ジュール・シモン
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1814年12月27日にモルビアン県ロリアンで生まれた[1]。父はロレーヌ地方出身のリンネル商人でユグノーだったが、2度目の結婚相手がブルターニュ出身のカトリックだったため、結婚を契機にプロテスタントからカトリックに改宗した[1]。ジュールはこの2度目の結婚で生まれた息子である[1]。また、一家の苗字は「スイス」(Suisse)だったが、ジュールは後にこの苗字を捨て、名前の3語目「シモン」を苗字にした[1]。
モルビアン県ヴァンヌの神学校に通った後、1833年にパリ高等師範学校に入学して、哲学者ヴィクトル・クザンの知遇を得た[1]。クザンの手配により、シモンはカルヴァドス県カーン、次いでイヴリーヌ県ヴェルサイユで哲学を教えた[1]。その後、クザンによるプラトンの著作翻訳を手伝い、1839年にパリ大学(ソルボンヌ)で哲学教授を務めるクザンの補佐役に就任したが、月給はわずか83フランだった[1]。シモンはこの時期にはパリ高等師範学校でも哲学史を教えた[1]。また過去の哲学者の著作集を編纂し、1842年にニコラ・ド・マルブランシュ(2巻)、ルネ・デカルト、ジャック=ベニーニュ・ボシュエ、1843年にアントワーヌ・アルノーの著作集を出版した後、1844年から1845年にかけてHistoire de l'êcole d' Alexandrie(『アレクサンドリア学派史』、主にプロティノスが創始した新プラトン主義の歴史を記述した著作)を刊行した[1]。雑誌では『両世界評論』への寄稿を経て、1847年にアメデ・ジャック(英語版)、エミール・セッセ(英語版)とともに『考える自由(フランス語版)』を創刊した[1]。クザンとの対立が創刊の理由だったが、結局編集方針をめぐりジャックと対立し、関わりを断つこととなった[1]。
1848年、コート=デュ=ノール県から選出されて憲法制定国民議会(フランス語版)議員になり、1849年に国務院に入ったが、共和主義を支持したため退任を余儀なくされた[1]。ルイ・ナポレオン・ボナパルト(後の皇帝ナポレオン3世)による1851年12月2日のクーデターの後、ルイ・ナポレオン率いる政府への忠誠の誓いを拒否したことで、教授職を追われた[1]。以降第二帝政期を通して著述業に専念し、Le Devoir(1853年)、La Religion naturelle(1856年)、La Liberté de conscience(1857年)、La Liberté politique(1859年)、La Liberté civile(1859年)、L'Ouvriere(1861年)、L'Êcole(1864年)、Le Travail(1866年)、L'Ouvrier de huit ans(1867年)を著した[1]。ただし、1863年フランス立法院選挙(英語版)ではセーヌ県第8選挙区で立法院議員に当選し、立法院で共和派5人組(les Cinq、アルフレ・ダリモン(フランス語版)、ジュール・ファーヴ(英語版)、ジャック=ルイ・エノン(英語版)、エミール・オリヴィエ、エルネスト・ピカール(英語版))による野党活動を支持した[1]。1869年フランス立法院選挙(英語版)ではジロンド県から選出され、議員を続投した[2]。

普仏戦争におけるセダンの戦いでの敗北を経て、1870年9月4日に国防政府が成立すると、シモンは公共教育・文化・美術大臣(文相に相当)に就任した[1][3]。パリ包囲戦(英語版)を経て、1871年1月にパリが降伏すると、シモンは内務大臣レオン・ガンベッタが講和を妨害しないよう、ボルドーにいるガンベッタのもとに派遣された[1]。ガンベッタはボルドーにおける権力を握っており、帝政期に官職を務めた人物の被選挙権を剥奪する宣言を出し、シモンの逮捕を命じた[1]。シモンはなんとか国防政府との連絡に成功し、ウジェーヌ・ペルタン(英語版)、エマニュエル・アラゴ(英語版)、エティエンヌ・ガルニエ=パジェ(英語版)らの増援が2月6日に到着した[1]。ここに至ってガンベッタは内相を辞任し、アラゴが後任となったが、実際にはシモンが内相としての権力を握った[1]。
1871年フランス国民議会選挙(英語版)ではセーヌ県で落選したものの、マルヌ県で当選して議席を維持、ジュール・デュフォール内閣で公共教育大臣を務めた[1]。公共教育大臣として初等教育の改革を推進し、無償化と脱カトリック教会を目指したが、オルレアン司教(英語版)フェリクス・デュパンルー(英語版)の反対に遭って頓挫した[1]。一方で中等教育におけるラテン語教育を減らし、代わりに現代語の教育を増やす改革には成功した[1]。1873年5月、アドルフ・ティエールが大統領を辞任する1週間前に大臣を退任した[1]。1875年、アカデミー・フランセーズ会員に選出された[1]。1875年12月16日、終身上院議員(英語版)に任命された[4]。

1876年、再び組閣したデュフォールが首相を辞任すると、シモンはその後任として組閣し[1]、自身は内務大臣を兼任した[2]。シモン内閣期には共和主義に反対する公務員が職を追われた[1]。シモンは右翼の王党派から王政復古への大きな障害として嫌われた一方、左翼の急進派には穏健な政見により信用されず、ガンベッタも1871年のボルドーでの敗北でシモンを恨んでいた[1]。そして、1877年5月3日にシモンが国会で「教会による扇動をあらゆる手段で制圧することを内閣に要請する」という趣旨の議案を大差で可決させると、大統領パトリス・ド・マクマオンはシモン不在の隙を突いて、新聞法に関する採決での敗北を口実にシモン内閣の総辞職を要求した[1](1877年5月16日の危機(英語版))。『ブリタニカ百科事典第11版』はシモンが国会で抗弁することもできたと評したが、彼は辞任を選び、以降二度と官職に就任しなかった[1]。シモンがのちに回想したところでは、マクマオンにクーデターの口実を与えたくなかったことが辞任の理由だったという[1]。
首相退任以降も穏健共和派における影響力を維持し、1880年にフェリー法(英語版)第7条を否決させ、1879年から1881年まで『ル・ゴロワ(英語版)』編集長を務めた[1]。また『ル・マタン(英語版)』(1882年)、『ジュルナル・ド・デバ(英語版)』(1886年)、『ル・タン(英語版)』(1890年)にも寄稿した[1]。
1896年6月8日、パリで死去した[2]。死後、息子ギュスターヴ・シモン(フランス語版)がシモンの回想録を編纂して、1900年と1902年に出版した[1]。
出典
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- 1 2 3 “Jules, François, Simon Suisse dit Simon”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年11月13日閲覧.
- ↑ 西海太郎「国防政府」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%94%BF%E5%BA%9C。コトバンクより2025年11月13日閲覧。
- ↑ “SUISSE Jules dit Jules SIMON”. Sénat (フランス語). 2025年11月13日閲覧.
外部リンク
- ジュール・シモン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー (英語)

- ジュール・シモンの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library(英語)

| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ジュール・ブラム(フランス語版) |
公共教育大臣 1870年 – 1873年 |
次代 ウィリアム・アンリ・ワディントン |
| 先代 エミール・ド・マルセル(英語版) |
内務大臣 1876年 – 1877年 |
次代 オスカル・バルディ・ド・フルトゥ(英語版) |
| 先代 ジュール・デュフォール |
閣僚評議会議長(首相) 1876年 – 1877年 |
次代 アルベール・ド・ブロイ |
| 学職 | ||
| 先代 シャルル・ド・レミュザ |
アカデミー・フランセーズ 席次8 1875年 – 1896年 |
次代 アルベール・ド・マン |
