フランク・フラゼッタ
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フランク・フラゼッタ(Frank Frazetta [frəˈzɛtə]、出生名 Francesco Alfredo Frazzetta、1928年2月9日 - 2010年5月10日)[1][2]はファンタジーやSFをテーマとする作品で知られるアメリカ人の画家・イラストレーター。コミック作画、ペーパーバック小説や雑誌の表紙、映画ポスターのような多様な媒体で活動した。筋肉質な英雄や肉感的な女性、怪物や戦闘場面の主題を、躍動的な人体表現と視線誘導の強い画面構成で描く作風で知られ、「剣と魔法」ジャンルのヴィジュアルイメージの形成に大きく寄与したとされる。日本でも1970年代半ば以降SF・ファンタジーや漫画・アニメ関係者を中心に受容された。
1940年代半ばに米国コミックブック作画家として出発し、SFヒーロー「バック・ロジャーズ」の表紙画などで評価を高めた。1950年代には新聞漫画の人気作『リル・アブナー』の作画スタッフを務めた。1960年代からはホラーコミック誌やエドガー・ライス・バローズの「ターザン」のようなペーパーバック書籍の表紙画を手がけはじめ、特にロバート・E・ハワードの「英雄コナン」の再刊装画で商業イラストレーターとしての名声を確立した。後に代表作と見なされる油彩作品の多くはこの時期に描かれている。その一つである『デス・ディーラー』(1973) はレコードジャケットや雑誌表紙に用いられたほか、コミックなどの二次作品が作られ、軍のマスコットにも採用された。
1970年代後半以降は作家名そのものが販売力を持つ存在となり、多様な媒体に作品を提供したほか、複製画や関連商品の販売も自ら行った。アニメーション映画『ファイヤー&アイス』(1983) では原案提供のほか制作に携わった。1980年代半ばからは健康問題により制作活動に制約を受けたが、イラストレーションやファンタジー画、コミック作画の各分野で殿堂入りや生涯功労賞などの顕彰を受けた。没後は油彩作品『コナン(マンエイプ)』が1350万ドルで落札されるなど、ファンタジー画・コミック原画の取引額の記録を作っている。
生涯
生い立ち:1920年代-1940年代
1928年2月9日、ニューヨーク、ブルックリンのシープスヘッドベイ地区においてシチリア系の一家に生まれる[3][4]。本名は Frazzetta だが、イラストレーターとしての活動初期に、すっきりするように z を一つ省いて Frazetta と綴り始めた[1]。姉妹が3人いる中で唯一の男児であり、祖母と過ごすことが多かった[5]。2-3歳のころ、人生で最初に絵を売った相手が祖母だったとフラゼッタは回想している[6]。幼いころからジャック・カービー、ハル・フォスター[注 1]、ミルトン・カニフ[注 2]の漫画を愛読し、コミックブックを描くことを夢見ていた[9][10]。フォスターの漫画版「ターザン」やカニフはよく模写しており[11]、後年にはフォスターを「初期の影響では最大」と呼んでいる[12]。文字の本はほとんど読むことがなかったが、ジェームズ・アレン・セント=ジョンの挿絵に惹かれてエドガー・ライス・バローズの冒険小説「ターザン」だけは読んだ[13][14]。これらの作品はフラゼッタ自身が後にターザンを手掛ける際に参照された[15]。
- ジェームズ・アレン・セント=ジョンが描いた『ターザンとアトランティスの秘宝』(Tarzan and the Jewels of Opar, 1916) 表紙。
- ハル・フォスター作の新聞漫画版「ターザン」単行本 (1929) 表紙。
フラゼッタの絵に感嘆した小学校の教師に勧められ[16]、8歳から13歳にかけてブルックリン・アカデミー・オブ・ファインアーツに週末ごとに通った[17][18]。新古典主義の美術家であったミケーレ・ファランガが唯一の講師を務める小さな美術学校だった。フラゼッタの回想によると、ファランガは彼の才能を認めてイタリアに留学させる計画を持っていたが、それが実現する間もなく、フラゼッタが14歳になるころ亡くなった[13]。その一方で、ファランガは放任主義であり「そこの級友から学んだことの方が多かった」とも回想している[9]。
フラゼッタは野球選手としても優れており、ブルックリンのアマチュアリーグであるパレード・グラウンズ・リーグ[注 3]で三冠王やMVPを取るなど活躍していた[20]。プロ球団からも注目を受けており、ニューヨーク・ジャイアンツのトライアウトを受けた[21]。しかし、プロ野球選手の待遇が現在ほど高くなかったこともあり、将来的な生計を見通してプロの道には進まず、以後は趣味としてプレイするにとどめた[22][23]。
コミック分野での初期の活動:1940年代-1960年代

初期のフラゼッタはコミックブックや新聞漫画の作画を活動の場とした。1944年にコミック制作スタジオのアシスタントとして業界入りした[24]。同年のうちにフラゼッタがキャラクターを作った8ページの "Snowman"[注 4]がコミック誌に掲載された[10][16]。高校に通いながら2年にわたってアシスタントを務めた後[25]、1946年にコミック出版社フィクション・ハウス[注 5]で6か月間勤め[10][24]、消しゴムかけや枠線引きなどの作業を行った[9]。
1947年、スタンダード・コミックス[注 6]のスタッフに見込まれ、連載「ジュディ・オブ・ザ・ジャングル」の作画を手掛けた[28][29]。同社のアートディレクターから解剖学の教科書を渡され、短期間で集中的に研究した[28]。スタンダードではそのほか動物キャラクターの子ども向け作品や[10]、新聞漫画『リル・アブナー』の亜流作品 "Looie Lazybones" を描いた[30][31]。後者は『リル・アブナー』の作者で当時トップクラスの人気だったアル・キャップ[注 7]がフラゼッタを知るきっかけとなった[33]。
フラゼッタは雇い主と衝突することが多く、また本人によると勤勉さに欠けており、一つの出版社やシリーズに長くとどまることはなかった[34]。1950年代にはスタンダードを離れてフリーになり、冒険もののコミックブックを描くようになった[31]。マガジン・エンタープライジズ[注 8]では『ゴーストライダー』など西部劇の作画や表紙を描き、1951年にはターザン風の新シリーズ『サンダ』第1号を描いた[31]。同作は劇場用連続活劇として映像化された[37]。ナショナル(現DCコミックス)ではファンタジー「シャイニング・ナイト」などに携わった[38]。
イースタン・カラー社の『フェイマス・ファニーズ』で1953年から1955年にかけて描いたバック・ロジャーズ[注 9]の表紙画8枚は、緊張感のある構図で一枚絵としての魅力があり[13]、コミックの表紙として最大級の評価を受けている[41]。同社では『ムービー・ラブ』などのコミック誌でロマンス作品も数作描いていた[42]。これら一連の仕事により業界では認知される存在となった[31]。誇張された人体や大胆な構図、肉感的な女性などの作風はこのころすでに片鱗が見えるという後年の評がある[43]。
- 『ゴーストライダー』第5号 (1951) 表紙
- 『フェイマス・ファニーズ』第213号 (1954) 表紙
- 『フェイマス・ファニーズ』第214号 (1954) 表紙。この絵の原画は2025年のオークションにおいて100万ドル以上で落札された[44]。
これらの間、新聞漫画(当時はコミックブックより格上の仕事と考えられていた)の配信社にも企画を持ち込んでいた。そのうちの一社から起用され、1952年から1953年にかけてカーレース漫画『ジョニー・コメット』の作画を担当したが、広い人気を得られず終了した[31]。
1953年、アル・キャップに乞われて『リル・アブナー』日曜版のペンシル(鉛筆原画)を任された[45]。1954年に低俗文化批判の高まりによってコミックブック出版が低迷期に入ったこともあり[46]、数年にわたって同作の名前の出ない代筆のみが主要な仕事となった[45]。生活は安定しており、本人の回想では週に1日自宅で働くだけで野球などの愉しみに耽っていた[28]。その間、1956年11月にニューヨークでマサチューセッツ出身のエレノア・ケリーと結婚し[1][47]、後に4人の子どもを儲けた[1]。やがて1961年に報酬を減額されたのを機にキャップとの仕事を打ち切った[28]。
その後はコミックブック界に戻ろうとしたが、旧知の出版社の多くは活動を停止していた[48]。大手出版社DCコミックスの編集者からはポートフォリオが評価されず、仕事は得られなかった[49]。その理由としては、ロマンスやホラー、ジャングルもののような得意ジャンルが廃れてスーパーヒーローの時代になり、絵柄が古くなっていたことや、『リル・アブナー』で身に付いたユーモア感覚がミスマッチだったことなどが指摘されている[50]。別方面の仕事を求めたフラゼッタは友人の漫画家からインキング(ペン入れ)を請け負ったり[49][51]、ソフトコア・ポルノ小説の挿絵や一般男性誌のイラストレーションも描いた[49]。
書籍装画での飛躍:1960年代-1970年代
1960年代以降、フラゼッタは書籍装画をはじめとする各種のイラストレーションで広く知られるようになる[1]。評者によってはこの時期をキャリアの頂点とみなしている[52]。
1962年、イラストレーターの友人ロイ・クレンケル[注 10]の手伝いをきっかけにエース・ブックスのペーパーバック書籍の表紙を手掛け始めた[54][55]。バローズの『ターザンと失われた帝国』に描いた表紙は高く評価された[55]。筋肉質で半裸の男性が自然の脅威や部族民と戦う画題はその後もフラゼッタのトレードマークとなった[56]。このころ、クレンケルの勧めによってインクや水彩から油彩に移行した[17]。
1964年、『Mad』誌で広告パロディとして描いたビートルズのリンゴ・スターの似顔絵が映画制作会社ユナイテッド・アーティスツの目に留まり、ウディ・アレン脚本の『何かいいことないか子猫チャン』(1965) のポスターを依頼された[58]。最初の映画関連の仕事であったが[1]、本人の回想では半日でコミックブックでの年収に相当する報酬を稼いだとされている[59]。ユーモラスな作画は高く評価され[60]、その後もカートゥーン調の映画ポスターを手がけることになる[61]。
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1964年以降、ウォーレン・パブリッシング[注 11]が発行するコミック雑誌『クリーピー』や『イーリー』誌に表紙絵として『ウルフマン』、『シー・ウィッチ』、『エジプシャン・クイーン』などの絵画作品を提供した[63]。稿料が低い代わりに内容に注文を受けず自由に描けたことで、フラゼッタ自身にとって一つの転機となった[59]。アートキュレーターのダン・ネーデルは、これらの作品によって円熟期の作風が完成したと評価している[13]。また数々の表紙は、1960年代にホラー・コミックのジャンルを再興したウォーレン社を代表するヴィジュアルイメージにもなった[64]。1969年にはウォーレンの長寿キャラとなる女吸血鬼ヴァンピレラの最終デザインを行った[62][65][注 12]。
この時期にも散発的に漫画形式の作品を描いていた。ウォーレンでの短編のほか[66]、1965年に『プレイボーイ』誌で連載されていたエロティックな油彩作画の風刺漫画「リトル・アニー・ファニー」[注 13]に参加し、数話にわたって女性主人公の作画を担当した[59][66]。1966年に『Mad』誌に描いた1ページのユーモア作品がフラゼッタ最後のコマ割り漫画となった[66]。後の1983年にコミックに戻る気はないか質問されたフラゼッタは、映画制作を含む大きな仕事を行った後ではその理由がないと答えている[66]。
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エース社での待遇に不満を持っていたフラゼッタは、1966年にランサー・ブックス[注 14]から好条件でアプローチを受け、ロバート・E・ハワード作「英雄コナン」再刊シリーズの表紙を手掛けた[13][54]。フラゼッタは本文内容への忠実さより自己のイメージを優先することがあり[70]、コナンも「鷹のような男」という原作の描写から離れて筋肉隆々で傷だらけの「究極の蛮人」として描かれた[12]。このコナン像は人気を集め、それまでのキャラクターイメージを塗り替えた。後年の評ではその後の「剣と魔法」ジャンルの視覚表現そのものに大きな影響を与えたとさえ評されている[71][72]。
ランサーの「コナン」シリーズ11冊は1966年から1971年までに1000万部以上売れ、そのうち8冊がフラゼッタの表紙だった[71]。そのほかバローズの「火星」や「ペルシダー」のシリーズなども手掛けた[61]。これらの仕事によりファンタジー画家としての名声は決定的になった[54]。このころのいわゆる「ペーパーバック革命」期において、表紙の視覚的訴求は販売上の重要な要素となっており[73]、当時の新聞で、出版社はフラゼッタが描いた表紙に合わせて作家を選ぶと書かれたこともある[1]。アンソロジー書籍『閃く剣!』第2巻の表紙として描いたオリジナルの戦士像『デス・ディーラー』(1973) は、後にフラゼッタを象徴する作品とみなされるようになった[74][75]。
ブランド展開と映画制作、健康問題:1970年代-1990年代
1971年、ニューヨークからペンシルベニア州イースト・ストラウズバーグ周辺に位置する67エーカー(約27ヘクタール)の地所に居を移し、後半生のほとんどをそこで過ごした[76][77]。このころまでにフラゼッタは独自の画風が認知され、名前がブランド価値を持つイラストレーターとなっていた[78]。

フラゼッタは1970年代半ばから作品のマーチャンダイジングに力を入れ始め、新しい依頼制作は減った[74][80]。妻のエレノアがビジネス面の主体を担い、複製画やポスター、カレンダー、Tシャツなどの通信販売を行った[80]。複製販売のライセンス契約も大きな収入源となったとされる[81]。イラストレーターによるこうしたビジネスモデルはフラゼッタが先行例とみなされている[82]。総合誌『エスクァイア』による1977年のインタビューでは、すでに十分な財を蓄えたとして、気が向いたときにしか描かないと語った[83]。クリント・イーストウッドやシルヴェスター・スタローンのような映画監督が個人的にフラゼッタ宅を訪ねてポスター画を依頼することもあったが、意に沿わなければ受けなかった[84]。
1970年代から1980年代にかけてフラゼッタの作品は関連商品などを通じて広く流通し[85]、ロックバンドのアルバムジャケットなどに利用された[1]。この時期にはカスタムバンの車体塗装やタトゥーアートの題材としても一般的だった[12][86]。画集『ファンタスティック・アート・オブ・フランク・フラゼッタ』は1977年時点で30万部以上発行された[1]。1978年、リチャード・ウィリアムズ[注 15]が男性用コロンのCMでフラゼッタの作品『アゲインスト・ザ・ゴッド』をアニメ化した[88][89]。
1983年、アニメーション映画『ファイヤー&アイス』に原案を提供した。監督のラルフ・バクシは躍動感のあるフラゼッタ作品を実際に動かしたいという意向を持っており[90]、既存の絵画作品をモチーフにストーリーが作られた[91]。フラゼッタは1年半にわたってカリフォルニアに移住し[92]、共同プロデューサーとして映画の開発段階から深く関与した。本人の回想によると、ロトスコープ方式の実写撮影では自らアクション演技の見本を示し、動画制作では監修や指導を行った[4]。この映画はフラゼッタの作品世界の映像化としては一定の評価があるが[91]、商業的には成功せず[54]、本人や家族にとっても満足いく経験ではなかったという証言がある[93]。
その後フラゼッタは健康上の問題に見舞われた。本人の発言によると、1986年ごろにテレビン油への暴露が原因で甲状腺機能障害におちいり、心身に不調を生じていた。この時期には創造的感覚や自然な筆致が失われ、絵が平板になったと振り返っている。症状は8年間続いたのちに投薬量の調整によって消失し[94]、制作を再開した[92]。しかし循環器系への影響は後まで残ることになった[95]。
新作の発表ペースは落ちても商品展開は広がり続けた。1990年代に入り、フラゼッタ作品に親しんで育った世代が現れるにつれて、その声望は高まっていった[96]。1994年、ヴェロティク社から新作鉛筆画のファンタジーアート集『フラゼッタ: イラストレーションズ・アーカナム』が出た[97]。同社からは『デス・ディーラー』(1995) などフラゼッタの絵画をキーイメージとしたコミックブックも発刊され、フラゼッタは監修のほか表紙として油彩の新作を描いた[97][98]。

1980年代初頭、エレノアの発案により、ファンのために自作を公開する美術館をイースト・ストラウズバーグ市街地に開設した[21][92]。同館の閉鎖や、フロリダ州ボカ・グランデでの短期間の再開を経て、2000年にフラゼッタ宅と近接した土地に第3の美術館が設置された。来館者にはエレノアが応対し、時には原画を高値で売った[92][99]。1994年には、ニューヨークのアレクサンダー・ギャラリーにおいて、私設美術館以外では初めての個展が行われた[12]。
晩年:1990年代-2000年代
フラゼッタは1996年に脳卒中に襲われた。後遺症によって利き腕の右腕に振戦が生じたため、それ以降は晩年の14年間にわたって左手で制作が行われた[48][100]。発症時に取り組んでいたのは映画『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(1996) のポスター画だったが、完成が遅れ公開に間に合わなかった。その後全8回にわたって卒中の発作が続き、健康と画力は衰えていった[95]。家族の回想によると、フラゼッタには旧作を修正する癖があったが、左手で描くようになってからもそれを続けたため、作品が劣化することがあった[101]。マネージャー役だったエレノアはこれを嫌い、美術館で原画を厳格に管理して、フラゼッタが自由に触れることができないようにした[102]。
2001年ごろからドキュメンタリー映画『フランク・フラゼッタ: ペインティング・ウィズ・ファイア』が撮影され、2003年に公開された[48][100]。

晩年には4人の子供たちの間で作品の所有権と管理方針を巡る対立が生じた[99]。私設美術館の運営やグッズ販売事業を担っていたのは妻のエレノアと長男のフランクJr.だったが、エレノアが2009年に癌で死没すると、作品の管理権はほかの3人の子供が経営する合同会社にわたった[21][99]。その過程では、フランクJr.が美術館の扉をショベルカーで破って2000万ドル相当の絵画を不当に搬出したとして逮捕される一幕もあった[103][104]。2010年4月23日、4人の子供たちは訴訟がすべて和解したと声明を出した[105][注 16]。
2010年5月10日、フラゼッタはフロリダの住居近くの病院で卒中のため死去した[1][2]。イラストレーターとしては寡作の部類で、生涯で描いた油彩は300点前後だった[17]。
没後の作品管理と展示:2010年代以降
フラゼッタの没後、本人所蔵のコレクションは分割され、4人の遺児が均等に継承することになった[92]。フランクJr.はエレノアの後を継いで私設美術館を再開し、40点余りの油彩画を公開している[77]。ほかの遺産は2013年にフラゼッタの孫娘サラらが設立したフラゼッタ・ガールズ社がブランディングと版権管理に当たっている[85][101]。同社は2020年代前後にゲームやストリートウェア、コレクターグッズなどの分野でライセンス展開を行っている[85][107][108]。2020年3月、フラゼッタ・ガールズはフラゼッタが晩年を過ごしたフロリダ州ボカ・グランデの美術館を再開した[109]。
作風
主題
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半裸の筋肉質な男性や肉感的な女性、流血、怪物などを組み合せた、暗い色調のファンタジーアートで広く知られている[2][54][61][110]。特に人物に独自の様式があり[99]、顔の表情よりも身体と動きが強調されていた[111]。キュレーターのライアン・リンコフは、背景や前後の物語を細かく描写するより誇張されたポーズの人体が優先され、鑑賞者の感情を揺さぶることに重点が置かれていると評している[56]。
男性ヒーローの多くは、善悪や秩序といった理念のためではなく、自身の力だけを信じて戦う蛮人やアウトサイダーとして描かれた[112]。代表作の「蛮人コナン」装画『ザ・バーバリアン』(1966) では、分厚い筋肉を持った男性が直立し、その脚に取りすがる裸体の女性や積み上げられた敵の死骸と対比される。ピラミッド型の構図は頂点に配置された男性の優位を強調している。リンコフは同作を肉体的な力の記念碑
とした[113]。英文学者アンドレ・カルドーゾは(ヒーローの)力や生命感と一体化できる願望充足のファンタジー
と評した[114]。フラゼッタ自身も、見る者を楽しませることを重視して「ヒーローは必ず勝ちそうに描く」と述べている[9]。
フラゼッタの女性は、小柄ながら豊かな丸みを帯びた特徴的な身体を持ち[16]、たくましい男性ヒーローの横に活動的で官能的な姿で描かれることが多かった[56]。特に臀部を目立たせる構図が頻繁にみられる[14][注 17]。典型的な女性像としては、猛獣を従えたセクシーな女戦士
危険な魔女
、あるいは少女のような顔と成熟した体を併せ持つ存在が挙げられる[116]。膝を付き、危険にさらされ、エロティックに表現される女性像が多い一方で、画面内で優位に立つように見える図像もある[117]。代表例の一つが『エジプシャン・クイーン』である[117]。豹や衛兵を従え、宮殿への侵入者に向き合うように描かれる同作の女王は、神秘性と官能性を兼ね備えている[118][119]。
その作風はエロティシズムを前面に出した「剣と魔法」ペーパーバック表紙の典型とみなされることがあるが[120]、一方では絵画的完成度の高さによって題材や媒体の枠を超えて評価されてきた[12][120]。イラストレーターのニール・アダムスは、フラゼッタが古典美術の油彩表現を駆使し、体の内側から発するような力感や人物の性的魅力を描き出したと評した[72]。幻想画の著述家J・デイヴィッド・スパーロックも、実在感ある絵柄や古典的な造形感覚によってパルプ時代の性・暴力表現を一段高い水準に引き上げたと述べた[86]。フラゼッタ自身、性表現では洗練された官能性を、暴力表現では画面の美しさや均整を志向していたと語っている[121]。
身体感覚と自己像
バイオレンスや身体動作の
インパクトでは勝ると答えた[112]。
フラゼッタは外見をタフガイ風の美男
と評されており、若いころは自身をモデルとして描くことがあった[122]。ダン・ネーデルは役回りを問わず作中人物がしばしばフラゼッタ自身の顔で描かれていると指摘し、作者自身の精神や身体の状態が絵に投影されていると見ている[13]。
自ら肉体派
と称していたフラゼッタは[123]、絵画制作に没頭する芸術家というより、スティックボールをプレーしたり、女の子を追いかける合間に絵を描く
という自己像を語っていた[13]。また身体能力の高さを自負しており、高校時代にはジムに通わずとも片手懸垂を10回行えたと回想している。そうした瞬発力は、本人によると、時間をかけず即興で優れた作品を描き上げる集中力とつながっていた[4]。身体表現の上でも、運動選手としての経験から、身体のどこに力が宿るかについて自身の感覚を持っていた。1994年のインタビューでは、ボディビル的に誇張された胸部や上腕二頭筋を描くのではなく、素早さと瞬発力につながる臀部・背中・前腕などの筋肉を重視していたと語っている[9]。自身のヒーロー像も、アスリートや戦士のような動きに基づいてネコ科の動物のような優美さと力
と例え、それに対するヴィランは動き方がぎこちないもの
とした[9]。
コミック批評家のハイディ・マクドナルドは、フラゼッタの極度に男性的な作家性を主題の暴力性、残虐性、衝撃と結び付けて論じている[14]。フラゼッタ自身も青年時代は路上で殴り合いの強さを誇示していたと回想している[20]。映画『コナン・ザ・グレート』で主演したボディビルダー出身のアーノルド・シュワルツェネッガーについては、殺伐さを感じさせず役に合わないと語り、自分ならジムではなく治安の悪い街路で適役を探すと述べた[122]。
その反面、画集の共同編集者アーニー・フェナーの証言によると、フラゼッタは正規の美術教育を受けていないことに引け目を感じており、それが高じて虚勢を張る一面があった[124]。本人のインタビューでは、自身を本質的にはファインアート作家と捉えており間違った分野で仕事をしている
と述べている[125]。また別の場では、主題や媒体の通俗性によって評価されることに反発し、作品はその質によって評価されるべきだという考えを語っていた[12]。
画面構成と動勢、色彩
ダン・ネーデルはフラゼッタの円熟期の作風を単一の焦点
空間の奥行き
画面全体に視線を誘導するが、中心からは決してそらさない色の配置
による明快さで説明している[13]。フラゼッタの絵は巧みな空間構成によって重要な要素を際立たせることに定評があり[99]、コミックという空間的制約が多い媒体で活動したことが優れた視線誘導に寄与しているという指摘もある[16]。前景で主題が強調される一方で、背景には半ば隠れた人物や巨大な生物の断片など、暗示的な要素が配置される[16]。例として『ザ・バーバリアン』では蛮人の背後におぼろげな死と破壊のイメージが描かれている[126]。画家のスティーヴン・セリオはフラゼッタの構図を、中心は明瞭に見えながら周辺はぼやける人間の視界に例えている[12]。
出版者ベティ・バランタインは活力と生命感がフラゼッタの最大の特徴だとした。また動くものは何でもフラゼッタの注意を引く
と述べ、動物や戦う男性像、木々の根や枝、水の流れにいたるまで、画面全体がうねりと運動で構成されるとした[16]。同様にネーデルは、すべての要素が流れるように描かれて目を休める点が存在しないと書いた[13]。ゲームアーティストのスティーヴ・セオドアは、フラゼッタの構図が単純な直線や弧にそって構成されるのではなく、ねじれ、沸き立つような曲線の塊による
とし、それが画面に劇的な緊張を生むと述べた[43]。
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劇的な照明効果と、独創的な色彩も特徴として挙げられる[22]。明暗は黒が強く、中間色はほとんどない。色彩は豊かだが、彩度が高く飽和気味の色も用いられる[43]。フラゼッタ本人は、題材や雰囲気に応じて常識にとらわれず色を選ぶと語っており、特殊な光源を想定して人体を非現実的な色調で描く手法を例に挙げている[127]。『コナン(マンエイプ)』は、アースカラーの明暗表現によって背景と人体が描写され、猿人が鋭くひるがえすマントの緋色と対比される構成だが[128]、コナンの頭部にも光源が明示されないまま同じ緋色のハイライトが差している[129]。
制作技法
油彩画で特に知られ[72]、水彩、鉛筆、インクによる作品も残している[130]。画材には無頓着で、使い古した筆や「ミッキー・マウスの12色セット」の水彩絵の具を愛用していた[22]。油彩作品の多くは扱いが容易なメゾナイト板やキャンバスパネルに描かれた[131]。
大部分は独学であったが[22]、幼少期にはミケーレ・ファランガから基本的な技法を学んでいた[13]。ライアン・リンコフは、フラゼッタの絵には19世紀新古典主義の絵画教育からの「色調・プロポーション・陰影へのこだわりや演劇的な照明効果」が生きていると述べている[56]。
インタビューではほとんどモデルや資料に頼らず想像だけで描くと主張し[101][121]、特に写真資料について動きが凍り付くとして否定的だった[132]。そこには写真的リアリズムを避け、夢幻的な感触を作り出す意図があった[12]。ただし身近な人物の証言によると、実際には自身や妻を撮影した写真、他者の作品の一部、投影機器などを利用していた[101][133]。フラゼッタ研究家のデイヴィッド・ヴィニエヴィチは[134]、フラゼッタの説明には自己像を保つ意図があったと示唆している[133]。
技法は奔放で即興性が強く[56]、大作もせいぜい数日で仕上げる速筆だったとされる[22]。本人によると、本制作に多くの余地を残すため、下絵やラフには時間をかけなかった[15]。画面には下描きをせず、直接褐色で抽象的な明暗と大まかな色面を置き、そこから写実的な形を見つけると、彫刻家のように
洗練させていった[135][136]。
その作品は天才による直感の産物として語られることが多かったが、アーティストのザック・スミスは、特徴的な作風を生み出すための確固たる制作法があり、特に準備習作が重要だったと説明している。スミスによると、暗く半透明な下塗りは夢幻的な靄のような効果を生み、その上に明るく不透明な絵の具の層を重ねることで、人物や動作が急に焦点を結ぶように浮かび上がった。画面構造が事前によく検討されていたことで、最終段階では自然主義的な色域から外れた色を差すことも可能だった[137]。
インク画
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インク画は主に筆で描き[28]、細手のペン[注 18]も用いた[138]。インク画でも下絵は描かなかった[139]。筆遣いについては、描き込みがタイトになると絵が死ぬとして、毛先でなでる程度の筆致を心がけていたと語っている[140]。
『コミックス・ジャーナル』の評論はフラゼッタのインク画を技術的に最高峰と評し、多彩な質感の表現を細ペンの鋭く堅い切れ味は、粘りのある表現力に富んだ筆の線や、ドライブラシのざらついてかすれた感触と好対照をなす
と称賛した。また生き生きとした描線は緻密であっても過剰にならないと述べた[138]。ヴィニエヴィチは『ロード・オブ・ザ・サヴェッジ・ジャングル』(1964) について、統御された線の集合によって半裸の男たちの筋肉が絶えず躍動して見えると評した[140]。インク画においても明暗の演出が見られ、インクを薄めて繊細な階調の調整を行うことで立体感と視線誘導を実現している作品がある[140]。
影響と評価
同時代および後代への影響
英語圏では、フラゼッタはファンタジーおよびSF分野を代表するイラストレーターの一人と見なされており、同時代以降の作家に広く影響を与えたとされる[54][141]。全米イラストレーション協会殿堂入りや世界ファンタジー大会生涯功労賞の受賞など[29][142]、ジャンル内外で制度的な評価も受けている。フランス国立図書館もフラゼッタを「世界でもっとも有名なファンタジー画家」として紹介している[52]。
フラゼッタの活動はペーパーバック書籍やポスターなど大衆的視覚媒体の広がりと重なっていた[143]。フラゼッタの表紙絵は1930年代パルプ小説に由来する「コナン」シリーズの、1960年代以降における視覚的イメージ形成に大きく寄与した[71][72]。その後のコミック化や映画化などコナンの復興にもフラゼッタの寄与があったとされ[128]、映画『コナン・ザ・グレート』(1982) の監督ジョン・ミリアスも影響を認めている[72]。1970年代から1980年代にかけてコミックやファンタジー創作の受容が広がるにつれて、フラゼッタもさらに広く受け入れられていった[72]。
その影響は個別の作品にとどまらず、「フラゼッタ風」がヒロイック・ファンタジーと関連するある種の画風の代名詞ともなった[141]。ロサンゼルス・タイムズはフラゼッタの絵が同ジャンルの現代的なヴィジュアルを決定づけたのに近いと書いた[72]。映画監督ギレルモ・デル・トロはファンタジーにおけるフラゼッタの地位を米国文化に対するノーマン・ロックウェルに例え、その影響力はジャンルの外からは測りがたいと述べた[72]。同様に『ゲームディヴェロッパー』誌は、作風の模倣や盗用が広まって定型表現と化したことで、フラゼッタ単独の評価が難しくなったと評している[43]。
ノーマン・ロックウェル美術館はイラストレーション史の中にフラゼッタを位置付けて、19世紀末に始まる「イラストレーションの黄金時代[52]」からファンタジー画の系譜を受け継ぎ、ロールプレイングゲームやアニメーション、ビデオゲームといった新たな媒体へ展開させた世代の重要な一人とした[143]。2010年代のデジタルアート専門誌『ImagineFX』もフラゼッタを黄金期の巨匠たちの伝統と近代のアーティストをつなぐ架け橋
とした[144]。美術批評家のマイケル・ピアースは、コミックや日本漫画、SF・ファンタジー映画に慣れ親しんだ世代には幻想的な題材を具象的に描く表現が定着しており、フラゼッタはその父祖的存在の一人だとしている[145]。
文化的波及
フラゼッタの影響は、映画、音楽、コミックなど広い領域のポップカルチャーに及んだ[72]。男性ヒーローをピラミッドの頂点に配置する特徴的な構図は、1970年代から1980年代のアーティストや映画監督によって盛んに踏襲された[147]。映画「スター・ウォーズ」第1作 (1977) のポスターもフラゼッタ風を意識して描かれていた[148]。同じく第3作 (1983) においてレイア・オーガナが着用する金属のビキニは、衣装制作者アギー・ゲラード・ロジャーズの証言によるとフラゼッタが描く女性像や金属製の装束から着想を得たものだった[122][149]。製作者のジョージ・ルーカスは1978年にフラゼッタ宅を訪問し、「バック・ロジャーズ」のコミック表紙が創作のインスピレーションになったことを伝えている[6]。
音楽の分野では、イングヴェイ・マルムスティーンやナザレス、モリー・ハチェットなどがアルバムのジャケットにフラゼッタの絵を用いている[72][150]。特にヘヴィメタルのジャンルとは美学的な親和性があるとされている[151]。2009年にはメタリカのカーク・ハメットが「コナン」表紙原画を100万ドルで購入したことが報じられた[1]。
1985年、血塗られた斧を持つ騎馬戦士が描かれた『デス・ディーラー』が、アメリカ陸軍第3軍団によって重機甲部隊のシンボルとして採用された。司令部に人物の彫像が設置されたほか、イラクへの配備でも彫像が携行された[61][146]。
米国コミック界への波及もみられる。1990年代のコミック情報誌『ウィザード』は、フラゼッタを当代のコミック作家に広く影響を与えた存在として紹介した[97]。絵画作品『デス・ディーラー』が3回にわたってコミック化されるなど、2次利用も行われている[152][153][154]。フラゼッタのコミック作家としての活動はイラストレーションほど評価されていないが、バーニー・ライトソン[注 19]のような作画家に影響を与えている[156]。
批評家 Gregory Cwiklik は、1960年代に高まったフラゼッタの人気の一因が、米国における反体制文化の伸長にあると見ている[112]。フラゼッタ自身は政治的にも文化的嗜好も保守的で[157]、カウンターカルチャーには批判的だった[158]。しかしその作品は、ダン・ネーデルによると伝統的な芸術観や性役割に根差しながらも解放的な面があり、ヒッピー文化圏からマッチョなバイカーまで性格の異なる反主流文化にまたがって受容されていた[158]。
批判的評価
フラゼッタの作品は高い人気を得た一方で、願望充足的な逃避に過ぎないという批判を呼ぶこともあった[112]。スティーヴ・セオドアは『ゲームディヴェロッパー』への寄稿で、フラゼッタが主題としていた原初的な力と暴力は、1960年代には刺激的・革新的なものとして受け止められたとしても、後続のファンタジーやゲーム文化では「強さへの願望充足、性描写、暴力的な感情の発散」という型にはまった表現として定着したと評している[43]。
表現や主題の反復性が批判されることもあった。コミック評論家ボブ・レヴィンは『コミックス・ジャーナル』誌の記事で、フラゼッタ作品を定型的
で感情の幅に乏しいものと評した[99]。同誌の別の評論によると、そうした欠点は初期には傑出した想像力と描写力によって補われていたが、1970年代以降にはそれらが衰え、テーマ的な発展も見られず反復に陥った[112]。
そのほかには身体表象のあり方をめぐる批評もある。1976年の専門誌『アメリカン・アーティスト』による好意的な紹介記事でも、フラゼッタは「男性ショーヴィニスト」と呼ばれ、女性像に込められた男性中心的な欲望が揶揄されていた[131]。ライアン・リンコフは2025年の論文で、筋肉質な男性と豊満な女性との組み合わせに性的・ジェンダー的な力関係を読み取っており[159]、願望充足、パルプ的刺激、反動的性差観の混合物として位置づけている[123]。
美術市場での評価
ファンタジー画は長らく美術界からは制度外の存在と見なされ、ファンダム内部の市場で独自に価値が付けられてきた[160]。1990年代初頭、サザビーズやクリスティーズのような大手オークションハウスがコミック関連品の専用オークションを行い始めた。それにより、コミック原画はファンの収集物からアート市場の取引対象へと移行していった[161]。フラゼッタの原画は1978年時点ですでにSFアート市場で最も高い値段がついていたが[162]、2000年代までにイラストレーション全般の価値が上昇し、中でもフラゼッタ作品は存命作家として例外的なほど値上がりした[163]。1991年にサザビーズが開催した最初のコミック専門オークションでは、フラゼッタの『ヴァンピレラ』第1号表紙原画が7万ドルで落札され、同オークションの最高額となった[164]。
米国コミックブック界では出版社が原画ごと買い切るのが伝統的な慣行だったが、フラゼッタはキャリア初期から原画の価値を重視していた[99]。1994年のインタビューでは、1955年に描いた『ウィアード・サイエンス・ファンタジー』誌の表紙画について、出版社と交渉して買い切り原稿料60ドルの半額で版権だけを売ったと語っている[28](この絵は2010年にコミック原画として最高値の38万ドルを記録した[165])。また、1960年代のペーパーバック装画でエース社よりもランサー社に力作を提供したのは原画が返却される契約だったからだとも述べている[28]。
フラゼッタの没後、コミックやイラストレーション分野に強いヘリテージ[166]のオークションにおいて、フラゼッタ作品が次々に落札額の記録を作っていった。2019年にシカゴで開催されたビンテージ・コミックと原画の公開オークションでは『エジプシャン・クイーン』(1969) が540万ドルで落札され、最高額を更新した[167]。2023年には『ダーク・キングダム』(1976) が600万ドルで落札され、フラゼッタ作品のみならずファンタジーアートの最高記録となった[168]。2025年9月15日、フラゼッタ家が保持していた代表作『コナン(マンエイプ)』(1967) が、ヘリテージによる単独ロットの特設オークションにおいて1350万ドルで取引された[128][169]。マイケル・ピアースはフラゼッタ作品の高額落札を、20世紀前衛芸術を重視してきた美術界の評価軸とは別に、ポピュラー文化に根差した具象的・幻想的表現の市場評価が高まりつつある動向として論じている[145]。ヘリテージイラストレーション部門の代表者は、伝統的な美術作品の買い手や美術機関にフラゼッタ作品が注目されてきていると述べている[160]。
受賞
1966年、SFのヒューゴー賞をプロアーティスト部門で受賞した[170]。1974年には全米イラストレーター協会から優秀賞を[22]、1976年に幻想文学大賞を受賞した[125]。
1995年にはコミックブック界のウィル・アイズナー賞殿堂に迎えられ[171]、スペクトラム・グランドマスター賞を受賞した[21]。1999年にジャック・カービー賞殿堂[29]、1998年に米国イラストレーター協会殿堂入り[142]。2001年、世界ファンタジー大会生涯功労賞[29]。2014年にミュージアム・オブ・ポップカルチャーSF殿堂入り[29]。2023年、コミックのインキングを対象とするインクウェル賞ジョー・シノット殿堂入り[172]。
日本での受容・影響
紹介と流通の経路
『ワイルド7』(1969) で知られる漫画家の望月三起也は、戦後に進駐軍から古書店に流れた米国産コミックブックに中高生のときから親しんでおり[173][174][175]、フラゼッタが表紙や短編を描いている号を収集していた。望月は後年のインタビューで影響を受けた画家として名を挙げており[176]、女性像やアクション描写に影響が指摘されることがある[177]。
装画家としてのフラゼッタは、遅くとも1971年にはSF文芸誌『SFマガジン』で日本に紹介された。同誌では海外ヒロイック・ファンタジー小説の表紙画家の一人としてちょっとアクが強いがコナンなど躍動的な人物を書かせたら絶品
とされていた[178]。1960年代からSF小説の挿絵を描き始めて人気を博した武部本一郎は[179]、画集を編纂した加藤直之によると、同じ本の英語版の表紙を手掛けたフラゼッタの構図を研究していた形跡がある[180]。晩年の武部がフラゼッタから女性の描法を取り入れようと試行錯誤していたという証言もある[180]。
米国のアートに関心を持っていた漫画家の永井豪は、イラストレーターとしてのフラゼッタに早期に注目した一人である[181]。永井は和製ヒロイック・ファンタジーの先駆けを意図して[182]『手天童子』(1976) を始めたころにフラゼッタを知り、米国でポスターや画集、ファンジンを買い集めたと語っている[183]。アニメ界でも、1970年代にタツノコプロのキャラクターデザイン室に入った天野喜孝によると、『新造人間キャシャーン』(1973) などのヒーローアニメの制作資料としてフラゼッタのポスターが用いられていた[181][184]。
1970年代半ばにはフラゼッタの画集が日本に入ってきた[181]。複数の漫画家やイラストレーターが、銀座の洋書店イエナ[注 20]で画集を購入したことを回想している[186][187][188]。イラストレーターの開田裕治は「SFファンはみんな [画集を] 買っていた」と語った[188]。アニメ評論家五味洋子によると、1974年ごろ研究団体アニドウの中にもフラゼッタに傾倒している自主制作グループがいた[187]。テレビアニメ『機動戦士ガンダム』(1979) のキャラクターデザインで知られる安彦良和も、1976年ごろに同僚の出﨑哲から画集を紹介されたと述べている[189]。
1978年には『週刊少年サンデー』が「大ブーム到来!! SFシリーズ第一弾《F・フラゼッタの世界》」としてカラーイラストの巻頭特集を行った[190]。1979年とその翌年には『スターログ日本版』誌で特集され[191][192]、永井豪や寺沢武一のような漫画家がフラゼッタの魅力を語った[183][193][194]。『スターログ』はSF中心のヴィジュアルなカルチャー誌で[195]、フラゼッタのほかメビウスや『メタル・ユルラン』といった海外ヴィジュアル文化をいち早く日本に紹介していた[196]。編集者の回想によると同誌は当時の漫画家が資料として重用する媒体でもあった[197]。この時期にはまた総合週刊誌『週刊ポスト』(1979)[198]で特集が組まれたほか、松下電器(現パナソニック)の広告にも作品が用いられた[199]。『ウルトラマン80』(1980)[200]や『太陽戦隊サンバルカン』(1981)[201]のような特撮番組でも、一部の怪獣や怪人のデザインに参照された。
1980年代前半には、SF雑誌や書評誌において、SFファンなら誰でも知ってる画家
(『SFマガジン』1982)[202]、SFイラストに興味を持つ人で、この名前を知らない人はいないだろう
(『本の雑誌』1985)[203]とされた。1982年に第1回国際SFアート大賞を主催した『スターログ』は、フラゼッタをメビウスや小松左京、手塚治虫などとともに審査員に任じて世界の巨匠たち
と呼んだ[204]。
ファンタジー分野での受容
「剣と魔法」型の近代ファンタジーは1970年代に「コナン」などの翻訳小説として紹介され、1970年代末から日本人の作家が登場し始めた[205]。紹介者の一人である鏡明は、このジャンルの最初の印象がフラゼッタの描く「コナン」だったと語っている[206]。小説家田中文雄は、初期のヒロイック・ファンタジー小説「大魔界」シリーズ (1981) の執筆動機となったのがフラゼッタの画集だったと述べている[207]。
1970年代末には、鳥山明などの漫画家が、フラゼッタやメビウスら海外作家の影響を受けながらこのジャンルの表現を形成していったとされる[208]。イラストレーターでも「スタジオぬえ」創設メンバーの加藤直之は、影響を受けた画家の一人としてフラゼッタを挙げ、現実の文化に基づかない創作デザインに感動した
としている[209][210]。初期のコンピュータRPGのイラストや、ファンタジーゲーム専門誌『ウォーロック』の表紙を50号近く手掛けた米田仁士は学生時代にはファンタジーアートのお手本のような存在
だったと述べている[211][212][213]。『ファイナルファンタジー』(1987) のアートワークを手掛けた天野喜孝は、1981年ごろイラストレーターとして活動を始める際に漠然と思い描いた「描きたい絵」のイメージがフラゼッタ風だったと語っている[214]。
後代の日本のファンタジーシーンに大きな影響を与えた『ロードス島戦記』(1986) の作者である水野良も、世界観形成のため参照した中にフラゼッタの絵を挙げている[215]。一方でイラスト担当の出渕裕は、同作のヴィジュアルが、フラゼッタに代表される筋肉
厚塗り
といった米国流ではなく、柔らかい水彩の英国ファンタジーアートの系譜に属すると語っている[216]。
創作者への波及
ファンタジー以外の分野の創作者からも、フラゼッタ作品の物語性の強さに注目した発言が見られる。『アリオン』(1979) でアニメから漫画に転向した安彦良和は、手塚治虫流とも劇画調とも異なる絵の様式を模索する中で[217]、一枚絵のカラーイラストで物語を伝えるフラゼッタの表現に注目し、その油彩独特のタッチを研究したと語っている[218]。怪獣やロボットのイラストレーションで知られる開田裕治も、古典絵画的な明暗、構図、配色によって「ドラマチックな絵」を作る描き方を学んだと述べ、自身が手掛けたプラモデルのボックスアートについてフラゼッタの色彩や構図がイメージソースとなったと振り返っている[219]。漫画家の荒木飛呂彦もワクワク感のある
一枚絵のインパクトを称賛し[220]、「美術界の人ではなくて、こっち側の人という感じ」と評している[221]。
フラゼッタの筋肉描写に注目する見方もあった。SF評論家高橋良平は1985年時点で、フラゼッタの魅力が肉感的な女性や逞しい男性を力強く描くところにあると評しこの強靭な"筋肉を描く"ことが、特に日本人には、難しい
と書いていた[203]。対戦型格闘ゲーム『ストリートファイターII』(1991) のキャラクターをデザインしたあきまんは計り知れない程影響をうけた
と述べ、筋肉表現に言及している[222][223]。ゲイ・エロティック・アーティストの田亀源五郎は少年時代に重厚な筋肉描写とパワフルな画風
に惹かれたと語っている[224]。『キン肉マン』(1979) の作画家中井義則は2024年に、異形の身体構造を持つ超人を描く際にフラゼッタの創作的な筋肉表現を参照していると語った[225]。

影響の広がりについて、荒木飛呂彦が1980年代にデビューした漫画家や『週刊少年ジャンプ』の編集者は [フラゼッタの画集を] 一度は見ているんじゃないかな
と回想し、画集を見た作家は売れるという「都市伝説」が編集部にあったことを語っている[221]。このころ『ジャンプ』で活動した作家の中でも、『北斗の拳』(1983) の作画家である原哲夫は、フラゼッタからの影響がキャラクター造形や陰影表現、特定場面の構図にまで及んでおり自分の絵の原点ともいえる
と述べている[226][227][228]。鳥山明もフラゼッタの画集を集めており、『Dr.スランプ』(1980) 連載初期の扉絵でオマージュを捧げていた[229]。萩原一至は『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』第1話 (1988) に描いた扉絵を[フラゼッタなどの] 影響が激しく出てる
と自ら評している[230]。
『ジャンプ』執筆者以外の漫画家でも、『サイレントメビウス』(1988) の麻宮騎亜や『ベルセルク』(1989) の三浦建太郎が、西洋からの影響を語る中でフラゼッタの名前を挙げている[231][232]。そのほか影響を認めているイラストレーターに寺田克也[233]、韮沢靖[234]、PABLO UCHIDA[235]らがいる。
作品リスト
以下は網羅的な一覧ではなく、各時期・各分野での活動を示す例を挙げたものである。
主な油彩作品
画集解説[236]、美術館[101][143][147]、事典等[52][54]、美術オークション関連サイト[160]で言及例がある油彩作品を挙げる。寸法はインチ表記である。
| 発表年 | 題名 | 画材・寸法 | 初出・二次利用・備考 |
|---|---|---|---|
| 1966 | The Barbarian | キャンバスボード | Conan the Adventure (Lancer, 1966)[注 21]装画[238] |
| 1967 | Sea Witch | ボード 30 x 20 |
Eerie #7 (Warren, 1966) 装画[239] |
| 1967 | The Brain | ボード 23 x 17 |
Eerie #8 (Warren, 1966) 装画 |
| 1967 | Conan Man Ape | キャンバスボード 18 x 14 |
Conan (Lancer, 1967)[注 22]装画[242]
2025年に1350万ドルで落札[128] |
| 1967 | The Berserker | ボード 24 x 18 |
Conan the Conqueror (Lancer, 1967)[注 23]装画[243]
モリー・ハチェットのアルバム『ビーティン・ザ・オッズ』(1980) ジャケット[244] |
| 1967 | Chained | メゾナイト 20 x 18 |
Conan the Usurper (Lancer, 1967) 装画[245][246] |
| 1969 | Snow Giants | ボード 20 x 16 |
Conan of Cimmeria (Lancer, 1969)[注 24]装画[247]
ダストのアルバム『ハード・アタック』(1972) ジャケット[244] |
| 1969 | Egyptian Queen | 張りキャンバス 20 x 26 |
Eerie #23 (Warren, 1969) 装画[248]
2019年に540万ドルで落札[167] |
| 1970 | A Princess of Mars | キャンバスボード 20 x 16 |
A Princess of Mars (Doubleday, 1970)[注 25]装画[249]
ルーカス・ミュージアム・オブ・ナラティブ・アート所蔵[147] |
| 1971 | The Destroyer | ボード 24 x 18 |
Conan the Buccaneer (Lancer, 1971)[注 26]装画 |
| 1972 | Escape on Venus | ボード 15.75 x 20 |
Escape on Venus (Ace, 1974)[注 27]装画[250] |
| 1973 | The Mastermind of Mars | メゾナイト 23 x 15 |
The Mastermind of Mars & A Fighting Man of Mars[注 28](Nelson Doubleday, 1973) 装画[250] |
| 1973 | The Death Dealer I | ボード 24 x 16 |
もっとも広く認知された作品とされる[251]。同じ人物を題材とした連作 The Death Dealer II-VI (1984-1990) が描かれている[252]
Flashing Swords! #2 (Dell, 1973) 装画[74] モリー・ハチェットのアルバム『モリー・ハチェット』(1978) ジャケット 小説化シリーズ "Frank Frazetta's Death Dealer" Book 1-4 (Tor, 1988-1990) コミック化シリーズ Death Dealer #1-4 (Verotik, 1995-1997)[253], Frank Frazetta's Death Dealer #1-6 (Image, 2007-2008)[254], Frank Frazetta's Death Dealer #1-15 (Opus, 2022-2023)[255] |
| 1976 | Dark Kingdom | ボード 20 x 16 |
Dark Crusade (Warner, 1976) 装画
モリー・ハチェットのアルバム『魔神の斧』(1979) ジャケット[256] 2023年に600万ドルで落札[168] |
| 1977 | The Gauntlet | ボード | 映画『ガントレット』(1977) ポスター画[257] |
コミック
画集解説に基づく主要作品を挙げる[13]。別記なければ作画を担当した作品である。
- "Snowman"
- Tally-Ho Comics #1 (Baily, 1944) 掲載。初発表作品。Frank Frazetta's Adventures of the Snowman (Dark Horse, 2015) で復刻。
- "Dan Brand and Tipi / White Indian"
- Charles Starrett as the Durango Kid (Magazine Enterprises (ME), 1949-1951) 掲載の5話。その後独立誌 White Indian #11-13 (ME, 1953-1954) で展開。The Complete Frazetta White Indian (Vanguard, 2011) として復刻[258]。
- "The Shining Knight"
- Adventure Comics (National, 1949-1951) 掲載の9話を担当[259]。
- The Ghost Rider
- The Ghost Rider #2-5 (ME, 1950-1951) 表紙[260]。
- Thun'da
- Thun'da, King of the Congo #1 (ME, 1952) 表紙と全掲載作[261]。Telling Stories: The Classic Comic Art of Frank Frazetta (Underwood, 2008) 収録。
- Johnny Comet / Ace McCoy
- 新聞配信作品 (1952-1953)。連載中に題名変更。The Complete Frazetta Johnny Comet (Vanguard, 2011) で復刻。
- "Buck Rogers"
- Famous Funnies #209-216 (Eastern Color, 1953-1955) 表紙[262]。
- Weird Science-Fantasy
- Weird Science-Fantasy #29 (EC, 1954) 表紙[263]。
- Li'l Abner
- アル・キャップ作の新聞配信作品。作画を担当(初出時クレジットなし、1954-1961)。Li'l Abner: The Frazetta Years (Dark Horse, 2003) として復刻。
- Creepy
- Creepy (Warren, 1964-1983) 表紙(計23号)、短編(計5号)[264]。
- Eerie
- Eerie (Warren, 1966-1981) 表紙(計10号)、短編(計2号)[265]。
- Blazing Combat
- Blazing Combat #1-4 (Warren, 1965-1966) 表紙[266]。
- Vampirella
- Vampirella (Warren, 1969-1980) 表紙(計8号)[267]。
映画
- 制作
- 『ファイヤー&アイス』(1983)-キャラクター原作、製作、コスチュームデザイン[268]
- ポスター画
画集解説に基づく主要作品を挙げる。
- 『何かいいことないか子猫チャン』(1965)[58]
- The Secret of My Success(1965)[58]
- 『紳士泥棒 大ゴールデン作戦』(1966)[58]
- 『ホテル・パラディソ』(1966)[58]
- 『間抜けなマフィア』(1967)[58]
- 『吸血鬼』(1967) [58]
- 『怪物の狂宴』(1967)[58]
- The Night They Raided Minsky's (1968)[58]
- 『合併結婚』(1968) [58]
- 『危険な国から愛をこめて』(1971)[269]
- Luana (1973)[58]
- 『子育て天使 』(1974)[58]
- 『ガントレット』(1977)[84]
- 『ファイヤー&アイス』 (1983)[270]
書籍
- 主要画集
受賞・ノミネートを受けた画集を挙げる[271]。
- Frazetta, Frank (1975). The Fantastic Art of Frank Frazetta. Rufus Publications & Peacock Press. ISBN 0-553-01013-1
- Frazetta, Frank; Ballantine, Betty (1978). Frank Frazetta Book III. Peacock Press/Bantam. ISBN 0-553-01136-7
- Frazetta, Frank (1998). Icon: A Retrospective by the Grand Master of Fantastic Art, Frank Frazetta. Underwood Books. ISBN 1-887424-40-7
- Fenner, Arnie; Fenner, Cathey; Frazetta, Frank (1999). Legacy: Selected Paintings and Drawings by Frank Frazetta. Underwood Books. ISBN 1-887424-48-2
- Fenner, Arnie; Fenner, Cathey; Frazetta, Frank (2001). Testament: A Celebration of the Life & Art of Frank Frazetta. Underwood Books. ISBN 1-887424-62-8
- Frazetta, Frank; Spurlock, J. David (2013). Frazetta Sketchbook. Vanguard Publishing. ISBN 978-1-934331-56-9
- Frazetta, Frank (2020). Spurlock, J. David. ed. Fantastic Paintings of Frazetta. Vanguard Publishing. ISBN 978-1-934331-81-1
- Frazetta, Frank; Nadel, Dan; Smith, Zak (2022). The Fantastic Worlds of Frank Frazetta. Taschen. ISBN 978-3-8365-7921-6
- その他の書籍
- Frazetta, Frank; Frazetta, Frank Jr. (2013). Frank Frazetta Art and Remembrances. Hermes Press. ISBN 978-1-61345-055-0-遺族による回想録。