ギオルギ5世 (ジョージア王)
ジョージア王
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ギオルギ5世(ジョージア語: გიორგი V、ジョージア語ラテン翻字: Giorgi V、1286年 – 1346年)は、バグラティオニ朝ジョージア王国のメペ(王)(在位: 1299年–1302年、1318年[注釈 1]–1346年)。デメトレ2世「犠牲王」の末子である。
13世紀末から続くモンゴル帝国(イルハン朝)の支配からジョージアを脱し、国家の再統一と法的・経済的基盤の整備を行った。その治世において王国の勢力とキリスト教文化を回復させたことから、ジョージアの歴史上、光輝王(ジョージア語: ბრწყინვალე、ジョージア語ラテン翻字: Brtsqinvale、英語: the Brilliant)という二つ名で知られる。ジョージア人および外国の歴史家からは、その人物像と治世について高い評価を受けている。
称号
ギオルギ5世に関する現存する唯一の文書は、一部が欠損した状態であり、王の称号の全容は記されていない。当該文書には、称号の末尾にあたる「全東方および西方を自らの領有によって統治する君主」という記述のみが残されている。歴史学者のミヘイル・バフタゼは、ギオルギ5世の称号の冒頭部を「神の御志による、アブハズ人、カルトヴェリ人、ラン人、カフ人、アルメニア人の王。シルヴァン・シャーにしてシャーハーン・シャー」と指摘している[1]。バフタゼはまた、その治世において称号に変更が加えられ、「リヒ山脈の東西[注釈 2]の統合者」という定型句が追加されたと推測した。この仮説に基づく、ギオルギ5世の全称号は以下の通りである[1]。
最初の治世
1299年、モンゴル帝国(イルハン朝)はダヴィト8世に対抗させるため、デメトレ2世の末子であるギオルギ5世を東ジョージアの王として承認した[2][3][4]。ギオルギ5世は当時、母方の祖父であるサムツヘ公ベカ1世の宮廷で育てられていた。この段階においてギオルギ5世の権力は形式的なものに留まり、その支配権もトビリシ周辺に限定されていた。
モンゴル帝国は続いて1302年にデメトレ2世の次男ヴァフタング3世をも王に擁立したが、ヴァフタング3世はモンゴル側の期待に反し、強制された場合にのみ断続的にしかダヴィト8世と戦わなかった。複数の王を同時に立てるというモンゴル帝国のこうした措置は、ジョージアの国家としての統一性を再び根底から揺るがす事態を招いた。
ギオルギ5世とギオルギ6世「小王」
1304年に王ヴァフタング3世が死去した。ベカ1世はこの好機を捉え、ギオルギ5世をイルハン朝の宮廷へ派遣した。当時、イルハン朝の宮廷で大きな影響力を持っていたチョバンとベカ1世は友人関係にあり、その個人的な親交を背景としたものであった[5]。
チョバンは、死去したヴァフタング3世の跡をギオルギ5世に継がせるため、イルハン朝で新たに即位したオルジェイトゥにギオルギ5世を紹介した。オルジェイトゥはギオルギ5世を丁重に迎えたが、実際に王として承認したのは、ギオルギ5世の兄ダヴィト8世の幼い息子であるギオルギ6世であった。その際、オルジェイトゥはギオルギ5世に対し、幼いギオルギ6世の監督と世話を命じた[5]。
1311年初頭にダヴィト8世が死去した。これにより、東ジョージアの王位には、ギオルギ5世とギオルギ6世の両王が同時に在位することになった。だがイルハン朝のオルジェイトゥは引き続きギオルギ6世を王として承認した[5]。オルジェイトゥは、ジョージアの王位継承権者の中でギオルギ5世が最も有力であることをよく理解していた。ギオルギ5世の支持者の中には、サムツヘの貴族たち(母方の近親者)や、サムツヘ公ベカ1世と親交の深いチョバンらがいた。年代記によると「スルタン・オルジェイトゥは、小王ギオルギ〔ギオルギ6世〕を王として遣わした。そしてホラーサーン出身のペルシア人ザアル・メリキと、チョバンの父方の叔父アフルチを同行させた。それは、ギオルギの治世において、全ジョージアを一つに集約させるためであった」とされる[6]。オルジェイトゥはギオルギ6世の補佐役として、アミルスパサラリのシャンシェ2世・ムハルグルゼリとザカリア・ムハルグルゼリを任命した。同じ時期、オルジェイトゥはアナトリア地方で起きた反乱を鎮圧するために、チョバンを送り込んだ。この遠征には、サムツヘから派遣された軍を指揮していたギオルギ5世も同行した。この遠征の戦いを通して、ギオルギ5世はチョバンからの大きな信頼を勝ち取った[5]。
第2の治世
モンゴル帝国の総司令官チョバンとギオルギ5世がアナトリア地方での反乱鎮圧に従事している間、ギオルギ6世は自身の支持者と共にトビリシを占拠した。アナトリアの反乱鎮圧には丸一年を要したが、チョバンの遠征軍が帰還したわずか一ヶ月後にオルジェイトゥが死去した。イルハン朝のハンには、オルジェイトゥの幼い息子アブー・サイードが就いた。これにより、チョバンがイルハン朝の実質的な摂政となり、事実上無制限の権力を握ることとなった。ギオルギ5世はオルジェイトゥの死とアブー・サイードの即位を知ると、直ちにイルハン朝の宮廷へと赴いた。チョバンはギオルギ5世を喜んで迎え入れ、アブー・サイードの同意のもと、1318年にギオルギ5世をジョージア王として正式に承認した。年代記によると、チョバンはギオルギ5世を「我が子のように慈しみ、全ジョージアと、ジョージアの全諸公、そしてダヴィト王の子ら、さらにはメスヘティ人たるベカの子らをも、彼に委ねた」と記している[7][5]。ジョージアに帰還したギオルギ5世は、諸儀式に則り改めて王として戴冠した。
ギオルギ5世が継承した遺産は、極めて困難なものであった。ギオルギ5世の治世中、統一ジョージアはもはや存在せず、3つに分裂していた。経済は困窮し、王権は著しく弱体化していた。このような状況下で、ギオルギ5世は対モンゴル政策において、歴代の王たちとは異なる選択をした。ギオルギ5世は武力による対立ではなく、平和的な関係の構築による国力の回復を選択した[8]。
内政
ギオルギ5世は、先見の明がある政治家であった。王権を掌握した後、ギオルギ5世はまず国内の諸問題の解決に着手した。ギオルギ5世はまず最初に、貢納を自ら徴収する権利をチョバンに認めさせた。これは極めて意義深い出来事であった。なぜなら、これによってジョージアは、税の徴収を担っていたモンゴルの特別官(バスカク)たちによる恣意的な徴税から解放されたからである[8]。
内カルトリからのオセチア人の排除
ギオルギ5世がジョージアで実施した最初の重要な施策の一つは、北コーカサスから侵入してきたオセチア人に対する掃討作戦であった。
1330年代、モンゴル帝国の支援を受けたオセチア人たちが、内カルトリにおいて略奪を繰り返すようになった。
彼ら〔オセチア人〕は、カルトリを荒廃させ、殺戮し、略奪し、捕虜の連行を始めた。ゴリの街を奪取して自らの支配下に置き……ゴリを完全に焼き払った。
ジョージアの人々は以前からオセチア人の略奪を食い止めるために戦っていたが、モンゴルの支援と、特にジョージア国内の混乱に乗じて、オセチア人たちの山賊的な攻撃は依然として続いた[9][10]。年代記によれば、オセチア人の追放を完全に成し遂げたのはギオルギ5世だけであった。ジョージア軍はゴリの奪還に3年を要し、その後内カルトリ全域からオセチア人を一掃した。ヴァフシティ・バグラティオニによれば、ギオルギ5世は北コーカサスから続く道も占領・要塞化し、それによって「カルトリ地方をオセチア人から解放した」とされる[9]。
反乱領主たちとの戦い
中央権力を強化するため、ギオルギ5世は極端な手段に訴えざるを得なかった。イルハン朝のハンは、ジョージア王に反抗的なエリスタヴィ(公)や領主たちを支援し、扇動した。しかし、ギオルギ5世はすでにチョバンの好意を得ており、またイルハン朝の内部も混乱状態にあったことから、ギオルギ5世はこの好機を利用した。ギオルギ5世は、自身に従わなかったエリスタヴィたち、具体的にはカヘティ=ヘレティやソムヒティのエリスタヴィたちをツィヴィ山でのダルバジ(御前会議)に招集し、全員をまとめて殺害した[11][12][13]。この過激な行動により、ギオルギ5世は王権を大幅に強化した。
ジョージアの再統一

即位当初から、ギオルギ5世にとって最大の関心事の一つは、ジョージアの統一を回復することであった。西ジョージアではダヴィト6世の死後に即位したコンスタンティネ1世に対し、その弟であるミケリが反乱を起こしていた。兄弟間の争いは、一時的な休戦での中断はあったものの、断続的に継続した。1327年にコンスタンティネ1世が死去し、ミケリが王位に就いたが、ミケリもまた2年後に死去した。ミケリには幼い息子バグラトが残されたが、諸公の大多数はバグラトを支持しなかった。ギオルギ5世はこの好機を捉え、イメレティの貴族たちと連絡を取って合意を取り付け、西ジョージアに進軍してすべての城塞と都市を占領した。バグラトは少数の支持者とともにクタイシの要塞に立てこもったが、ギオルギ5世の軍がクタイシの都市に接近すると、バグラトは降伏した。ギオルギ5世は帰順の見返りとして、バグラトに対し、身の安全の保障とショラパニのエリスタヴィの地位を与えた[11][14]。クタイシではダディアニ家やグリエリ家、アブハジアやスヴァネティの諸公たちが多大な贈り物を携えて、ギオルギ5世に謁見して忠誠を誓った。その後、ギオルギ5世は自らオディシ、アブハジア、グリアを巡幸し、各地の諸問題を解決した[11]。
ギオルギ5世はまた、サムツヘを平和的に併合することにも成功した。1334年、叔父であるサムツヘ公サルギス2世が死去すると、ギオルギ5世はサムツヘに赴き、サルギス2世の息子クヴァルクヴァレ1世をアタバギに任命し、サムツヘの支配を認めた。この事実は、サムツヘに対するジョージア王の宗主権の回復と、サムツヘがジョージアの支配下に復帰したことを意味していた。この一連の動きにより、ギオルギ5世はジョージアの事実上の再統一を成し遂げた[14][11]。
モンゴル支配からの解放
1327年、イルハン朝のアブー・サイードは、自身の後見人であり実質的な統治者であったチョバンを処刑した。また、チョバンの息子2人やその支持者たちも殺害した。賢明で力強い統治能力を持っていたチョバンの死は、国家のさらなる衰退と崩壊を加速させた。若く政治家として未熟であったアブー・サイードは、この衰退を食い止めることができなかった。1335年にアブー・サイードが死去すると、国内は完全な混乱状態に陥り、イルハン朝は事実上、互いに敵対する複数の国家へと分裂した。
ギオルギ5世はこの状況を巧みに利用した。ギオルギ5世はモンゴルへの貢納を停止し、モンゴル軍を国内から追放した。この解放は1327年から1335年にかけて段階的に行われ、その過程では平和的・外交的な手段とともに、武力も行使された[15]。1330年代から1340年代にかけて、モンゴル側は東ジョージアの支配権を回復するために数回にわたる遠征を行ったが、成功を収めることはなかった[15]。
経済施策

ジョージアの統一回復、モンゴル支配からの解放、そして国内の秩序確立は、国家経済の活性化を促進した。ジョージアの諸都市では商業や手工業が著しく発展した。近東や北方の都市だけでなく、ヨーロッパ方面、特に北イタリアの都市国家との貿易・経済関係も回復した。活発な交易活動の証左として、トビリシのほかにクタイシ、ドマニシ、カラガジ、アニにも造幣局が存在した事実が挙げられる。ジョージア王国が支配した東ジョージアと北コーカサスでは、モンゴル支配からの解放後もモンゴル系の貨幣、より具体的には「ジョージア=イルハン型」の硬貨が鋳造されていた。これらの硬貨は、東方の諸都市との交易関係を回復・強化することを目的としていた[16]。
モンゴル系の貨幣と並行して、ギオルギ5世は国内市場の利便性向上を目的として銀貨を鋳造させた。この通貨は後に広く流通するようになった。例えばサムツヘでは、14世紀初頭にマンダトゥルトゥフツェシ(内務大臣に相当)のベカ1世が編纂した法典において、税の支払いは「ガザン・テトリ」(イルハン朝のガザン・ハンが発行した通貨。当時の国際標準通貨)で支払うよう規定されていた。しかし1380年代には、アタバギ兼アミルスパサラリ(軍最高司令官)のアグブガ1世が編纂した法典において、「偉大で光輝たる王ギオルギの御世の銀貨」での税の支払いが定められるに至った。ジョージアの史料では、この貨幣は「ギオルガウリ・テトリ」(ギオルギの銀貨)の名で言及されている[注釈 3]。
同時期、西ジョージアでは「キルマネウリ・テトリ」(君主マヌエル1世の銀貨)と呼ばれる銀貨が鋳造されていた。これはトレビゾンド帝国のアスプロン銀貨を模倣したものであった[16]。
現存する『王室典範』の一部には、ギオルギ5世の治世において、ジョージアでは園芸・果樹栽培、とりわけブドウ栽培やワイン醸造といった農業の様々な分野で大きな成功を収めたことが示されている。これらの分野の発展には、放棄されていた灌漑設備の修復や新たな整備をする必要があった。これは、東ジョージアや南ジョージアにおいて、農業の発展には灌漑が不可欠であったためである[17]。
法制度改革
ギオルギ5世は、国内の秩序回復のために広範な法的改革を行った。その最も重要な成果の一つが、法典『ジェリスデバ』(直訳で「記念碑(法)を置くこと」)の制定である。
この法典は、当時完全な無秩序状態にあった東ジョージアの山岳地帯(プシャヴィ、ヘヴスレティ、ティアネティなど)を対象としていた。ギオルギ5世は現地の状況を自ら視察した後、特別な規範文書を作成するために立法会議を招集した。この法典は序文と46の条文で構成された。そのうち4条が家族法および民法に充てられ、残りは刑法に関する規定であった。法典には様々な種類の犯罪とそれに対する刑罰が列挙されており、主なものとして、追放、領地の没収、罰金、賦役、そして恥辱刑としての剃髪などが挙げられる。ギオルギ5世はこの法典を通じて中央集権的な法秩序を再構築した。
また、文官や宮廷の儀礼を定めた『王室典範』の編纂も、王権の権威を確立する重要な役割を果たした。
ジョージア領北アルメニア

歴史的アルメニア(アルメニア高原一帯)の北部地域に対するジョージア王国の支配権の拡大は、建設王ダヴィトの時代から始まり、タマル女王の治世で最盛期を迎えた。しかし、その後のモンゴルのジョージア侵攻によって、アルメニアに対するジョージアの支配力は減退した。ギオルギ5世はアルメニア方面への勢力回復に多大な関心を寄せ、モンゴルによる宗主権を認めていた時期から、すでにアルメニアの再統合に向けた動きを見せていた。当時のアニのモスクの壁面には、アブー・サイードの命によって刻まれたペルシア語の碑文が残されており、その碑文によると、アニはその当時、依然としてジョージアの領有下であったことが記録されている[18]。1321年、グラゾル修道院(現在のタナハト修道院)で複写された福音書には、「アルメニアの暦の七百七十年〔1321年〕にあたる、世の中あさましき時に、弓射る族〔モンゴル人〕が、アルメニア人とジョージア人の国を力づくにて打ち随えて、ジョージアにはギオルギと号する王のましましける時の事なり」という一文が添えられている[19]。
また、同じくグラゾル修道院にある1323年の奥書によれば、写本が作成されたのは「ヤペテの暦の七百七十二年〔1323年〕にあたる、大いなる自己支配者アブー・サイードと号するハンが国を押し領りける時に、アルメニア人についてはキリキアの玉座にあるレヴォン5世、ジョージアと大アルメニアにはギオルギ王のしろしめしける時の事なり」と記されている[19]。
1336年、クリミアの都市ソルハト(現在のスタールイ・クリム)において、筆写者のテルテルは『ヴァルダン・アイゲクツィの説教集』の添え書きにおいて、次のように述べている。「私、ティラツは、卑しく、哀れな、怠惰なる僧侶であるが、……ジョージアからやって来た。ホル・ヴィラップ修道院の近隣にある、素晴らしい都市イェレヴァンの出身である」[20]。
同じ時期、シヴニエティ(シュニク)地方もジョージア領であった。1337年の写本の一つには、「アルメニア人とジョージア人の大軍司令官であり、王家の血統を引く公ブルテルの治世下」に作成されたという添え書きがある[21]。
この文章に言及されている「ブルテル」とは、ブルテル・オルベリャンのことである。オルベリャン家は、その先祖がかつてジョージア王によってアルメニアへ追放された後、現地に定着して各地を統治した一族であったが、何世紀にもわたって祖国ジョージアとの関係を断ってはいなかった。ブルテル・オルベリャンはギオルギ5世から、軍司令官の職位も授けられていた。
外交政策
聖地およびマムルーク朝との関係
13世紀、エルサレムにあるジョージア正教会の聖堂や修道院は、イスラム教徒によって接収された。1305年または1310年、ダヴィト8世の尽力により、ジョージアは十字架の修道院を取り戻すことに成功したが、その他の修道院は依然としてイスラム教徒の手に残っていた[22]。
ギオルギ5世は即位の初期から、エルサレムにあるジョージア正教会の修道院に目を向けた。ギオルギ5世は1316年、エジプトに最初の使節団を派遣した。当時、ギオルギ5世はギオルギ6世の摂政の立場であった。ギオルギ5世は続いて1320年に2度目の使節団を派遣した。ギオルギ5世はマムルーク朝(エジプト・スルタン朝)のスルタンに対し、高価な贈り物と書簡を送った。ギオルギ5世は、ジョージアの修道院の返還と、キリスト教徒にとって侮辱的な規則の撤廃を求めた。撤廃を求めた規則の例としては、巡礼者が馬に跨ることを禁じる規則(両足を馬の片側に揃えて乗らなければならないという規則)が挙げられる。ギオルギ5世は、規則を撤廃する見返りとして、必要が生じた場合にスルタンへの軍事支援を行うことを約束した[22]。
1320年に、ギオルギ5世はエジプトに使節として、クヴェニプネヴェリ家(後のクサニ公家)のピパと司祭イオアネ・バンダイスゼを派遣した。スルタンはギオルギ5世の要望を聞き入れ、聖墳墓教会の鍵をジョージア人に返還し、乗馬に関するキリスト教徒にとって侮辱的な規則も廃止した。加えてジョージア人には、巡礼者の税も免除され、旗を掲げた状態でエルサレムに入ることも許可された[22]。
ギオルギ5世はマムルーク朝において高く評価されていた。現存するアラビア語の史料は、ギオルギ5世およびその時代のジョージアに関する興味深い多くの情報を伝えている。アル=ウマリーの著作『高貴なる用語の解説』[23]には、エジプトのスルタンとジョージア王が交わした書簡の作法が記されている。スルタンたちは公式の書簡において、ジョージア王を次のように呼んでいた。
いと高きアッラー、主上の光耀を永劫に保たせ給へ。主上は、偉大剛毅にして勇猛なる、師子の如き将帥なり。数多の寄せ手を退け、御座を統べ、宝冠を戴き、御身の教法を窮め、万民に慈悲を施し給ふ。ギリシア諸王の中の賢王、ジョージアのスルタン、諸海と海峡なる王国の財宝なり。騎馬の士の国の守護、列王の末裔、ルームとイランの防壁なり。キリストの教えを堅固になし、その助けとなりて、諸国の義士が救世の主と仰ぐ御方なり。志を以てエルサレムを光顕し、浄めを受けし者の柱石となり、ローマの座主を助け、イスラムの徒とは真心の信義を結び、親密なる者らの中でも限りなく至誠を尽くし、諸王諸君主の友たる君なり。[24]
このやや賛美的な描写は、ギオルギ5世が有能な政治家であり外交官であり、他民族や他宗教に対して寛容であったことを明確に示している。イヴァネ・ジャヴァヒシヴィリの言葉を借りると、アル=ウマリーによるこれらの記述は、ギオルギ5世が「広く自由な精神を持つ政治家」であったことを示唆している[25][17]。
西ヨーロッパとの関係

14世紀、ジョージア王国は西ヨーロッパ諸国の注目を受けることが何度もあった。特に、ローマ教皇がジョージアとその国王に対して寄せた強い関心は、特筆に値する。カトリックの宣教師たちの往復書簡や、1322年に教皇ヨハネス22世がギオルギ5世に送った書簡が現存しており、これらには多くの注目すべき情報が含まれている。興味深いことに、ギオルギ5世の治世において、カトリックのスミルナ司教座がトビリシへと移された[26]。また、ジョージア国内にはトビリシ司教座のほかに、1318年に創設されたセバストポリス司教座という、第2の司教座が存在したことも確認されている[27]。
ギオルギ5世はフランス王フィリップ6世と活発な政治的関係を維持していたことも注目に値し、両者の往復書簡がその事実を裏付けている。ギオルギ5世はフィリップ6世に対し、次のように書き送っている。
フランスの神聖なる君主たちは、しばしば東方の諸王〔キリスト教諸国の君主〕をサラセン人〔イスラム教徒〕に対して(戦うために)駆り立てる。しかし(実情は)、その後、彼ら〔フランスの君主たち〕はもはや現れることがなく、彼ら(東方の諸王)をこの苦痛に満ちた戦争の中に(独りきりで)引きずり込んだまま置き去りにするのである。したがって、(請い願わくは)貴殿がどのように、そしていつ海を越えて来るのかを決定(判断)されるよう。そうすれば、貴殿の善意に従い、直ちに私も(その場に)参じるのを、3万人の兵を伴った姿で目にすることになるであろう。
1332年から1333年にかけて、ギオルギ5世はフィリップ6世の使節であるリチャルド・メルスィエールとイングランド人のアレクサンデルを丁重に迎えた[22][28]。
トレビゾンド帝国との関係
トレビゾンド帝国の人口の大部分は、ラズ人やチャン人といった、地元のジョージア系部族によって占められていた。トレビゾンド帝国の官吏の中にも、ジョージア系部族の出身者が多く存在した。トレビゾンド帝国では、ビザンツ帝国派の貴族と、ジョージア寄りの地元勢力との間で絶えず争いが繰り広げられていた。
ギオルギ5世は、トレビゾンド帝国におけるジョージアの影響力の回復を試みた。モンゴルのジョージア侵攻後、トレビゾンドにおけるジョージアの影響力は大幅に弱まったが、完全に消滅したわけではなかった。1332年、ビザンツ帝国の支援を受けて、トレビゾンド帝国でバシレイオスが即位した。バシレイオスには、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世の娘であるイリニが妻として与えられた。バシレイオスは自身の甥であるマヌエル2世を追放し、大ドゥクスのレケス・ツァツィンツァイオス、その妻サリケナ、および二人の息子である大ドメスティコスのツァンバスなど、政府の高官たちを殺害した。殺害された高官たちは、親ジョージア派の政治勢力を代表する人物であったと考えられる[29]。1340年にバシレイオスが死去すると、その妻イリニが即位した。この出来事は、トレビゾンド帝国の支配階層に分裂を生じさせた。親ジョージア派の政治家たちは、この時代に不満を抱いていたと考えられている。そこに、トルコ系遊牧諸部族(トゥルクマーン)による侵攻が加わり、その結果、トゥルクマーンによって「トレビゾンド全土が焼き払われた」。1341年、バシレイオスの姉で修道女であったアンナが反乱を起こした。アンナは「修道服を脱ぎ捨て、ラジカ(ジョージア)に向かい、そこで陣地を固めた」。その2週間後、アンナはジョージア軍を率いてトレビゾンドに戻った。そして1341年7月17日、アンナはイリニを廃位し、自らトレビゾンド皇帝としての即位を宣言した。ジョージア軍の一部はそのままトレビゾンドに留まり、親ビザンツ派を排除することに成功した。ジョージア軍の支援を得て、アンナはビザンツ帝国の攻撃を撃退した。ビザンツ帝国の目的は、アンナを打倒し、ミカエル・コムネノスを皇帝に擁立することであった[29]が、ビザンツ帝国の攻撃は失敗に終わった。
アンナの治世はわずか1年と2か月の間であった。1342年9月、親ビザンツ派がアンナを倒し、勝利を収めた。トレビゾンドの皇帝の座には、ミカエル・コムネノスの子であるヨハネス3世が就いた。アンナとその支持者たちは処刑された。この敗北にもかかわらず、親ジョージア派の政治家たちは、その後も権力争いを続けた[29]。
キリキア・アルメニア王国との関係
小アジア南東部にあるキリキア地方では、アルメニア人の移住の結果、1080年にキリキア・アルメニア侯国が成立し、1198年には王国へと発展した。ジョージア王国は、近隣諸国と緊密な政治的関係を持つだけでなく、親族・王朝間の婚姻によっても結びついていた。ギオルギ5世の娘であるソルダナは、キリキア・アルメニア王国の摂政ジヴァン・リュジニャンと結婚した[30][31]。二人の間には息子レヴォン6世が生まれた。レヴォン6世はキリキア・アルメニア王国の最後の王となった。
死と記録
ギオルギ5世は1346年に崩御し、ゲラティ修道院に埋葬された。王位は一人息子ダヴィト9世が継承した。ギオルギ5世の没時、イルハン朝は著しく弱体化しており、モンゴル支配はチョバン朝のアシュラフの手に委ねられていた。アシュラフはタブリーズにアヌーシルワーンという名の傀儡君主を据え、イラン中部、アゼルバイジャン、アルメニア、東ジョージアを統治していた[32]。
実際、ギオルギ5世の治世に関する記録はほとんど残っていない。これは主に、1346年から1348年にかけてジョージアを襲った黒死病と、1386年以降のティムールのジョージア侵攻によって修道院図書館が破壊されたことが原因である[32]。今日流通しているギオルギ5世の伝記は主に、18世紀にヴァフタング6世が設立した歴史委員会で、書記であった修道士ベリ・エグナタシヴィリによるものである。エグナタシヴィリは、「ギオルギ5世の存命当時に書かれた信頼できる伝記は、いかなるものも見つけ出すことができなかった」と認めている[33]。
史学史におけるギオルギ5世
ギオルギ5世は、分裂していた王国を統一し、1世紀近くに及んだモンゴルの支配から国家を解放し、ジョージアの山岳地帯と平原地帯を再び統合することに成功した。ギオルギ5世は、東西ヨーロッパの列強双方から高く評価された。これらすべての功績に対し、ジョージアの人々はギオルギ5世を「ギオルギ光輝王」と呼んだ。
『時をつづる者』(ジャンタアグムツェレリ)として知られるジョージアの匿名の年代記作者は、ギオルギ5世について、次のように記している[7][5]。
ヴァフシティ・バグラティオニは、ギオルギ5世の活動について、次のように述べている。
さて、このために「光輝王」と呼ばれたのは、第一に、その気品、美しさ、そして類まれなる勇敢さであり、慈悲深く、寛大で、孤児や未亡人たち、困窮する人々を受け入れる者であったためである。第二に、イベリア〔ジョージア〕が散り散りになり、諸公国や王国に分裂していたところを、彼は自らの知恵と賢明さ、そして強さによって、再び一つにまとめ上げたためである。かつての建設王のように構想を練り、諸国を満たし、再興させた。……彼は、戦いと強さが必要な場ではその力によって、また知恵と賢明さ、知識が必要な場ではそれらによって、すべてに打ち勝った。
イヴァネ・ジャヴァヒシヴィリは、ギオルギ5世の治世を次のように評価している。
イシドレ・ドリゼは、ギオルギ5世の治世に次のような評価を与えている。
ギオルギ5世王は、ジョージアの封建君主制における卓越した活動家であり、国家の指導者であった。タマル女王の時代以降、封建制ジョージアには、これほど偉大な国家の舵取り役は現れなかった。彼の名と事績は、ジョージアの年代記や歴史史料において、惜しみない賛辞とともに記されている。
14世紀のジョージアの歴史は、歴史学者ヴァジャ・キクナゼがモノグラフに記している。ヴァジャ・キクナゼの著作『14世紀のジョージア』[34]は、ジョージア史の様々な問題とともに、ギオルギ5世の活動を直接的に扱っている。このモノグラフは1989年に出版された。
また1955年、ロンドンにおいて、イギリスの学者デイヴィッド・マーシャル・ラングが著作『ギオルギ光輝王の治世におけるジョージア』[35]が発表した。この著作では、14世紀のジョージアの歴史における多くの興味深い出来事を網羅している。
家族
ギオルギ5世の王妃の身元は判明していない。18世紀の『ジョージア年代記』は、ギオルギ5世が「ギリシアの皇帝、ミカエル・コムネノス卿」の娘と結婚したと記している。しかし、14世紀当時のビザンツ帝国の王朝はコムネノス家ではなくパレオロゴス家であった。ミカエル9世パレオロゴスと皇后リタの娘がジョージアの統治者と結婚したという記録は、ビザンツ側の史料には存在しない。また、ミカエル9世に庶子の娘がいたという記録もない。一方で、コムネノス家はトレビゾンド帝国を支配していた。1344年から1349年までミカエル・コムネノスが皇帝の座にあったが、確認されているミカエルの子はヨハネス3世のみであり、ヨハネス3世に兄弟姉妹がいたかどうかは不明である。
ギオルギ5世には、息子のダヴィト9世と、娘のソルダナがいた。ソルダナはジヴァン・リュジニャンと結婚した[30][31]。