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ドラール (競走馬)

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欧字表記 Dollar
性別 牡
ドラール
欧字表記 Dollar
品種 サラブレッド
性別 牡
毛色 鹿毛
生誕 1860年
死没 1886年12月
父 The Flying Dutchman
母 Payment
母の父 Slane
生国 フランス
生産者 オーギュスト・リュパン
生産牧場 ヴィロフレー牧場
馬主 オーギュスト・リュパン
調教師 ジョゼフ・ヘイホー
競走成績
生涯成績 19戦8勝
勝ち鞍 グッドウッドカップ (1864)
繁殖成績
タイトル 仏首位種牡馬 (1878)
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ドラール(Dollar、1860年 - 1886年)は、フランスで生産および調教された競走馬、のち種牡馬。オーナーブリーダーであったオーギュスト・リュパンの生産所有馬を代表する一頭で、19戦してグッドウッドカップなどを含む8勝を挙げた。種牡馬としてはサルヴァトールとユパスのジョッケクルブ賞(フランスダービー)馬2頭を筆頭に多数の活躍馬を出す成功を収め、1878年のフランスリーディングサイアーを獲得した。

パリロンシャン競馬場のドラール賞に名を冠されている。

競走馬時代

ドラールは1860年にオーギュスト・リュパン(wikidata)のヴィロフレー牧場(Haras de Viroflay、イヴリーヌ県ヴィロフレー)で生産された[1][2]。父はザフライングダッチマン、母はリュパンが1853年にイギリスから輸入したペイメント (Payment) で、ペイメントの7番仔であった[2]。体高はおよそ1メートル58センチと標準的な馬格だったが、それに相応しい長さの胴と力強い後肢、素晴らしい肩と完璧な脚を持っていた[1][2]。

競走馬としてのドラールは、父親の競走成績や自身の繁殖成績と比較すると地味なものであった[3]。

2歳時(1862年)はプルミエクリテリウム (Premier Critérium) とグランクリテリウム (Grand Critérium)[注 1]に出走したが、いずれも着外に敗れた[1][2][3]。

明けて3歳になったドラールは、まずジョッケクルブ賞(フランスダービー)のトライアル競走のひとつランペルール賞 (Prix de l'Empereur)[注 2]に出走し勝利[1][2][3]。しかし本番のジョッケクルブ賞では牝馬ラトゥーク (La Toucques)[注 3]の2着だった[2][3]。続いてヴェルサイユのサトリー競馬場 (Hippodrome de Satory) で行われた奨励協会賞 (Prix de la Société d'Encouragement) に勝利[1]、フォンテーヌブローのフォンテーヌブロー競馬場(フランス語版)で行われたフォンテーヌブロー賞 (Prix Fontainebleau)[注 4]に3着したのち[3]、ドイツのバーデン=バーデンへ向かった。バーデンバーデン競馬場では2戦して入着どまりで、特にメインレースのバーデン大賞ではまたもラトゥークの後塵を拝した[2]。帰国後の2戦はプランシパル賞 (Prix Principal) に勝利、サンクルー賞 (Prix de Saint-Cloud)[注 5]で着外という結果だった。1863年の成績は7戦3勝で、42,500フランス・フランの賞金を獲得した[1]。

冬の間にイギリスのジョゼフ・ヘイホー (Joseph Hayhoe)[注 6]調教師の下へ送られてさらなる調教が積まれ、当時は一大イベントであったノーサンプトン競馬場(英語版)のグレートノーサンプトンシャーステークス (Great Northamptonshire Stakes) に出走した[1]。下馬評では負担重量が5ストーン9ポンド[注 7]と軽いボーフォート公爵ヘンリー・サマセットの持ち馬ロードゼットランド (Lord Zetland) が大本命で、7ストーン9ポンド[注 8]を背負うドラールは誰も名を挙げないほどの穴馬扱いだった[4]。しかしレースがスタートしてみると、しばらく最後尾に取り残されているように見えたドラールは向こう正面で徐々に進出を開始して順位を上げていき、直線残り400メートルからさらに加速して先頭を走るロードゼットランドを交わし、これに5馬身差をつけて優勝した[5]。リュパンはこの勝利について「自分のスポーツマンとしての人生において最大の感動のひとつ」と語った[5]。また騎乗したジョン・キッチナーはニューマーケットの調教師を「目の前で調教を行っていたのにまったく見えていなかった愚か者たち」とこき下ろして溜飲を下げた[5]。

フランスへ帰国したドラールはランペラトリス大賞 (Grand Prix de l'Impératrice)[注 9]とランペルール賞 (Prix de l'Empereur)[注 10]に出走、どちらもストラデッラ (Stradella)[注 12]を2着に抑えて連勝した[5]。

再度渡英して出走したグッドウッドカップがドラールのベストレースで、ザレンジャー (The Ranger)[注 13]やストラデッラ、ロードゼットランドらを破って優勝した[2]。イギリスを転戦した後は大陸に戻ってバーデン大賞やランペルール大賞[注 14]に出走するも勝ち星は挙げられず(バーデン大賞はヴェルムート(wikidata)[注 15]の2着[5])、1864年のシーズン終了とともに現役を引退した[2]。1864年の成績は7戦5勝で、獲得賞金は69,325フラン(内訳は大陸で28,200フラン、イギリスで41,125フラン)だった[5]。

種牡馬時代

引退後はヴィロフレー牧場で種牡馬となり、初年度産駒は1871年にデビューした[5]。翌1872年には、Nethou[注 16]がプール・デ・プロデュイ(後のダリュー賞)を、Dami がバーデン大賞をそれぞれ制する好スタートを切り、さらに1873年は Fideline がグランクリテリウム[注 1]に勝利した[5]。

そして1875年のサルヴァトール(wikidata)(ジョッケクルブ賞およびパリ大賞)、サンシール(Saint-Cyr、プール・デッセ[注 11])、アルマンサ(Almanza、プール・デ・プロデュイ2回〈後のダリュー賞およびリュパン賞〉)らの活躍により、ドラールはフランスを代表する種牡馬となった[5]。

その後も産駒から安定して活躍馬を輩出した。1877年から1878年にかけてはフォンテーヌブロー(Fontainebleau、1877年プール・デッセ[注 11])、Astrée(1877年フォレ賞)、Patriarche(1878年オートゥイユ大ハードル(英語版))らが走り[6]、1878年にドラールはフランスのリーディングサイアーに輝いた[3]。さらに Violette(1880年ダリュー賞)、クリオ(Clio、1882年グレフュール賞およびロワイヤルオーク賞)、Verte Bonne(1883年ディアヌ賞)、Martin-Pêcheur(1885年プランスドガル賞)らが出た[6]。

晩年になってからの産駒として、ザコンドル(The Condor、1884年グランクリテリウム[注 1]・1886年ラクープ(英語版))、ユパス(Upas、1886年ジョッケクルブ賞・1887年グラディアトゥール賞)、アケロン(Achéron、1889年サブロン賞[注 17]およびフォレ賞)、ボカージュ(Bocage、1888年グレフュール賞)らが挙げられる[6]。

これらの産駒の総獲得賞金は400万フラン近くに達した[2]。

ドラールは1886年12月にヴィロフレー牧場で死亡した[2]。

顕彰

本馬を記念し、1905年にロンシャン競馬場にドラール賞が創設された[3]。

メゾン=ラフィット公園(フランス語版)に建てられたドラール像

またメゾンラフィット競馬場近くのピカール通り5番地に面した一画にドラールの像がある[7]。これはフランスでホテルやカジノを経営していたアメリカ人実業家のフランク・ジェイ・グールド(英語版)が1912年に建て、1918年にメゾン=ラフィット公園管理組合 (Association Syndicale du Parc de Maisons-Laffitte; ASP) へ寄贈したものである[8][9]。ただし「ドラール」と題されてはいるものの実際のドラールを模したものではなく、ヴァル・ドーヌ鋳造所(フランス語版)(Hauts Fourneaux de la fonderie du Val d’Osne、オート=マルヌ県)のカタログにカタログ番号150番で掲載された、彫刻家ピエール・ルイ・ルイヤールが典型的なイギリス馬として制作した像である[8][9]。 他にフォンテーヌブローの Grand Parquet[10]や、ブラジル・リオデジャネイロのガベア競馬場(ジョッキークラブ・ブラジレイロ(ポルトガル語版))[11][12]にもドラールの像がある。

競走成績

  • 走路はすべて芝馬場。
  • 当時はグループ制導入前のため格付け無し。
  • 競走名の S はステークスの、C はカップの略。
競走日 競馬場 競走名 距離 頭数 着順 騎手 斤量 1着馬(2着馬) 出典
1862年9月21日 シャンティイ プルミエクリテリウム 800m 13 着外 54kg Pas-Perdus [13]
10月5日 ロンシャン 仏グランクリテリウム 1500m 10 着外 54kg Damier [14]
1863年5月3日 ロンシャン ランペルール賞 2100m 6 1着 Kitchener 54kg (Charles-Martel) [15][16]
5月17日 シャンティイ ジョッケクルブ賞 2400m 16 2着 Kitchener 54kg La-Toucques [17]
5月24日 サトリー 奨励協会賞 2200m 5 1着 Kitchener 56+1⁄2kg (Charles-Martel) [18]
6月14日 フォンテーヌブロー フォンテーヌブロー賞 3000m 16 3着 51kg Tambour-Battant [19]
9月5日 バーデンバーデン ツフトレネン 2000m 6 2着 Conquéte [20][21]
9月7日 バーデンバーデン バーデン大賞 3200m 12 2着 La-Toucques [22][21]
9月28日 ロンシャン プランシパル賞 4000m 4 1着 Kitchener 53kg (Alerte) [23]
10月11日 ロンシャン サンクルー賞 3000m 13 着外 54kg Nobility [24]
1864年3月29日 ノーサンプトン 大ノーサンプトンシャーS 2mi 18 1着 Kitchener 7st 9lb[注 8] (Lord Zetland) [25]
4月17日 ロンシャン ランペラトリス大賞 5000m 4 1着 (Stradella) [26]
6月4日 ロンシャン ランペルール賞 3200m 4 1着 (Stradella) [27]
6月30日 ウスター(英語版) ウスターシャーS 1mi 3f 7 2着 Kitchener 8st 8lb[注 18] Exchequer [28]
7月28日 グッドウッド グッドウッドC 2+1⁄2mi 10 1着 Kitchener 9st[注 19] (East Lancashire) [29]
8月3日 ブライトン(英語版) ブライトンC 約2mi 2 1着 Kitchener 9st 7lb[注 20] (The Little Stag) [30]
8月9日 ウルヴァーハンプトン(英語版) ウルヴァーハンプトンS 約2mi 6 2着 Kitchener 8st 12lb[注 21] Oldminster [31]
9月5日 バーデンバーデン バーデン大賞 3200m 6 2着 Kitchener 63kg Vermout [32][33]
10月9日 ロンシャン ランペルール大賞 6200m 6 3着 Kitchener Noëlie [34]

産駒と子孫

主な産駒

ドラールが兼ね備えていた体の軽さと頑丈さを受け継いだ結果、障害飛越競技で活躍した産駒も多い[1]。Touchstone (1889, p. 105) は、ドラールを「産駒数とその質の安定性において過去25年のフランスで最も顕著な種牡馬」と評した。

牝駒の主な産駒

父系子孫

ドラールの種牡馬としての成功は、ヘロド系(バイアリータークのサイアーライン)を現代へ存続させるにあたって大きな役割を演じている[3]。

直仔の種牡馬のうち最も重要なのは1870年産のアンドロクレ (Androclès) である[3]。競走馬としてはハンデキャップ競走勝ちに留まったが、仔のカンバイス (Cambyse) がイスパーン賞を勝って後継種牡馬となった。そしてカンバイスはジョッケクルブ賞馬ガルドフュー (Gradefeu) やコンセイユミュニシパル賞[注 23]馬 Callistrate を出し、前者が活躍した1898年にフランスリーディングサイアーを獲得した。ガルドフューの孫のパリ大賞馬ブリュルール(wikidata)も3回のフランスリーディングサイアーに輝き、その仔クサールからトウルビヨンを経た父系が現在まで残っている。

1886年のジョッケクルブ賞に同着優勝したユパス (Upas) の産駒からは、ジョッケクルブ賞父子制覇を達成したオムニウムやグラディアトゥール賞連覇のエルフ (Elf) といった名ステイヤーが出た[3]。前者は牝駒キジルクールガン(wikidata)がディアヌ賞やパリ大賞に優勝した1902年にフランスリーディングサイアーとなり、後者もジョッケクルブ賞馬シーシック (Sea Sick) やカドラン賞馬ニンバスを出す成功を収めた。

ドラール産駒のもう一頭のジョッケクルブ賞馬であるサルヴァトール (Salvator) は引退後種牡馬としてイギリスへ輸出され、そこで1883年のセントレジャーステークスに優勝したオシアン(英語版)の父となった[3]。

血統表

脚注

参考文献

外部リンク

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