ホワイティ・ロックマン
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1953年当時のロックマン | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
ノースカロライナ州ローウェル |
| 生年月日 | 1926年7月25日 |
| 没年月日 | 2009年3月17日(82歳没) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 175 lb =約79.4 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 一塁手、外野手 |
| プロ入り | 1943年 |
| 初出場 | 1945年7月5日 セントルイス・カージナルス戦 |
| 最終出場 | 1960年6月24日 サンフランシスコ・ジャイアンツ戦 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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キャロル・ウォルター・ロックマン(Carroll Walter "Whitey" Lockman, 1926年7月25日 - 2009年3月17日)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ローウェル出身の元プロ野球選手・監督。
1943年にニューヨーク・ジャイアンツと契約、1945年7月にメジャー昇格を果たした。このシーズン32試合に出場し打率.341を記録して将来を期待された。兵役を経て1948年にメジャー定着、キャリア・ハイの18本塁打、68打点を記録した。
1951年10月3日のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ第3戦では3点ビハインドの9回裏、ブルックリン・ドジャースのエース、ドン・ニューカムからタイムリー二塁打を放つ。これでニューカムはマウンドから降り、ボビー・トムソンの『その一打が世界を変えた("Shot heard 'round the world")』逆転サヨナラスリーランホームランにつながる。
1956年途中にジャイアンツはセントルイス・カージナルスとの間でロックマン、アルヴィン・ダーク、レイ・キット、ドン・リドルとジャッキー・ブランド、ジャック・リトルフィールド、ビル・サルニ、レッド・ショーエンディーンスト、ゴードン・ジョーンズの4対5の大型トレードを行った。
しかし翌1957年のシーズン前にホイト・ウィルヘルムとのトレードでジャイアンツに戻ったが、1959年はボルチモア・オリオールズに金銭トレードで移籍した。このシーズン途中にシンシナティ・レッズへトレードされ1960年限りで現役を引退した。
レッズではフレッド・ハッチンソン監督の下、コーチを兼任。1961年からジャイアンツのコーチに就任した。1972年のシーズン途中、レオ・ドローチャーに代わってシカゴ・カブスの監督に就任し、1974年途中まで務めた。
その後は育成部長、スカウトなどを歴任した。2009年スコッツデール (アリゾナ州)で没した。