ホルヘ・デ・バグラチオン
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| ホルヘ・デ・バグラチオン Jorge de Bagration | |
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| 在位 | 1977年10月30日 – 2008年1月16日 |
| 先代 | イラクリ |
| 次代 | ダヴィト |
| 配偶者 |
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| 子女 | |
| 全名 |
Jorge de Bagration y de Mukhrani |
| 家名 | ムフラニ家 |
| 父親 | イラクリ・バグラティオン=ムフラネリ |
| 母親 | マリア・アントニエッタ・パスクイーニ |
| 出生 |
1944年2月22日 イタリア・ローマ |
| 死亡 |
2008年1月16日(63歳没) ジョージア・トビリシ |
| 埋葬 | スヴェティツホヴェリ大聖堂(ムツヘタ) |
| 宗教 | ジョージア正教会 |
ホルヘ・デ・バグラチオン・イ・デ・ムフラニ(スペイン語: Jorge de Bagration y de Mukhrani、1944年2月22日 – 2008年1月16日)は、ジョージア系スペイン人のレーシングドライバーである。ジョージア語名でギオルギ・バグラティオン=ムフラネリ(ジョージア語: გიორგი ბაგრატიონ-მუხრანელი、ジョージア語ラテン翻字: Giorgi Bagration-Mukhraneli)としても知られる。ホルヘ・デ・バグラチオンはスペイン選手権を計9回(スピード6回、ラリー2回、ヒルクライム1回)制覇した。また、ジョージア王家バグラティオニ家の分家ムフラニ家当主でもあり、バグラティオニ王家の家長位とジョージアの歴史的な王位継承権を主張した[1]。
1944年、ホルヘ・デ・バグラチオンはイタリア王国のローマで誕生した。父はソビエト政権からの亡命貴族イラクリ・バグラティオン=ムフラネリ公であり、長男として生まれた。父イラクリ公はジョージア王家バグラティオニ家の傍流であるムフラニ家の当主であった。父イラクリ公はボリシェヴィキ革命の後、イタリアへ亡命したが、ジョージアの王位継承権は保持していたとされる[1]。
母はイタリア人のマリア・アントニエッタ・パスクイーニ(1911年–1944年)で、コスタフィオリタ伯爵ウーゴの娘であった。母マリアは、ホルヘの出産時に死去した[1]。6か月後、一家はスペインのマドリードに移り、ホルヘはそこで人生の大半を過ごした[2]。
1946年、妻に先立たれた父イラクリ公は、スペイン王女マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・バビエラ・イ・ボルボン(1911年–1953年)と再婚した。マリア王女はバイエルン王子フェルディナント(スペインにインファンテとして帰化)の娘であり、スペイン王アルフォンソ12世の孫娘にあたる。この結婚により、バグラティオニ家は西ヨーロッパの王朝の婚姻・社交の輪に入った[3]。ホルヘの従妹にあたるロシア大公妃マリヤ・ウラジーミロヴナも、ロシア帝位の請求者としてホルヘと同様の立場にあった。
モーターレース
初期
ホルヘ・デ・バグラチオンが初めてハンドルを握ったのは、6歳のときであった。祖父から最高時速約40キロメートルのおもちゃの電動モーター車をプレゼントされ、ホルヘはその車で何時間も走った[2]。特定のオートバイのシャシーと別の種類のエンジンの組み合わせにより、独自の改造車を製作することを好んだ[2]。
1959年、バグラチオンは16歳の時にオートバイレーサーとしてキャリアをスタートした[4]。デビュー後しばらくは特筆すべき成績を残していないが、1961年のサラゴサ・グランプリでは50ccカテゴリーで5位に入賞した。このとき、バグラチオンはドゥクソン製エンジンを搭載したヴィクトリア・バイクを使用した。
バグラチオンは引き続き1961年と1962年のスペイン国内オートバイレースに出場し続けた。1963年、バグラチオンはフィアット・1600Sでクルス・ヴェルデ・ヒルクライムに参戦し、四輪の自動車競技デビューを果たした。それを機に、バグラチオンは徐々に二輪から離れ、四輪に特化していくようになった。同年、マシンのメカニックが不十分だったため、出場したヒルクライムでは目立った成績を残せなかった。しかしラリーでは、恋人であり将来の妻となるメルセデス・ソルノサをナビゲーターとして、好成績を収めた。
1964年、バグラチオンはフィアット・アバルト・850TCに乗り換えた。このシーズン、バグラチオンはスペインRACEラリーで大事故を起こし、重傷を負った[2]。バグラチオンはこのRACEラリーの最後から2番目の区間において、時速約150キロメートルで走行中、樹木に衝突した[2]。車体は炎上し、意識を失ったバグラチオンは、ナビゲーターのエンリケ・プラザによって車から運び出され、一命を取り留めた[2]。
事故後、バグラチオンはスイスのルディ・ベイ氏からミニ・クーパーSを購入した。バグラチオンはこの車で1965年に好成績を収めた。最初の勝利は、クルス・ヴェルデ・ヒルクライムで実現した。この大会にはパコ・ゴディアやアレックス・ソラー=ロイグといった有力選手も参加していた。バグラチオンはツーリングカー部門とプロトタイプ部門の両方にエントリーし(当時は両部門への同時エントリーが認められていた)、両部門で最速タイムを記録し総合優勝した[4]。この勝利に続き、バグラチオンはファジャス・ラリーとバスク・ナバーラ・ラリーでも優勝を収めた[4]。ラリーでの初勝利により、バグラチオンはFASAルノーからアルピーヌ・A110の準ワークス車両を供与された。バグラチオンはこの車両でバイヨンヌ・バスク海岸ラリーに出場したが、このレースではリタイアした。しかし、バグラチオンはチームに留まり、翌年はルノー・8で出場したすべてのレースで勝利を収めた。
エスクデリア・ナシオナルCSとヨーロッパ2リッター選手権
1967年、バグラチオンはサーキットレースにも参戦を開始した。バグラチオンはハラマ・サーキットでアルピーヌ・M67を駆って4位で完走した[4]。1968年、バグラチオンはランチアのワークス・チームであるスクアドラ・コルセHFへの加入を辞退した。これは、バグラチオンがフォーミュラ2に参戦にするため、アレックス・ソラー=ロイグとともに「エスクデリア・ナシオナルCS」を結成していたためである[2]。このとき2人は、2台のローラ・T100にBMWのアッフェルベック・エンジンを搭載したマシンでの出場を計画していたが、車体の改良が滞り時代遅れとなったため、この計画は失敗に終わった。またバグラチオンは同年の1968年スペイングランプリに、ローラ・レーシング・カーズからフォーミュラ1参戦を試みた。バグラチオンはアレックス・ソラー=ロイグとともに招待選手としてエントリーを行ったが、いずれのエントリーも受理されなかった[4]。1969年、エスクデリア・ナシオナルCSのバグラチオンとソラー=ロイグはスペイン・スピード選手権に専念した。ソラー=ロイグはGT部門で優勝し、バグラチオンはシーズン前半をBMW・2002で、シーズン後半をポルシェ・911で駆り、ツーリングカー部門で優勝した[4]。
1970年、バグラチオンはソラー=ロイグからポルシェ・908/2を購入した。これは前年にソラー=ロイグとともにバルセロナ12時間レースで走らせたマシンであった。バグラチオンはカルロス・ロイテマンと組み、ブエノスアイレス200マイルレースにデビューし、6位に入賞した。その後、バグラチオンはサーキットとヒルクライムの両方で多数のレースに出場し、スペイン・スピード選手権のGT部門で2度目の優勝を収めた。特に、当時のヨーロッパヒルクライム選手権の一戦であるモンセニー・ヒルクライムでの優勝と、ラバサダ・ヒルクライムでの絶対レコード樹立は特筆に値する[4]。1971年は予算の関係からスペインヒルクライム選手権に注力したが、ポルシェを駆りスペインとポルトガルでの耐久レースにも出場した。1972年、バグラチオンはヨアキム・ボニエのチームでヨーロッパ2リッター選手権に参戦し、ローラ・T290でル・マン24時間レースにも初出場した。このレースでは26周目にクラッチが故障し、バグラチオンがマシンに乗り込む前にリタイアを余儀なくされた[2]。バグラチオンは当時としては数少ない国際レベルのスペイン人ドライバーであったが、多数の故障、自身のドライビングミス、そしてヨアキム・ボニエの事故死により、1972年シーズンは厳しいものとなった[2]。
エスクデリア・モンジュイック

1973年も再び予算が乏しい状況であり、バグラチオンはフォード・カプリRSでスペイン・スピード選手権のみに参戦する計画を立てていた。しかし幸運にも、バグラチオンはバルセロナを拠点とするエスクデリア・モンジュイックに受け入れられ、これによりフォード・エンジン搭載のシェブロン・B23で再びヨーロッパのレースに出場できるようになった。シーズン前半は芳しくない結果であったものの、後半には状況が改善した。この年、バグラチオンはスペイン・スピード選手権でさらに2つのタイトルを獲得し、1974年にも3つ目のタイトルを獲得した。1974年はスペイン・スピード選手権のGT部門が開催された最後の年であった。
同年、バグラチオンはフォーミュラ1出場の寸前までいった。バグラチオンは1974年のF1世界選手権第4戦(スペイングランプリ)に参戦するため、サーティース・TS16をレンタルした。必要なものはスポンサーだけであり、エル・コルテ・イングレスが名乗りを上げた。資金を獲得したバグラチオンはエントリーリストに署名したが、その後エル・コルテ・イングレスが提案を撤回した。不運にも、事務的なミスによりエントリーリストが作り直されることになり、バグラチオンは再登録ができず、フォーミュラ1参戦の機会を逃した[5]。この騒動は、当時のスペイン自動車連盟の会長が交代する際の混乱によるものであった。前会長がエントリーリストが入った鞄を自宅に持ち帰ってしまったため、リストが主催者に届かず、バグラチオンは予選に出走することさえ許されなかったとされる[5]。
復帰、3度のタイトル、そして引退
失望したバグラチオンは一時的にレースから離れ、時折サーキットに姿を見せる程度であった。1976年、バグラチオンはランチア・ストラトスでラリーに復帰した。このストラトスは、引退するまで乗り続ける愛車となった。1976年はナビゲーターのマヌエル・バルベイトとともにスペインRACEラリーとラリー・カタルーニャで2勝を挙げ、シーズン総合3位で終えた。翌1977年、モンセニー=ギジェリエス・ラリーとファジャス・ラリーでさらに2勝を挙げ、コスタ・ブラバ・ラリーでは2位となった。しかしルイス・デ・バビエラ・ラリーでの大事故で、ナビゲーターのバルベイトが命を落とした[6]。その後、バグラチオンの再婚相手となるヌリア・リョピスが新たなナビゲーターとなった[4]。
1978年、バグラチオンは好成績を収め、3勝を挙げてスペイン・ラリー選手権総合2位となった。1979年、バグラチオンはスペイン・ラリー選手権で8つのラリー(マスパロマス、モンセニー=ギジェリエスとファジャス、ルイス・デ・バビエラ、リオハ、オレンセ、RACE、シャリマール)を制し、初の年間ラリー総合タイトルを獲得した。1980年にはロスマンズがスポンサーとなったが、アントニオ・ザニーニに阻まれ、6勝を挙げながらも年間準優勝に終わった。1981年、ビクトル・サバテールをナビゲーターに迎え、シーズン前半に4勝を挙げる抜群のスタートを切った。その後、リオハでの大事故による負傷でいくつかのラリーを欠場したものの、ベニー・フェルナンデスを抑えてスペイン・ラリー選手権年間王者を獲得した。1982年、バグラチオンの愛車ランチア・ストラトスがスペイン・スピード選手権への参戦を認められた。バグラチオンはサーキットに復帰し、6度目の国内タイトル獲得をもって引退した。
ジョージア王家の家長
ジョージアでは「ギオルギ」として知られるホルヘ・デ・バグラチオン公は、1977年10月30日に父の死去により、亡命下にあるジョージア王家の家長位の継承権を主張する立場となった(王位請求者)。これ以降、バグラチオンは「殿下」(Royal Highness) の継承を用いた。ジョージア王家であるバグラティオニ家は、ヨーロッパで最も古いキリスト教王家の一つであり、1801年までカルトリ=カヘティ王国を統治していた。王国は1801年に、ロシア帝国のアレクサンドル1世がゲオルギエフスク条約を一方的に破棄し、ロシア帝国に併合された。バグラティオニ王家の人々の多くはロシアへ移送された。1917年のロシア革命後、バグラティオニ王家の人々の多くはジョージアやロシアの各地からヨーロッパに亡命した。今日、ジョージア国内には小規模ながら政治的に活発な君主制支持運動が存在する。
1991年、バグラチオンはバグラティオニ王家の他の王統から反発があるにも関わらず、ジョージア政府および議会はホルヘ・デ・バグラチオンを旧王家の家長として認めた[1]。バグラチオンは父から「ラジカのムタヴァリ」、「カヘティのムタヴァリ」、「カルトリのムタヴァリ」、「ムフラニのバトニ」の称号を継承した。さらにジョージア鷲とキリストの聖衣勲章のグランドマスター、旧騎兵団と奇跡の聖ミカエルの献身師団の名誉ある保護者の地位にもあった[7]。
晩年と死
結婚と子女
ホルヘ・デ・バグラチオンは1968年3月10日、フランスのニースにおいて、マドリード出身のマリア・デ・ラス・メルセデス・ソルノサ・イ・ポンセ・デ・レオン(1942年8月14日 – 2020年3月17日)と結婚した[12]。二人の間には、以下の子供が生まれた。
- マリア(1969年6月21日生)
- 1994年にハイメ・ガイシャス・マルセと結婚。長男ハイメ・ガイシャス・バグラチオン(1995年9月15日生)がいる。
- イラクリ(1972年8月26日生)
- 未婚で子供なし。後に王位継承権を弟に譲った。
- ダヴィト(1976年6月24日生)
ホルヘ・デ・バグラチオンは1970年代にマリアと離婚し[13]、1982年9月8日にバルセロナ出身でレーシングドライバー仲間のヌリア・リョピス・イ・オリアルト(1953年11月14日生)と再婚した[12]。二人の間には、以下の子供が生まれた。