カルロス・バルデラマ
From Wikipedia, the free encyclopedia
Carlos Alberto Valderrama Palacio
| ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
|
2016年のバルデラマ | ||||||
| 名前 | ||||||
| 本名 |
カルロス・アルベルト・バルデラマ・パラシオ Carlos Alberto Valderrama Palacio | |||||
| 愛称 | El Pibe (子供)[1] | |||||
| ラテン文字 | Carlos Valderrama | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1961年9月2日(64歳) | |||||
| 出身地 | サンタ・マルタ | |||||
| 身長 | 179cm | |||||
| 体重 | 74kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF (OH) | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
|
| ||||||
|
| ||||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1981-1984 |
| 94 | (5) | |||
| 1984-1985 |
| 33 | (0) | |||
| 1985-1988 |
| 131 | (22) | |||
| 1988-1991 |
| 77 | (4) | |||
| 1991-1992 |
| 17 | (1) | |||
| 1992-1993 |
| 10 | (1) | |||
| 1993-1995 |
| 82 | (5) | |||
| 1996-1997 |
| 43 | (7) | |||
| 1996-1997 |
→ | 19 | (4) | |||
| 1998-1999 |
| 22 | (3) | |||
| 1999-2001 |
| 71 | (5) | |||
| 2001-2002 |
| 39 | (1) | |||
| 通算 | 619 | (54) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1985-1998 |
| 111 | (11) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2008-2010 |
| |||||
|
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
カルロス・アルベルト・バルデラマ・パラシオ(Carlos Alberto Valderrama Palacio, 1961年9月2日 - )は、コロンビア・サンタ・マルタ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。
1980年代から90年代の南米を代表する選手として、1987年と1993年、1999年の3度に渡って南米年間最優秀選手賞を受賞しており、ワールドサッカー誌が選出した20世紀の偉大なサッカー選手100人の1人でもある。また、ペレによって選ばれたFIFA 100にも選出されている[2]。
コロンビア代表には1985年から1998年にかけて出場し、通算111キャップはダビド・オスピナに次ぐ同国史上2番目の記録を誇る[3]。FIFAワールドカップには3度、コパ・アメリカには5度参加しており、クラブレベルでは主にコロンビアやアメリカ国内のクラブに所属して2002年にアメリカのコロラド・ラピッズにて現役を引退した。
キャリア初期とコロンビア国内での台頭
1980年、地元サンタ・マルタを本拠地とするウニオン・マグダレナでプロデビュー。10代の頃からその卓越した戦術眼は注目を集めていた。1984年に強豪ミジョナリオスへ短期間在籍した後、1985年にデポルティボ・カリへ移籍。ここでバルデラマの才能は完全に開花する。
当時のコロンビア国内リーグは、後に「ナショナル・フットボール」の黄金期と呼ばれる時代にあり、潤沢な資金(その背景には麻薬カルテルの関与も指摘される)を背景に、南米各国の代表クラスが国内リーグに集結していた。[4]
バルデラマは、この世界屈指の競争力を誇ったリーグにおいて、ベルナルド・レディンとの中盤での見事なコンビネーション(通称「トコ・イ・メ・ボイ」:叩いて動くパス回し)でリーグを席巻。[5]タイトル獲得には至らなかったものの、1987年にはコロンビア人として初となる「南米年間最優秀選手賞」を受賞し、南米最高の名手の座を確立した。
欧州挑戦:フランスとスペイン
1988年、移籍金約200万ドルでフランスのモンペリエHSCへ加入。当時のフランスサッカーはフィジカルとスピードが重視されており、当初はバルデラマの「静」のスタイルは「遅すぎる」と批判の対象となった。しかし、クラブの会長や監督が彼のプレースタイルを支持し続けると、徐々に周囲と調和。
1989-90シーズンにはクープ・ドゥ・フランスの決勝でラシン・パリを破り、クラブにとって歴史的なタイトル獲得に貢献した。モンペリエでの活躍は今なお語り継がれており、クラブのレジェンドの一人に数えられている。
1991年には、コロンビア代表監督でもあったフランシスコ・マツラナが率いるスペインのレアル・バリャドリードへ移籍。ここには同胞のレネ・イギータ、レオネル・アルバレスも集まり「コロンビア・バリャドリード」とも呼ばれた。しかし、クラブの財政難や成績不振が重なり、バルデラマ自身もスペインのプレッシングサッカーに苦しんだ。1991-92シーズンのミチェル(レアル・マドリード)との有名な「股間接触事件」が発生したのもこの時期である。結局、クラブは降格圏に沈み、わずか1シーズンで退団を余儀なくされた。[6]
母国への凱旋と黄金期
1992年にインデペンディエンテ・メデジンを経て、1993年にアトレティコ・ジュニオールへ移籍。ここでのプレーは彼のキャリアにおいて第2の黄金期となる。
1993年、1995年と2度の国内リーグ優勝を達成。特に1993年には、自身2度目となる南米年間最優秀選手賞を受賞した。30代を迎えても衰えないパスの精度とキープ力は、コロンビア国内で「バルデラマこそがリズムそのもの」と称賛され、1994年アメリカW杯に向けた国内のサッカー熱の象徴となった。[7]
しかし、バルデラマはキャリアの絶頂期にありながらコロンビアを離れる決断を下した。この背景には、当時のコロンビア社会を覆っていた極度の治安悪化が深く関わっている。1994年W杯でのアンドレス・エスコバルの殺害事件以降、コロンビアのサッカー選手やその家族は常に誘拐や暴力の脅威にさらされており、バルデラマ自身も家族の安全を確保することを最優先事項としていた。[8] また、1990年代半ばに入ると、麻薬カルテルの摘発強化により、それまで国内リーグを支えてきた潤沢な資金源が枯渇し始めた。これにより多くのクラブが財政難に陥り、国内リーグのレベル低下が懸念される中で、バルデラマは新しい挑戦の場として、経済的に安定し、家族の安全が保障されるアメリカ(MLS)を選択した。[9]後年、彼はインタビューにおいて「あの時の決断はサッカーのためだけではなく、人生と家族のためのものだった」と回想している。[10]
MLS時代のパイオニアとして
1996年、新たに発足したアメリカのメジャーリーグサッカー(MLS)に参入。
当時34歳だったバルデラマは、依然としてコロンビア代表の主将であり、南米や欧州のクラブからも関心を持たれていたが、MLSが掲げる「スター選手によるリーグのプロモーション」という役割を受け入れた。[11]
バルデラマ自身は、この移籍について「新しい国でサッカーを成長させるプロジェクトの一員になることは、大きな挑戦だった」と後に回想している。[12] また、1994年アメリカW杯での経験から、アメリカにおけるサッカーの潜在的な可能性を感じていたことも背景にある。リーグ側は彼を「リーグの顔」の一人として位置づけ、分配金制度(アロケーション)を用いてタンパベイ・ミューティニーへ配属した。
初年度から圧倒的な存在感を見せ、1996年シーズンのMLS初代年間最優秀選手に選出。アメリカでもその独特なヘアスタイルと、走らずともパス一本で試合を決めるスタイルは熱狂的に受け入れられた。
その後、マイアミ・フュージョン(1998-99)を経て、再びタンパベイに戻り、2000年シーズンには26アシストという、現在も破られていないMLSのシーズン最多アシスト記録を樹立した。[13]2001年にはコロラド・ラピッズへ移籍し、2002年、41歳で現役を引退。
MLSでの通算114アシストは、長らくリーグ記録として保持され(後にランドン・ドノバンが更新)、米国におけるプロサッカーの定着に多大な功績を残した。[14]
代表経歴
1985年に代表デビュー。以降、ファウスティーノ・アスプリージャ、フレディ・リンコン、レネ・イギータらと共にコロンビアサッカー史における「黄金世代」の中心選手として、長年にわたり主将と背番号10番を担った。
1980年代後半:南米の頂点へ
1987年のコパ・アメリカでは、ボリビア、パラグアイを破りC組を首位で通過。準決勝でチリに敗れたものの、3位決定戦ではディエゴ・マラドーナを擁し、前年のW杯王者であったアルゼンチンを2-1で撃破した。この大会での圧倒的なゲームメイク能力が評価され、同年の南米年間最優秀選手賞を初受賞。名実ともに南米を代表する選手となった。[15]
1990年イタリアW杯:伝説のパス
1990年、コロンビアを28年ぶりとなるW杯出場へと導く。1次リーグ初戦のUAE戦では、自らミドルシュートを叩き込み、W杯初得点とチームの初勝利(2-0)を記録した。1次リーグ突破を懸けた最終戦の西ドイツ戦では、0-1とリードされた後半ロスタイムに伝説的なプレーを見せる。中盤でボールをキープし、相手ディフェンスを引き付けてからフレディ・リンコンへ完璧なスルーパスを供給。これが同点ゴールとなり、コロンビア史上初の決勝トーナメント進出を劇的に決めた。対戦した西ドイツ主将のローター・マテウスは、バルデラマのパスの精度を「シルクの糸のようだった」と称賛した。[16]
1993年:アルゼンチン戦の衝撃
1993年9月5日、1994年アメリカW杯・南米予選の最終戦において、敵地ブエノスアイレスでアルゼンチンと対戦。バルデラマはこの試合で攻撃のタクトを振り、5-0という歴史的な大勝を収める立役者となった。この勝利により、コロンビアは「W杯優勝候補」と目されるようになり、バルデラマ自身も同年、2度目となる南米年間最優秀選手賞を獲得した。[17]
1994年・1998年W杯
1994年アメリカ大会において、コロンビア代表はペレから「優勝候補」と評されるほどの期待を集めていた。しかし、バルデラマら代表選手たちの裏では、国内の麻薬カルテルによる賭博や脅迫が蔓延し、チームは極限のプレッシャーに晒されていた。[18]
初戦のルーマニア戦は1-3で敗北した。選手や監督の家族に対して殺害予告が届くなど、治安問題がチームを直撃。[19]第2戦のアメリカ戦では、DFアンドレス・エスコバルが痛恨のオウンゴールを献上し、チームはグループリーグ敗退を喫した。大会終了後、帰国したエスコバルがメデジン市内で射殺される事件が発生。この悲劇は「コロンビアサッカー史上最も暗い日」と呼ばれ、バルデラマら黄金世代の選手たちに深い傷を残した。バルデラマは後に、この時期を「サッカーが命よりも重くなってしまった、恐ろしい時代だった」と回想しており、この事件を機に代表引退を真剣に検討したほどであった。[20]
36歳で迎えた1998年フランス大会では、3大会連続で主将としてチームを牽引した。1次リーグ第2戦のチュニジア戦(1-0)では、絶妙なパスでレデル・プレシアードの決勝ゴールをアシストし、W杯での最後のアシストを記録した。[21]しかし、続くイングランド戦(0-2)で敗れ、チームは1次リーグ敗退。バルデラマはこの試合を最後に代表引退を表明した。[22]代表通算111試合11得点。彼の引退と共にコロンビアの黄金世代は終焉を迎え、チームはその後2014年大会まで16年間にわたりW杯の舞台から遠ざかることとなった。[23]
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で78位に選出された。[24]
2004年3月、『偉大なサッカー選手100人』ではコロンビアから唯一選定された。[25]
プレースタイル
コロンビア代表の司令塔として主に10番 (トップ下)のポジションでプレーし、優れたボールコントロールや当時代表のストライカーだったファウスティーノ・アスプリージャに対してスルーパスを送ることを武器にしていた[26]。目を見張る体格こそ持っていなかったが、相手が触れない位置にボールを置くことで、相手の足が出てきた瞬間に軽やかなステップワークで交わしてボールを前進させるなど、類まれなる技術を持っていた[27]。
エピソード
ミチェルとの接触事件
レアル・バリャドリード時代の1991年9月、レアル・マドリード戦のセットプレー中に、相手MFのミチェルから股間を執拗に触られるという嫌がらせを受けた。この場面はテレビ中継で克明に映し出され、スペインサッカー界に大きな衝撃を与えた。後年、バルデラマはこの出来事を逆手に取り、精巣がん検診の早期受診を呼びかけるキャンペーン動画に出演。「ミチェルには感謝している。あの時触られたことで、検査の重要性に気づけた」とユーモアを交えて語り、大きな反響を呼んだ。[28]
個人成績
クラブ
| クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | 国際カップ | その他 | 合計 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ディビジョン | 試合 | ゴール | 試合 | ゴール | 試合 | ゴール | 試合 | ゴール | 試合 | ゴール | ||
| ウニオン・マグダレーナ | 1981 | カテゴリア・プリメーラ A | 15 | 1 | 1 | 0 | – | – | 16 | 1 | ||
| 1982 | 43 | 2 | – | – | – | 43 | 2 | |||||
| 1983 | 36 | 2 | – | – | – | 36 | 2 | |||||
| 合計 | 94 | 5 | 1 | 0 | – | – | 95 | 5 | ||||
| ミジョナリオス | 1984 | カテゴリア・プリメーラ A | 33 | 0 | – | – | – | 33 | 0 | |||
| デポルティーボ・カリ | 1985 | 48 | 13 | – | – | – | 48 | 13 | ||||
| 1986 | 46 | 5 | – | 6 | 0 | – | 52 | 5 | ||||
| 1987 | 37 | 4 | – | 6 | 1 | – | 43 | 5 | ||||
| 合計 | 131 | 22 | – | 12 | 1 | – | 143 | 23 | ||||
| モンペリエ | 1988–89 | リーグ・アン | 24 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | – | 27 | 1 | |
| 1989-90 | 18 | 1 | 5 | 1 | – | – | 23 | 2 | ||||
| 1990-91 | 35 | 2 | 2 | 0 | 4 | 0 | – | 41 | 2 | |||
| 合計 | 77 | 4 | 9 | 1 | 5 | 0 | – | 91 | 5 | |||
| バリャドリード | 1991-92 | ラ・リーガ | 17 | 1 | 4 | 0 | – | – | 21 | 1 | ||
| インデペンディエンテ・メデジン | 1992 | カテゴリア・プリメーラ A | 10 | 1 | – | – | – | 10 | 1 | |||
| ジュニオール | 1993 | 35 | 4 | – | – | – | 35 | 4 | ||||
| 1994 | 18 | 1 | – | 7 | 0 | – | 25 | 1 | ||||
| 1995 | 29 | 0 | – | – | – | 29 | 0 | |||||
| 合計 | 82 | 5 | – | 7 | 0 | – | 89 | 5 | ||||
| タンパベイ・ミューティニー | 1996 | MLS | 23 | 4 | 1 | 1 | – | 4 | 0 | 28 | 5 | |
| 1997 | 20 | 3 | 1 | 0 | – | 2 | 0 | 23 | 3 | |||
| 合計 | 43 | 7 | 2 | 1 | – | 6 | 0 | 51 | 8 | |||
| デポルティーボ・カリ (loan) | 1996-97 | カテゴリア・プリメーラ A | 18 | 4 | – | 3 | 1 | – | 21 | 5 | ||
| マイアミ・フュージョン | 1998 | MLS | 18 | 2 | 1 | 0 | – | 2 | 0 | 21 | 2 | |
| 1999 | 4 | 1 | – | – | – | 4 | 1 | |||||
| 合計 | 22 | 3 | 1 | 0 | – | 2 | 0 | 25 | 3 | |||
| タンパベイ・ミューティニー | 1999 | MLS | 27 | 3 | 2 | 0 | – | 2 | 0 | 31 | 3 | |
| 2000 | 32 | 1 | 2 | 0 | – | 2 | 0 | 36 | 1 | |||
| 2001 | 12 | 1 | 1 | 0 | – | – | 13 | 1 | ||||
| 合計 | 71 | 5 | 5 | 0 | – | 4 | 0 | 80 | 5 | |||
| コロラド・ラピッズ | 2001 | MLS | 12 | 0 | – | – | – | 12 | 0 | |||
| 2002 | 27 | 1 | 2 | 0 | – | 5 | 1 | 34 | 2 | |||
| 合計 | 39 | 1 | 2 | 0 | – | 5 | 1 | 46 | 2 | |||
| 通算 | 637 | 58 | 24 | 2 | 27 | 2 | 17 | 1 | 705 | 63 | ||