執行方法としてギロチンが採用されていく。
フランスは、西欧諸国でも死刑執行に熱心であり、現在では忌諱される公開処刑を1939年まで継続していた。19世紀中頃から、処刑される時刻は、午後3時から、朝、そして夜明け前というように変遷した。処刑は市場の広場のような公共の場で実行されたが、徐々に刑務所の処刑場に変更された。なおフランス革命以来、死刑執行方法はギロチンが廃止まで使用されていた。最後の公開処刑はヴェルサイユの聖ピエール刑務所で、1939年6月17日に6人を殺害した死刑囚に執行されたのが最後であった。この時の処刑の写真は新聞で発表されている。
なおフランスでは死刑執行人はムッシュ・ド・パリ(本来はパリのみ)が執り行うことになっていたが、1870年11月以降は死刑執行人がフランス全土で1人だけになった。また死刑執行人の氏名は公開されており、プライバシーの観念が薄かった時代には、死刑執行人の家系図から履歴書までマスコミで暴露されたこともあった。このため、死刑執行人の家族や親族が自殺した事例も多い。これは死刑執行人はフランスにおいては偏見と侮蔑の目で見られ、決して名誉とされないなど社会的評価が低く、他の職業へ転職することが出来ないうえに、政府の経費削減のため僅かな固定給しか支給されず(第二次世界大戦後は年間6万フラン)、工員という副業をしなければ生活できないなど経済的に恵まれたものでなかったためである。
戦後長く死刑執行人として勤めたアンドレ・オブレヒトは、アルジェリア民族解放戦線19人の死刑を執行した1960年に「副業」の工場労働者としての休暇を使い切ったため、法務省の役人に頼んで会社経営者を説得してもらったが、結局は会社を辞めて死刑執行業務をしたというエピソードがある。
ナチス占領下にあった当時、反独闘争を行うレジスタンス運動などに対し死刑適用が濫発された結果、19世紀以来なかった女性に対する処刑を含め執行数が増加し、3,827人の処刑(内、銃殺刑は3,676人、ギロチンは151人)が執行されているが[1][2]、これは1870年から1977年までのフランスでの一般刑法犯の処刑件数よりも多い数字だという。
そのためか、フランスでは死刑執行が戦後大幅に減少していった。1960年を除けば死刑執行数は年に数人で、執行が行われない年もあった。また1969年から1974年の間に在職したジョルジュ・ポンピドゥー大統領の時代には、一部を除き死刑囚を恩赦していた。最後の処刑は最後の死刑執行人であるマルセル・シュヴァリエの手で1977年9月10日に執行された。
1981年に就任した社会党のフランソワ・ミッテラン大統領(当時)が「私は良心の底から死刑に反対する」と公約し当選。弁護士のロベール・バダンテールを法務大臣に登用し、「世論の理解を待っていたのでは遅すぎる」と死刑廃止を提案。国民議会の4分の3の支持を得て決定した。西ヨーロッパで最後の死刑廃止国となった。世論調査機関TNSソフレスによる、死刑制度廃止当時の世論調査では、死刑制度の存続を求める声は62パーセントを占めていた[3]。
1985年12月20日に、フランスは人権と基本的自由の保護のための条約の第6追加議定書[4]を批准し、戦時以外にフランスが死刑を復活することはないことを意味するものであった。また2002年5月3日に、フランスと30カ国は同条約の第13追加議定書に署名し、戦時も含めあらゆる状況における死刑を禁じるものであった。2003年7月1日に実施された。
2006年9月18日にソフレスが発表した世論調査によると、「死刑廃止25周年」を迎えて、52パーセントが「死刑制度復活反対」と答え、「死刑制度復活」を望む意見は42パーセントであった。支持政党別で、死刑復活賛成は、右派政党の国民戦線支持層で89%。与党・国民運動連合(UMP)で60%。社会党支持層は賛成は30%となった。若齢、高学歴者ほど死刑復活反対の傾向が強かった[5]。ただし、フランスの政治家で死刑制度復活を公言しているのは国民戦線指導者のジャン=マリー・ル・ペンなど少数であるうえに、死刑制度を廃止する国際条約に批准しているため、事実上不可能となっている。
2004年には、国民議会に悪質なテロ行為に対する死刑を復活させる1512号法案が提出されたが、成立することは無かった。2006年1月3日には、ジャック・シラク大統領(当時)が死刑を禁止する憲法の改正を発表した。
2007年2月19日にフランス国会は圧倒的多数の賛成で憲法修正案を可決した(賛成828票、反対26票)。そのため憲法に死刑の廃止が明記された。
死刑執行人
フランス語では死刑執行人のことを「Bourreau」(ブロー)と呼んでいる。シャルル=アンリ・サンソンの請願によりフランスの死刑執行人の正式名称は1787年1月12日に「Exécuteur de Jugements Criminels」(エグゼキュトゥル・ド・ジュジュマン・クリミネル)、日本語に訳すと「有罪判決の執行者」と改名され、「Bourreau」と呼ぶことが法的に禁止された。しかし、一般的にフランス語では死刑執行人と言えば現在でも「Bourreau」で通用しており、正式名称は公文書などでしか使用されていないのが実情である。
フランス革命物の『ダルタニャン物語』『アン・ブーリン』など物語に登場することもあり、その場合は「首切り役人」と日本語訳されていることが多い。
首都であるパリの処刑人はムッシュ・ド・パリ(Monsieur de Paris)の称号で呼ばれ、フランス全土に160人いる死刑執行人の頭領になっていた。その後ギロチンの導入で省力化が進んだ結果、1870年11月以降は死刑執行人がフランス全土で1人になり、ムッシュ・ド・パリは事実上、死刑執行人の称号となった。
フランスの死刑執行人は社会的にも経済的にも恵まれていなかった。サンソン家は医師としての副業でそれなりに資産を築いていたが、経済的に困窮したことも多かった。社会的にも偏見と侮蔑の目で見られ、決して名誉とされることはなかった。人権宣言を掲げたフランス革命後においても、彼らに市民権が与えられる事は無かった。経済的には政府から給金を与えられていたが十分な額とは言えず、結局のところ、シャルル・サンソン・ド・ロンヴァルからマルセル・シュヴァリエまで300年余り、副業をして生計を支えていた。
特に第二次世界大戦後の死刑執行人は貧しく、副業として工場の工員などを兼務していた。アンドレ・オブレヒトは年間の死刑執行が19人にもなった年など、副業であった工場労働者としての休暇を使いきってしまい、法務省の役人に頼んで勤務する会社の経営者を説得してもらったが、結局は会社を辞めてまで死刑を執行したという逸話があるほどである。
フランスではギロチンが導入される以前の死刑には絞首刑・斬首刑・火炙りの刑・車裂きの刑・八つ裂きの刑が存在していた。死刑執行人はこれらの刑罰全てに熟知していることを要求された。また、死刑執行人は鞭打ち刑など処刑以外の公開刑の執行も行っていた。
フランスでは制度上、何時誰が誰を死刑執行したのか全ての記録が公開されている。死刑執行人の氏名は一般公開されているため、中世時代からマスメディアの標的とされてきた。第二次世界大戦の直前まで公開処刑だったこともあり、死刑執行人の絵や写真がマスメディアに載ることも多い。特にムッシュ・ド・パリは全員がマスコミになんらかの取材を受けた記録がある。プライバシーの観念が薄かった時代には、家系図から履歴書までマスコミでさらし者にされたこともあった。このため、死刑執行人の家族や親族が自殺した事例もある。
組織
フランスの死刑執行人は同業者組合のような組織を構成しており、フランス全土の死刑執行人とその死刑執行人助手が加盟した。ムッシュ・ド・パリが組織の代表者だった。死刑執行人は一般人から忌避されていたため結婚はこの組合の中で行われていた。一般の学校に通うことが出来ない死刑執行人の子供達への教育機関としての役目も持っており、その教育水準は当時の一般的な学校を上回るほどで、フランス語とラテン語の読み書き、法学、医学、剣術にまで及んでいた。この組織は厚生年金のような物も持っていて引退した死刑執行人やその未亡人の面倒をみていた。
特に組織として明確になったのはサンソン家の時代になってからであった。サンソン回想録によると、賃金値上げを求めた団体交渉などを行っていたとの記録がある。死刑執行人の人員削減に伴い、この組織も縮小され廃止されていった。
業務
近代における死刑執行人が行うべき業務の一例を以下に示す。
仕事の無い通常はギロチンの保管と維持管理が死刑執行人の仕事であった。
死刑執行人は裁判所から死刑執行の命令を受けると、指定された場所へギロチンを搬入して組み立てることから始まる。5人も助手が必要だったのは、ギロチンという大きな機材を搬入し組み立てるためという部分が大きい。公開処刑だった時代には、ギロチンだけでなく見物人との境目となる柵やギロチンを載せる台まで、かなりの資材を搬入して組み立てる必要があった。サンソンの時代には、当日に刑務所から囚人を搬送するのも仕事の一つだった。後に非公開になると、刑務所内で実施されたため、これは刑務官の仕事になった。死刑執行が終わると遺体の埋葬にまで立会い、使用したギロチンを洗浄し再び分解して搬出した。これが終わると証明書を発行して、法務省に諸経費の支払請求をした。
フランスの死刑執行人は、公務員というよりも実質的には外部委託業者のような形態だったと考えられる。死刑執行を行うギロチンは死刑執行人の私有財産であり、公共財産ではなかった。死刑執行人は国から給金を貰っていたが、手当てや公務員としての福利厚生などは一切なく、ギロチンのメンテナンス費用や輸送費用などはそのつど死刑執行人が法務省に経費の支払いを要求している形態であった。アナトール・デイブレルの手記によると、この経費を水増し請求することで、死刑執行人はささやかな収入を得ていたと言う。また、公務員ではないので副業を禁止されておらず、死刑執行がない時は全員がなんらかの副業についていた。
報酬
1721年に給料制に変更される以前は、ドロア・ド・アヴァージュという特権を行使し、年収6万リーブルとも言われるかなり高所得を得ていた。しかし、この独自徴税は頻繁にトラブルを起こし、1721年に処刑人が徴税を行う権利が剥奪され、年間1万6千リーヴルの給料制に制度変更された。これは大幅な収入減少であったが、この当時の死刑執行人であるサンソン家は医師としての副業で高額所得を得ていたため、なんとか生計を支えていた。フランス革命で大量の死刑執行が行われるようになると、6万リーブルにまで増額された。
しかし、ルイ18世の時代になると死刑執行人の人員削減が進み、報酬は減額に減額を重ねられるようになった。それでも死刑執行人は他の職業へ転職することが出来ないため、貧困に耐えながらでも仕事を続けたという。戦後には年間6万フランの固定給になったが、インフレに直面しても値上げされず、戦後の死刑執行人は実質上、子供の小遣いも同然の給料で仕事を続ける羽目になっていた。
歴史
- 中世においては首を切り落とす斬首刑が用いられていた。人間の首を刃物で一気に切断するという作業は熟練を要し、専門的な職人を必要とした。このため、斬首刑を専門に行う法務官が誕生したのが公職としての死刑執行人の始まりだと言われている。
- 1687年 - パリの処刑人ニコラ・ルヴァスールが不祥事を起こし解任。その職権をシャルル・サンソン・ド・ロンヴァルが買い取って処刑人の職についた。
- 1707年 - 息子のシャルル・サンソンが2代目に就任する。
- 1721年 - 処刑人の徴税権が剥奪され、年間1万6千リーヴルの給料制に制度変更される。
- 1726年 - シャルル=ジャン・バチスト・サンソンが7歳で死刑執行人の職に就く。
- 1754年 - シャルル=アンリ・サンソンが15歳で死刑執行人の職に就く。
- 1757年3月27日 - フランス史上最後の八つ裂きの刑が、ロベール=フランソワ・ダミアン(国王ルイ15世の暗殺未遂犯)に対して執行される。
- 1792年4月25日 - ギロチンが導入される。
- 1795年 - アンリ・サンソンが死刑執行人の職に就く。
- 1830年 - アンリ=クレマン・サンソンが死刑執行人の職に就く。
- 1832年 - 国王布告により死刑執行人の人数が半数に削減される。
- 1847年 - シャルル=アンドレ・フェリィが死刑執行人の職に就く。
- 1849年 - ジャン=フランソワ・ヘイデンレイシュが死刑執行人の職に就く。
- 1868年 - 政府の委託を受けてアルフォンス・レオン・ベルジェがギロチンを改良する。
- 1870年11月25日 - 1人の執行人と5人の助手にまで人員削減が行われる。2台のギロチンはパリで置かれて必要に応じてフランス全土へ運ばれることになり、地方都市の死刑執行人は職を失った。この体制は死刑制度廃止まで継続する。この時に死刑執行人の年給は6千フラン、第1と第2の助手は4千フラン、残り3名は3千フランと規定された。
- 1872年 - ニコラ・ロシュが死刑執行人の職に就く。
- 1879年 - ルイ・デイブレルが死刑執行人の職に就く。
- 1899年 - アナトール・デイブレルが死刑執行人の職に就く。
- 1939年 - ジュール=アンリ・デフルノーが死刑執行人の職に就く。
- 1939年 - 公開処刑を廃止、以後の死刑執行は非公開で行われる。
- 1951年 - アンドレ・オブレヒトが死刑執行人の職に就く。
- 1976年 - マルセル・シュヴァリエが最後の死刑執行人の職に就く。
- 1981年 - 死刑制度の廃止に伴い、死刑執行人の職は廃止された。