ウーゴ・サンチェス

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本名 ウーゴ・サンチェス・マルケス
Hugo Sánchez Marquez
愛称 マニート、ウーゴル、ペンタピチーチ
ラテン文字 Hugo Sánchez
ウーゴ・サンチェス
2008年のサンチェス
名前
本名 ウーゴ・サンチェス・マルケス
Hugo Sánchez Marquez
愛称 マニート、ウーゴル、ペンタピチーチ
ラテン文字 Hugo Sánchez
基本情報
国籍 メキシコの旗 メキシコ
生年月日 (1958-07-11) 1958年7月11日(67歳)
出身地 メキシコシティ
身長 173cm
体重 68kg
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション FWCF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1971-1981 メキシコの旗 UNAMプーマス 188 (97)
1979-1980 アメリカ合衆国の旗 サンディエゴ・サッカーズ (Loan) 32 (26)
1981-1985 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 111 (54)
1985-1992 スペインの旗 レアル・マドリード 207 (164)
1992-1993 メキシコの旗 クラブ・アメリカ 29 (11)
1993-1994 スペインの旗 ラージョ・バジェカーノ 29 (16)
1994-1995 メキシコの旗 アトランテ 31 (13)
1995-1996 オーストリアの旗 LASKリンツ 20 (6)
1996 アメリカ合衆国の旗 ダラス・バーン 20 (6)
1997 メキシコの旗 アトレティコ・セラヤ 12 (2)
代表歴
1977-1998 メキシコの旗 メキシコ 58 (29[1])
監督歴
2000-2005 メキシコの旗 UNAMプーマス
2006 メキシコの旗 クルブ・ネカクサ
2006-2008 メキシコの旗 メキシコ代表
2008 メキシコの旗 U-23メキシコ代表
2008-2009 スペインの旗 アルメリア
2012 メキシコの旗 パチューカ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ウーゴ・サンチェス・マルケス(Hugo Sánchez Marquez, 1958年7月11日 - )は、メキシコメキシコシティ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW

メキシコ史上最高のストライカー。1999年に国際サッカー歴史統計連盟が行った投票において20世紀で26番目に偉大な選手に選ばれた。これは南米、欧州以外の出身者では最上位である[2]

キンタ・デル・ブイトレと呼ばれた1980年代後半のレアル・マドリードの中心選手で、リーガ・エスパニョーラで5度の得点王に輝いた。リーガでの総得点は234得点を数え、252得点を挙げたテルモ・サラに次ぐ当時歴代2位であった。左利きで、バイシクル・キックの名手。ゴールを決めたあとは前方宙返りのパフォーマンスをした。ワールドカップにはメキシコ代表として3度出場(1986年大会のベスト8が最高成績)。

選手時代

メキシコで生まれ、10代の頃にメキシコ代表としてモントリオールオリンピックに出場。その時点で既に国際試合での得点数は80を超えていた。18歳でUNAMプーマスと契約し、クラブ初のリーグ制覇を果たす。自国開催であった1977年のCONCACAFチャンピオンシップにも出場。同国代表のビクトル・ランヘルに次ぐ4得点を記録して優勝に貢献した。1979年には、20ゴールを挙げて得点王にも輝いた。その後、北米サッカーリーグサンディエゴ・サッカーズへとオフシーズンの間のみレンタル移籍。UNAMプーマスでの最後のシーズンでは、26ゴールで再び得点王となった。

アーセナルからもオファーが届いていたがそれを拒否し、1981年にアトレティコ・マドリードへと移籍した。1984-85シーズンにはコパ・デル・レイスーペルコパを獲得し、自身もピチーチ賞を獲得した。その翌年には、同じくマドリードを本拠地とするレアル・マドリードへと移籍。当時アトレティコ・マドリードの会長であったビセンテ・カルデロンは、ライバルであるレアル・マドリードへ直接移籍させることによりファンから反感を買うことを恐れ、古巣であるUNAMプーマスへの移籍を間に挟んでレアル・マドリードへ移籍させた[3]

エミリオ・ブトラゲーニョミチェルらを擁し、キンタ・デル・ブイトレと称されたチームにあってエースストライカーとして活躍。移籍1シーズン目にはリーグ戦で22ゴールを挙げ優勝に貢献、同シーズンにはUEFAカップ制覇にも貢献した[4]。以降の4シーズンも連続でスペインリーグを制し、サンチェス自身も4度リーグ得点王に輝き、ピチーチ賞を獲得した[4]。1989-90シーズンには38得点を挙げ、テルモ・サラと並んで当時のスペインリーグ年間最多得点となり、ヨーロッパ・ゴールデンブーツを獲得した[5]

その後、故郷であるメキシコのクラブ・アメリカへ移籍。1992年には自身2度目となるCONCACAFチャンピオンズカップを制覇し、サンチェスは決勝戦LDアラフエレンセ戦での決勝ゴールを含む7ゴールを記録して得点王に輝いた。

クラブ・アメリカからラージョ・バジェカーノを経てオーストリアLASKリンツへ移籍。リンツではエアステリーガブンデスリーガに次ぐ2部リーグ)の優勝に貢献した。1997年にアトレティコ・セラヤへ加入。レアル・マドリードのチームメイトであったブトラゲーニョ、ミチェルらと再びチームメイトとなった。同年引退。

メキシコ代表としては、1978年ワールドカップアルゼンチン大会、1986年ワールドカップメキシコ大会、1994年年ワールドカップアメリカ大会に出場、1986年大会ではグループリーグ初戦のベルギー戦でゴールを決めている[6]。また1993年のコパ・アメリカにも出場、グループリーグで敗退したものの復活トーナメントにて決勝トーナメントの出場権を得ると、準決勝のエクアドル戦でゴールを決めて決勝進出に貢献[6]、決勝でアルゼンチンに破れ準優勝に終わった。

現役引退後

引退後もサッカーに携わり、2000年3月にサンチェスがデビューしたUNAMプーマスの監督として2年契約を行った。サンチェスの監督就任は大きな話題を集めたが、当時の会長であるヒメネス・エスプリウとの考えの違いが明確になり、「ヒメネスが辞任すれば戻ってくる。自分が正しく、ここに戻ってくることは知っている」という言葉と共に8月にUNAMプーマスを去った。翌年11月、ヒメネスが辞任したことにより再び監督に就任した。サンチェスはUNAMプーマスでクラウスーラ2004、アペルトゥーラ2004のタイトルをもたらした。また、2004年には古巣のレアル・マドリードとトロフェオ・サンティアゴ・ベルナベウで対戦し、1-0で勝利した。

2006年、南アフリカW杯を見据えてメキシコ代表監督に就任。しかし、2007年のCONCACAFゴールドカップで優勝を逃し、さらに北京オリンピック・北中米カリブ海予選も敗退し、約束としていたゴールドカップ優勝とオリンピックでのメダル獲得が成らなかったことにより解任された。2008年12月、UDアルメリアの監督に就任した[7]。リーガ・エスパニョーラのメキシコ人監督としてはアトレティコ・マドリードハビエル・アギーレ監督に次ぐ。

その他

個人成績

クラブ シーズン リーグ カップ1 国際カップ2 通算
出場得点出場得点出場得点出場得点
UNAMプーマス 1976-77 277277
1977-78 30113011
1978-79 4528204728
1979-80 4430324732
1980-81 4221754926
合計 18897127200104
サンディエゴ 1979 17121712
1980 15141514
合計 32263226
A.マドリード 1981-82 20854202712
1982-83 3115873922
1983-84 2712107203919
1984-85 3319129214729
合計 1115435276115282
R.マドリード 1985-86 3322521154929
1986-87 413466735443
1987-88 362973735035
1988-89 352785755037
1989-90 353873314542
1990-91 191232352519
1991-92 821011103
合計 20716437213923283208
クラブ・アメリカ 1992–93 2911673518
合計 2911673518
ラージョ・バジェカーノ 1993-94 2916613517
合計 2916613517
アトランテ 1994–95 31133113
合計 31133113
LASKリンツ 1995–99 206206
合計 20162016
ダラス・バーン 1996 25112511
合計 25112511
アトレティコ・セラヤ 1996–97 122122
合計 122122
通算 68440078496338823487

1コパ・デル・レイ, スーペルコパ・デ・エスパーニャ, コパ・デ・ラ・リーガ. 2CONCACAFチャンピオンズリーグ, コパ・インテラメリカーナ, UEFAカップ, UEFAカップウィナーズカップ, UEFAチャンピオンズカップ.

獲得タイトル

脚注

外部リンク

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