フィアット・マリネッラ (1957)
1950年代 と1960年代 にフィッソーレ社は数多くのフィアット車を基にした特装車を製造し、その中の幾つかは少量生産が行われた。これらの中には以下のものがある:
フィアット 1100 TV フィッソーレ・クーペ (1953):フィアット・1100 を基にしたファストバックのクーペ 。この車はフィッソーレ社にとり初の成功作であった。
サブリナ (Sabrina):フィアット・ムルティプラ (初代)を基に4 -6座のボディを架装した車。「マリネッラ」 (Marinella) と呼ばれるオープンのビーチカー版もある。
Mongho 650 :アレッサンドロ・セッサーノ (Alessandro Sessano) がデザインしたフィアット・Nuova 500 を基にした小型のクーペ。より高性能を求めて500のエンジンはジャンニーニ (Giannini ) によりチューンナップ されていたが、試作車の段階から先に進まなかった。
関連会社のレイトン・フィッソーレ社と同時期にフィッソーレ社もフィアット・リトモ のコンバーチブル 版を開発したが[ 2] [ 5] 、最終的にリトモ・コンバーチブルの量産型にはベルトーネの設計案が採用された。
OSCA 1600 GT 2 (1963)
1962年 にフィッソーレ社はマセラティ 兄弟のO.S.C.A. のために少量生産のボディを製作した。流麗な3ボックス型のボディはOSCA・1600を基にしており、22台のクーペと2台のコンバーチブルが造られた。
フィッソーレ社は1960年代 初めにDKW とアウトウニオン 社との関係を築いたことでDKWの現地法人VEMAGがブラジル で3種類のフィッソーレ製ボディの車を造ることになった:
DKW-VEMAG Belcar
DKW-VEMAG Vemaguet
VEMAG Fissore
フィッソーレ社製ボディのデ・トマソ・ヴァレルンガ
デ・トマソ 社のためにフィッソーレ社はミッドシップ ・エンジンのヴァレルンガ をデザインし、1台だけのスパイダー の試作車も開発したがこれは量産されなかった。約15台のクーペが生産されたが、これは当時アレハンドロ・デ・トマソ (Alejandro de Tomaso ) が所有権の一部を保持していたカロッツェリア・ギア が担当した。
フィッソーレ社にとりモンテヴェルディとの関係は特に重要なものであり、この関係はフィッソーレ社が1970年代 を乗り切ることを確かなものとした。
モンテヴェルディは、元々モンテヴェルディ・ハイスピード クーペのデザインと生産をピエトロ・フルア に委託していた。フルアの生産能力が限られていたためペーター・モンテヴェルディ (Peter Monteverdi ) は、わずか1年半後の1968年 にフルアとの関係を断ってフィッソーレ社に乗り換えた。意匠権 の訴訟によりモンテヴェルディが新たなデザイン(これが彼自身が主張するようにモンテヴェルディの作品かフィッソーレの作品かは定かではない)に変更せざるを得なくなるまでフルアのオリジナルデザインのままフィッソーレ社で生産された。いずれにせよフィッソーレ社がこのデザインを自社の作品だと主張したことはなく、これ以降のハイスピード派生のクーペ、コンバーチブル 、セダンのデザインについても同様であった。
この生産工程は複雑であった。スイス のバーゼル で製作されたシャーシは、ボディを架装するためにサヴィリアーノへ送られ、その後エンジンやその他の機械部品の組み込みと最終仕上げのために再度スイスへと送り返された。生産能力の問題から実際は少なくない台数のハイスピードがポッカルディ (Poccardi) やエンボ (Embo) といったカロッツェリアで製作された。
フィッソーレ社は、更に成功作となったモンテヴェルディ・サファリ のボディ製造も担当したが、ダッジ・アスペン (Dodge Aspen ) を仕立て直したモンテヴェルディ・シエラ (Monteverdi Sierra) の製造を担当したかどうかは定かではない。モンテヴェルディ車が独自のボディから既存の車に多少変更を加えただけのものになると生産工程の全てはスイス内で行われるようになったと思われる。フィッソーレ社は、フォード・グラナダ を基にした世に出なかった上品ではあるがsquare-rigged な3ドア・クーペの試作車モンテヴェルディ・2.8 ターボのデザインも行った[ 7] 。
フィッソーレ社のデザイナーであるトレヴァー・フィオーレ(Trevor Fiore、旧姓Frost)は、TVR 向けに楔形の2座クーペを開発し、1965年 3月のジュネーヴ・モーターショー で発表された。この車が生産に入る前にTVRは破産したためフィッソーレ社はこの権利を元TVRディーラーに売却し、この車はトライデント (Trident ) として販売され、1976年 までに約130台が売れた。同じくトレヴァー・フィオーレは「アルピーヌ 」向けにA110 の後継車として楔形デザインの車を提案し、これがアルピーヌ・A310 として採用された。モンテヴェルディ・ハイ は、表向きはペーター・モンテヴェルディ自身のデザインとされているが、A310と非常に似通った外観をしている。
フィッソーレ社は、オペル・ディプロマート Bの4ドア・コンバーチブルの試作車を製作したが、この1台のみ(現存する)で終わった。「オータス」 (Otas) と呼ばれるアウトビアンキ・A112 を基にした小型のスポーツ・クーペもフィッソーレ社がデザインを担当した。1986年 のトリノ・モーターショーではレイトン・フィッソーレ社によりアルファロメオ・75 のエステート ・モデルが展示された。後の156 スポーツワゴン の先駆けとなるこの魅力的なモデルは市販されることなく、フィアット社がアルファロメオの経営権を握るとキャンセルされた。アルファロメオ・75 ターボを基にしたモデルは75 ターボ・ワゴンと命名された[ 8] 。このターボ・ワゴンとスポーツワゴンと命名された1台の2.0L 版の計2台が後に1987年 のジュネーヴ・モーターショーに展示された。合計で7台か8台のワゴンがアルファロメオのために製作された[ 9] 。