バト・ボロト
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バト・ボロト(Batu bolod、生没年不詳)は、15世紀前半に活躍したドルベン・オイラト(オイラト部族連合)の首長の一人。『明実録』では把禿孛羅と漢字表記される。
1388年、イェスデル(ジョリクト・ハーン)を推戴して結成されたドルベン・オイラト(オイラト部族連合)は複数の遊牧部族の連合体であり、永楽元年(1403年)には永楽帝がマフムード、タイピン、バト・ボロトという3人のオイラトの首長に使者を派遣している[1][2]。マフムードがチョロースの長であることはまちがいなく、タイピンはトルグートの長エセクと同一視されているため、バト・ボロトはホイトの長ではないかと推定されている。
永楽5年(1407年)、モンゴル高原ではティムール朝に亡命していたクビライ家のオルジェイ・テムルが帰還したため、アルクタイらがオルク・テムル・ハーンを廃位してオルジェイ・テムルを擁立するという事件が起こった。この時モンゴル高原の混乱を見て取った永楽帝は再びマフムード、タイピン、バト・ボロトの3名に使者を派遣して明朝への帰順を呼びかけた[3]。永楽7年(1409年)、オルジェイ・テムルを擁立して勢力を拡大するモンゴル(韃靼)に対抗するため、永楽帝は丘福率いる遠征軍を派遣する一方、モンゴルと対立するオイラトの首長を冊封し、マフムードに順寧王位を、タイピンに賢義王位を、バト・ボロトに安楽王位を授けた[4][5][6]。丘福率いる遠征軍がオルジェイ・テムル率いるモンゴル軍によって大敗を喫すると、永楽帝は自ら軍を率いてのモンゴル親征を決断したため、バト・ボロトらオイラトの首長も永楽帝の親征に協力し、後の恩賞を賜った[7][8]。
永楽12年(1414年)、再び自ら軍を率いてモンゴル高原にやってきた永楽帝はダルバク・ハーン、マフムード、タイピン、バト・ボロトらの率いるオイラト軍をウラーン・ホシューンの戦いで粉砕し、マフムード、タイピンらは単身逃れざるを得なくなった[9]。やむなくバト・ボロトらは永楽13年(1415年)、謝罪の意を伝える使者を明朝に派遣し、明朝との関係改善に努めた[10][11]。
オイラト連合軍がウラーン・ホシューンで明軍に敗れて程なくして、それまでオイラト軍の指導的地位にあったマフムードもまた亡くなった。タイピンとバト・ボロトは明朝との宥和政策に転じ、永楽15年(1417年)に使者としてオイラトを訪れた海童は「かつてオイラトが明朝の命を拒んだのはマフムードの謀で、マフムードが死んだ後は賢義王タイピンと安楽王バト・ボロトは心を一つにし、誠意をもって朝貢を行っている」と報告している[12][13][14]。マフムードが死去したことによって安楽王家は相対的に存在感を増したようで、永楽16年(1418年)3月からはバト・ボロトのみならずその弟のエンケ(昂克)も明朝の記録に散見されるようになる[15][16][17]。
しかし、明軍との戦いで弱体化したオイラト軍はアルクタイ率いるモンゴル軍との戦いでは劣勢に立たされ、永楽17年(1419年)にはタイピン率いるオイラト軍がアルクタイ率いるモンゴル軍に大敗を喫している[18][19][20][21]。そこで、永楽22年(1424年)にはマフムードの息子で順寧王位を継いだトゴンが賢義王タイピンを殺害するという事件が起こり、これによって安楽王バト・ボロトはオイラト内で最年長の有力者となった[22]。
この情勢下で、洪熙元年(1425年)正月には安楽王バト・ボロトが主体となり、「子の亦剌恩及び酋長ネレグ(乃剌忽)・エンケ(昂克)・トゴン(脱歓)・アラク(哈剌)・八丁」らとともに明朝に使者を派遣している[23]。ここでは安楽王バト・ボロトがオイラトの領侯の中で筆頭で名を挙げられており、この時が安楽王バト・ボロトの最盛期であったと考えられているが、これより間もなくバト・ボロトは史料上で言及されなくなる[24]。宣徳5年(1430年)5月の記録では本来バト・ボロトの配下であったはずの「エンケ(演克)・アラク(阿剌)等」らが「順寧王トゴンの属」として登場しており[25]、恐らくはこれ以前にトゴンによってバト・ボロトも打倒され、その勢力は弟のエンケに継承されたものとみられる[24]。
脚注
- ↑ 『明太宗実録』永楽元年四月壬子,「遣鎮撫答哈帖木児等齎勅往瓦剌諭虜酋馬哈木・太平・把禿孛羅」
- ↑ 和田 1959, p. 46.
- ↑ 『明太宗実録』永楽五年五月丙寅,「遣千戸亦剌思那速児丁及舎黒撒答等使瓦剌。時虜中来降者言、鬼力赤為部下所廃、其衆欲立本雅失里。遂遣亦剌思等齎勅、往諭馬哈木等、以天命有帰及福善禍淫之意。並賜馬哈木・太平・把禿孛羅及其所部撒都剌等金織・文綺有差」
- ↑ 『明太宗実録』永楽七年五月乙未,「封瓦馬剌哈木為特進金紫光禄大夫・順寧王、太平為特進金紫光禄大夫・賢義王、把禿孛羅為特進金紫光禄大夫・安楽王、仍命所司給賜印誥」
- ↑ 『明太宗実録』永楽七年六月癸丑,「賜瓦剌使臣暖答失等綵幣並襲衣、遣帰命亦剌思等齎印誥賜順寧王馬哈木・賢義王太平・安楽王把禿孛羅与之偕行」
- ↑ 和田 1959, p. 217.
- ↑ 『明太宗実録』永楽八年三月丙子,「遣瓦剌使者帰命指揮保保等護送、復賜勅労順寧王馬哈木・賢義王太平・安楽王把禿孛羅、各賜綵幣二十匹」
- ↑ 『明太宗実録』永楽九年閏十二月己卯,「遣指揮孫観保等送瓦剌使臣馬哈麻等還、並賜順寧王馬哈木綵幣・金織龍衣・金織襲衣・馬甲・弓矢、賜賢義王太平・安楽王把禿孛羅綵幣……」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十二年六月戊申,「駐蹕忽蘭忽失温。是日、虜寇答里巴・馬哈木・太平・把禿孛羅等率衆逆我師……餘衆敗走、大軍乗勝追之、度両高山、虜勒餘衆復戦、又敗之、追至土剌河、生擒数十人。馬哈木・太平等脱身遠遁……」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十三年正月丁未,「瓦剌順寧王馬哈木・賢義王太平・安楽王把禿孛羅遣使観音奴・塔不哈等貢馬謝罪……」
- ↑ 和田 1959, p. 64-66.
- ↑ 『明太宗実録』永楽十五年三月丁未,「太監海童等使瓦剌還、賢義王太平・安楽王把禿孛羅遣使貢名馬及方物謝罪」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十五年四月乙丑,「車駕次利国監、復遣太監海童使瓦剌指揮柏齢等副之。先是、海童自瓦剌還言、初瓦剌拒命皆順寧王馬哈木之謀、今馬哈木死、賢義王太平及安楽王把禿孛羅二人一心、其朝貢皆出誠意。至是、復遣海童等齎勅、労太平・把禿孛羅、且賜之綵幣・表裏与其貢使偕行」
- ↑ 和田 1959, p. 218/231.
- ↑ 『明太宗実録』永楽十六年三月甲戌(二十四日),「太監海童指揮柏齡等自瓦剌還。賢義王太平・安楽王把禿孛羅及弟昂克并順寧王馬哈木子脱歓及頭目阿憐帖木児、各遣使奉表貢馬。脱歓請襲父爵」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十六年四月甲辰(二十四日),「遣太監海童・右軍都督僉事蘇火耳灰・都指揮程忠等齎勅、賜太平・把禿孛羅及昂克・脱歓等綵幣・表裏有差。命脱歓襲父爵為順寧王。……」
- ↑ 李 2018, p. 38.
- ↑ 『明太宗実録』永楽十七年十一月己酉,「指揮毛哈剌還自瓦剌言、阿魯台襲賢義王太平等、大敗之。上曰、阿魯台黠虜与瓦剌相讐久矣。朕嘗遣人諭太平等、令備之不従。朕言、遂至于此。於是、遣千戸脱力禿古等往賜太平・把禿孛羅等綵幣・表裏、且慰問之」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十九年二月,「千戸脱力禿古等還自瓦剌、賢義王太平・安楽王把禿孛羅及昂克・賽因孛羅等各遣使貢馬。命礼部賜宴」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十九年三月丁亥,「瓦剌賢義王太平・安楽王把禿孛羅等使臣辞還、賜鈔幣有差。復遣太監海童等齎綵幣表裏往賜之。仍降詔諭其部落諭其部落曰、往年寇辺之罪已在赦前一切不問。自今其頭目人等能攄誠来帰、悉授以官。初瓦剌為阿魯台所敗、其部衆流散、有近我辺境者懼為辺将所執、故下詔安之」
- ↑ 和田 1959, p. 218-219.
- ↑ 李 2018, p. 39.
- ↑ 『明仁宗実録』洪熙元年正月壬辰(二十一日),「瓦剌安楽王把禿孛羅・子亦剌恩及酋長乃剌忽・昂克・脱歓・哈剌・八丁各貢馬、賜綵幣表裏有差。……」
- 1 2 李 2018, p. 40.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳五年五月丁未(八日),「命瓦剌順寧王脱歓所遣使臣脱火歹為都指揮僉事、餘授官有差。上嘉脱歓之誠、故授脱火歹等以官。命羽林前衛指揮使孫観等齎勅偕往、賜脱歓盔甲・綵幣等物。乃賜其属演克・阿剌等綵幣有差」
参考文献
- 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 李志遠『従斡亦剌到輝特——十五至十六世紀忽都合別乞家族及属部研究』、2018年
- 宝音德力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
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