ジョン・ハークス
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| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | John Harkes | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1967年3月8日(58歳) | |||||
| 出身地 | カーニー | |||||
| 身長 | 180cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| ユース | ||||||
| 1985-1987 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1989 |
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| 1990-1993 |
| 82 | (7) | |||
| 1995-1996 |
| 67 | (5) | |||
| 1995-1996 |
| 12 | (0) | |||
| 1996-1998 |
| 83 | (14) | |||
| 1999 |
| 3 | (0) | |||
| 1999-2001 |
| 55 | (2) | |||
| 2001-2002 |
| 29 | (0) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1987-2000 |
| 90 | (6) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2006-2007 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ジョン・ハークス(John Harkes, 1967年3月8日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州カーニー出身スコットランド系アメリカ人の元サッカー選手。ハークスは、アメリカ人として初めてイングランド・プレミアリーグでプレーした選手であり、聖地ウェンブリー・スタジアムで得点を記録した2人目の選手でもあり、アメリカサッカー殿堂入りを果たしている。2度のワールドカップ出場、D.C.ユナイテッドではMLSカップを2度優勝した。
1990年代のアメリカ代表の中盤に欠かせない存在であり、サンプソン監督により代表選考から落ちるまでは"生涯キャプテン"とも呼ばれていた。彼の代表キャリアは通算で90試合6得点だった。引退後は、ESPNのMLS中継時のピッチレポーターをしており[1]、2009年のコンフェデレーションズカップと2010年のFIFAワールドカップで仕事をこなした。
アマチュア時代
高校生活
ハークスはサッカーの盛んな町、ニュージャージー州カーニーで育った[3]。ユースと高校サッカーは、将来、代表でともに活躍するトニー・メオラとタブ・ラモスと共にプレーした[4]。
大学時代
1985年からの3年間、ハークスはバージニア大学に通い、後にD.C.ユナイテッドの監督となるブルース・アリーナのもとでサッカーを続けた。大学4年次の1988年には、アメリカ代表のために全てを費やすことを決めた。その年は1988年ソウルオリンピックに参加し、1990年のワールドカップの予選が始まった年だった。
プロキャリア
マイナーリーグ
ハークスは北米サッカーリーグ(ASL)のアルバニー・キャピタルズでプロキャリアをスタートさせた。その年のベストイレブンに選ばれた。
イングランド
ハークスは1990年にイングランドのフットボールリーグ、シェフィールド・ウェンズデイに移籍した。そのシーズンのダービー・カウンティとの試合で、彼は32メートルの電光石火のゴールを、元イングランド代表でワールドカップ出場歴のあるピーター・シルトンから決め、このゴールはイングランドの年間ベストゴールとなった。また、ウェンブリー・スタジアムでプレーした2番目のアメリカ人選手となり、チームは1991年のリーグカップ決勝まで進んだ。その試合で1部リーグのマンチェスター・ユナイテッドに対して1-0の番狂わせを演じ、また、1部リーグへの昇格も決めた、重要な1年になった。
1993年、リーグカップの決勝で1-2とアーセナルに対して敗れはしたものの、ハークスはアメリカ人選手で初めて決勝でのゴールを挙げただけでなく、FAトロフィーでのマイク・マスターズ(コルチェスター・ユナイテッド所属)以来のウェンブリー・スタジアムでゴールを決めた、つまり2番目のゴール記録者となった。残念な結果に終わったリーグカップの1ヶ月後、FAカップで再びアーセナルと対峙し、またも敗れてしまった。これは1-1の引き分けに対して再試合の1-2での敗戦だった。ハークスはその夏、ダービー・カウンティへ移籍し、2シーズンをプレーした。1995年、秋開幕のメジャーリーグサッカー(MLS)の創設準備が始まると、注目を浴びるような選手との契約を進めていき、ハークスもその目玉のひとりとしてMLSと契約した。しかし、リーグ開幕は翌秋に変更され、ハークス自身も1年間のローン移籍によって、ウェストハム・ユナイテッドでプレーすることとなった。
メジャーリーグサッカー
1996年、ハークスは海外でプレーするほかのアメリカ代表選手とともにアメリカに戻り、メジャーリーグサッカー創設に参加した。MLSは数多くの有名アメリカ人選手と契約し、最終的に戦力均衡のために彼らをそれぞれのチームに分配した。MLSはハークスをD.C.ユナイテッドに配し、彼をチームの最初の選手とした。その最初のシーズンは、チームをMLSカップの勝利とUSオープンカップタイトルへ導いた。D.C.ユナイテッドは翌年もMLSカップのタイトルを制し、ハークスは決勝戦の決勝ゴールをアシストした。
1998年ワールドカップのメンバー選考から落選するも、それでもシカゴ・ファイアーにMLSカップ決勝で負ける直前に、リーグではサポーターズ・シールドを獲得することができた。彼はまた、D.C.ユナイテッドをMLSのクラブで初めてCONCACAFチャンピオンズカップで優勝するのに貢献し、その上、コパ・インテラメリカーナでブラジルのバスコ・ダ・ガマを破るというサプライズを起こした[5]。
1998年シーズンの終わりに、彼はイングランドに渡り、ノッティンガム・フォレストの2週間のテストを受けた。1999年1月28日、正式に2ヶ月のローン移籍でフォレストの一員となり、3試合に出場した。その中には悪名高き、マンチェスター・ユナイテッドとの1-8の大惨敗も入っている。彼がイングランドにいる間に、D.C.ユナイテッドは彼をニューイングランド・レボリューションにドラフトでトレードさせた[6]。これはサラリーキャップ制度での上限に合わせた移籍だった。
ハークスは2001年シーズン半ばにコロンバス・クルーにトレードになるまでの3シーズンをニューイングランドでプレーした。2002年は怪我に悩まされ、翌年、2003年に現役を退いた。
アメリカ代表
ハークスは1990年ワールドカップには出場したものの、1994年のワールドカップ本戦直前の最終選考で大激論の末、サンプソン監督により落選した。
ハークスは1987年3月23日の対カナダ戦で代表デビューした。すぐにポジションをつかみ、1988年の夏季五輪のメンバー入りをした。この大会で、アメリカは1勝1分1敗でグループリーグを突破できなかった。彼は来たるワールドカップのために代表でのプレーを続けた。チームは最終予選での最終戦でトリニダード・トバゴに1-0で勝利し、本戦出場を果たした。
1990年のワールドカップで、彼はセミプロや大学生選手が中心となったアメリカ代表のメンバーに入った。初戦はチェコスロバキアに1-5と大敗北を喫したが、2戦目のホスト国で最終的には準優勝となるイタリアとの戦いは0-1と善戦した。そして、最終戦はオーストリアに1-2で敗れ、3戦全敗となったが、この大会のメンバーである、ハークス、ラモス、メオラ、バルボア、ウィナルダといった面々はMLSの創設での中心選手に育っていったのだった。
1994年ワールドカップをホスト国として迎えたアメリカは、コロンビアに2-1で勝つという予想外の勝利もあり、ベスト16に駆け上がった。ハークスは、アメリカ戦でオウンゴールを献上してしまったことで起きた、コロンビアのディフェンダー、アンドレス・エスコバルの射殺に対して起因になってしまった。ハークスの左からアーニー・スチュワートに向けて上げたクロスボールをエスコバルが跳ね返そうとして、そのボールがオウンゴールになったからだった。
決勝トーナメントまで進んだものの、ハークスはグループリーグのルーマニア戦で2枚目のイエローカードをもらい、規定で1試合出場できない状態でブラジル戦を迎えた。ブラジルは1-0でアメリカを下し、最後にはワールドカップを制した。
コパ・アメリカ1995では、ゲストチームとして迎えられたトーナメントで前回優勝のアルゼンチンを3-0で打ち負かすのに貢献し、チームは準決勝まで進めることができた。彼は、MVPの座をウルグアイのエンツォ・フランチェスコリと分けあうほどの貢献ぶりだった。
1996年、フランスワールドカップの予選が始まる前年に、サンプソン監督が"生涯キャプテン"と名指しして、それはサンプソン監督が代表監督である限り、キャプテンとして望まれているということだった。彼は期待に応え、3回連続のワールドカップ出場へと助力していき、出場を決めた。
1998年ワールドカップの大論争
しかし、サンプソン監督は「リーダーシップの問題」について説明無きまま、ハークスをワールドカップの代表から落選させるという物議ある行動に出た[5]。この辛酸は"生涯キャプテン"の鉄則を破ったものであり、1999年発売のデニース・カーナンとの共著の自叙伝「Captain for Life: And Other Temporary Assignments」(ISBN 1-886947-49-X)にも閃として描かれている。本によると、ハークスはサンプソン監督を「チーム内での代表試合数の多い選手による信用性」の欠如と「若くて国際経験のある選手によるプレッシャーにさらされている」ことで非難したことになっている。そして、こう締めくくっている。「スティーブはこの数ヶ月でワールドカップを指揮するにふさわしいと思わない」と[7]。1998年のチームは3試合全てで敗戦を喫して終焉を迎えた。
ハークスは1999年、ブルース・アリーナ監督により代表に復帰し、コンフェデレーションズカップでの銅メダル獲得に貢献した。代表で2000年まで活躍し、90試合出場の記録を残した。
国際試合でのゴール
| # | 日時 | 場所 | 対戦相手 | スコア | 最終結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1989年8月13日 | カリフォルニア州 ロサンゼルス | 1–2 | 1–2 | 親善試合 | |
| 2 | 1990年2月24日 | カリフォルニア州 パロアルト | 1–0 | 1–3 | ||
| 3 | 1992年5月30日 | ワシントンD.C. | 3–1 | 3–1 | 1992 USカップ | |
| 4 | 1992年5月6日 | イリノイ州 シカゴ | 1–1 | 1–1 | ||
| 5 | 1995年6月11日 | マサチューセッツ州 ボストン | 1–1 | 3–2 | 1995 USカップ | |
| 6 | 1995年6月18日 | ワシントンD.C. | 3–0 | 4–0 |
引退後
2003年、ハークスは引退を表明した。その後、D.C.ユナイテッドの若手育成部門のダイレクターを務め、FOXスポーツチャンネルのピッチレポーターとして活躍した。
2005年にはアメリカサッカー殿堂入りを果たしている。
2006年のワールドカップの際にはESPNとABCの解説者の仕事をこなし、2008年から2011年まで両局のメイン解説者を務めた。
一方で、2006年にD.C.ユナイテッドの仕事を終え、ブルース・アリーナ監督のもと、アシスタントコーチとしてニューヨーク・レッドブルズ入りをし、アリーナが解任になった際にはともにチームを去った。
長期に渡る少年育成サポートのため、ハークスは2010年にアメリカスコアという慈善団体の委員になり、小中学生の放課後プログラムの提供を行っている。
2012年から2013年にかけて、ハークスはコムキャストスポーツのカバーするD.C.ユナイテッドの試合のメイン解説者の仕事をこなした。