ツインカム (お笑いコンビ)

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メンバー 島根定義
森永秀康
結成年 1993年
解散年 2001年
事務所 吉本興業
ツインカム
メンバー 島根定義
森永秀康
結成年 1993年
解散年 2001年
事務所 吉本興業
活動時期 1993年 - 2001年8月
2011年5月14日
2012年1月15日
2014年3月21日
出身 吉本バッタモンクラブ
出会い 高校の同級生
現在の活動状況 解散(島根はピン芸人・俳優放送作家として活動)
芸種 コント
ネタ作成者 島根定義
過去の代表番組 爆笑オンエアバトル
新しい波8 など
同期 陣内智則
ケンドーコバヤシ
中川家 など
受賞歴
2000年 爆笑オンエアバトル第2回チャンピオン大会 準優勝
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ツインカムは、かつて吉本興業東京支社で活動していたお笑いコンビ1993年結成。2001年8月解散。

本項では、ツインカム解散後にピン芸人・俳優放送作家として活動中の島根定義についても触れることにする。

  • 島根 定義(しまね さだよし、1973年11月8日(52歳)- ): ボケ、ネタ作り担当
埼玉県川口市出身。O型。既婚者であり、二人の子供がいる。
コンビ時代は「定子」という奇妙な女キャラをよく演じて、人気を博していた。
ツインカム結成前は、農協で1年ほど社会人として働いていた。
一時期は「島根さだよし」と名乗り、ピン芸人としてライブ等のMCを務めている傍らで俳優としても活動していた。
2009年頃から演劇の作・演出、イベント・TVなどの作家としての活動に関わる等、幅広く活動をしている。
コンビを解散し吉本興業を退社後、一時期ソニーミュージックアーティスツに所属していた。
2021年現在、「たけしが認めた若手芸人ビートたけし杯『お笑い日本一』」の構成を担当するなど、裏方での活動が主体となっている[1]
2022年、発起人として芸歴15年以上の芸人が参加可能な賞レース「G-1グランプリ」を立ち上げた[2]
2023年8月、島根・高倉陵(三拍子)・佐々木優介(磁石)・ムートン伊藤(元ムートン)・岡安章介(ななめ45°)・和賀勇介(元トップリード)の6名でスーパー銭湯パフォーマンスユニット「強烈」を結成し、現在は浅草東洋館・多摩境天然温泉「森乃彩」を拠点に月1ペースで公演を行っている[3][4]
  • 森永 秀康(もりなが ひでやす、1973年11月19日(52歳)- ): ツッコミ担当
埼玉県鳩ヶ谷市(現・川口市)出身。A型
学生時代は体操部に所属しており、筋肉美・肉体派芸人のはしりであった。
2022年、G-1グランプリ公式YouTubeチャンネルにておよそ21年振りにコンビ揃ってのメディア出演を果たした[5]

概要

1993年結成。吉本バッタモンクラブのオーディションを経て、吉本興業入り。本来はNSC大阪校11期と同期となるが「お前ら若いんだから、銀座7丁目劇場の奴らと同期で良いだろ」という加藤浩次極楽とんぼ)の鶴の一声から、翌年に吉本入りしたロンドンブーツ1号2号ペナルティなどの周りの後輩が皆タメ口になったという[1]

初期の爆笑オンエアバトルで活躍し、2000年3月放送の第2回チャンピオン大会で準優勝、通算負け無しの10連勝を記録。また、銀座7丁目劇場が開館して最初に単独ライブを行い、さらに東京吉本所属の芸人として初めて公式ファンクラブが設立されるなど活動は順風満帆に見えたが、2001年初頭に森永が事務所へ直接解散の意向を申し入れる。その旨を後から担当マネージャーに電話で伝えられた島根はコンビとして活動を続けたかった為に森永を説得し、また当時ツインカムのファンクラブが設立されて間も無かった影響から事務所からも説得され一旦保留となるも、同年8月開催のファンクラブイベントをもって解散[1]

後に、島根がコンビの方向性やネタ作りなどで主導権を握る事が多くなり、次第にコンビ間で擦れ違いが生じてしまった事を振り返っている[1]

解散後

森永は芸能界を引退し、島根は吉本興業を退社。その後フリーとなった島根は、マッコイ斎藤バーのアルバイトを紹介して貰ったり、吉本の退社を耳にした同業者らの伝でレギュラー番組が3本ほど決まり、ラジオ番組やテレビの深夜番組などに出演していた。その傍らでシアターDの支配人から若手ライブの司会を依頼され、当時フォークダンスDE成子坂を解散しピンで活動していた村田渚と共に月一開催ライブ「なりあがり」のMCを担当する事になる。二人で居酒屋でネタを作り、あるクリスマスに開催した同ライブの中でMCの合間にコントを披露したりもしていた[6]

ある日、島根は村田から「本気で組まへんか?」と真剣にコンビ結成の話を切り出されるが、当時役者志向になりつつあった島根はちょうど役者事務所への所属が決まってしまっていた影響から自由に身動きが取れず、誘いを渋々断る事となってしまう(後に、村田は2005年5月に元坂道コロンブス松丘慎吾とコンビ「鼻エンジン」を結成)。以降も村田との交流が続いていた島根は「渚さんはやっぱりコントの人です。大会を目指すわけじゃ無くてもライブでコントやって行きましょう」と声をかけ、K-PRO代表の児島気奈と共にコントライブを企画(当時、キングオブコントの様なコント専門の賞レースは開催されていなかった)。しかし、2006年11月始めのライブ終わりにその企画の打ち合わせをしようとした矢先、村田は充血で目が真っ赤な状態で頭痛を訴えており、島根はその場ですぐに病院へ行く事を勧めたが、その約一週間後に村田がクモ膜下出血で急逝[6]

島根は村田の葬儀に三重まで足を運び、その場に居合わせていた桶田敬太郎に泣きながら村田とコントをやる予定だった事を打ち明けると、「それ実現しなよ」という桶田の一声から2008年千川BeachVにてドロンズ石本(元ドロンズ)・お宮の松(元北京ゲンジ)・カンカン(現TOKYO COOL)らと共にコントライブ「ちゅにっく。」を計3回ほど開催する。その頃に当時鼻エンジンなどのマネージャーを担当していた平井精一に声をかけられ、2年ほどソニー・ミュージックアーティスツに在籍した[6][7]

その後、島根は芝居に興味を持っていた事から舞台役者となるが周囲から「お前はやっぱり芸人だ」と言われ、笑いに拘る芝居を作り始める。2011年から舞台の作・演出をするようになり、2012年は9本の作品を手がけた。舞台を手がけるうちに自分のやりたい方向が定まり、どうにか自分の描く舞台を形にしたく2013年7月に「しまぁ〜ん共和国」を旗上げし、2018年まで本公演10回を含む合計17回の公演を行った。

2011年5月14日、森永を含んだスペシャルゲストを迎え「祝 ツインカム解散10周年コントライブ『BETA』」を開催[8]2012年1月15日には、正真正銘2人きりによる単独ライブ「5割減」を開催[9]2014年3月21日には「ツインカム2年振りライブ『I'll be back~賞レースへの道~』」を開催した[10]

2022年G-1グランプリ公式YouTubeチャンネルにて島根が成島敏晴(元チープスープ)を介して飛び込みで森永に「コントをやらないか」と直談判。森永からの承諾は得られなかったものの、ツインカムのコント「旅館」の冒頭部分のくだりを即興で披露した[5]

出演

脚注

外部リンク

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