マルハザ
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マルハザが始めて史料上に登場するのは1388年(洪武21年/天元10年)のことで、ウスハル・ハーンがブイル・ノールの戦いで大敗して逃れてきた時、「丞相ヨウジュ(咬住)」と「太尉マルハザ(馬児哈咱)」らがこれを迎えようとしたとの記録がある[1]。しかし、この時アリクブケの末裔のイェスデルが突如ウスハル・ハーンを急襲し、ウスハル・ハーンは僅か16騎で逃れざるを得なくなった。そこでヨウジュとマルハザは3千人を率いてハーンを迎えようとするも、大雪のために合流を果たせず、遂にウスハル・ハーンは殺害されてしまった[1]。そしてイェスデルは即位してジョリクト・ハーンと称したが、ウスハル・ハーンの部下の中でもネケレイらはジョリクト・ハーンに使えることを恥とし、明朝に降るに至った[2][1]。一方、記録には残らないものの、マルハザらは恥を忍んで一時ジョリクト・ハーンの下に降ったようである[1]。
ジョリクト・ハーン以後、アリクブケ裔のエンケ・ハーン、クン・テムル・ハーンが続いたが、一方でアリクブケ家を支持するオイラト内部での抗争が生じるようにもなった。そこで、クン・テムル・ハーンが亡くなった1402年にウスハル・ハーンの元部下が再結集し、モンゴル高原南西部のアルシャー方面を拠点とするオゴデイ裔のオルク・テムル(漢文史料上では鬼力赤と称される)をハーンとして擁立した[3]。奇しくもほぼ同時期、明朝では靖難の変を経て永楽帝が新たに即位しており、即位したばかりの永楽帝は1403年(永楽元年)2月にオルク・テムル・ハーン(韃靼可汗鬼力赤)に使者を派遣している[4]。その中で、オルク・テムル・ハーンに次ぐモンゴルの領侯として太師右丞相マルハザ(馬児哈咱)・太傅左丞相イェスンテイ(也孫台)・太保枢密知院アルクタイ(阿魯台)らの名を挙げており[5]、かつて「太尉」として丞相ヨウジュの下位にあったマルハザが、オルク・テムル・ハーン政権下では最高位の太師右丞相まで地位を向上させていることが分かる[6]。
なお、オルク・テムル・ハーン配下で同格のマルハザ・イェスンテイ・アルクタイらの内、イェスンテイは「オルク・テムルと『肺腑之親』であった」との記録があり、アルクタイは兄弟がブイル・ノールの戦いで捕虜になったとの記録がある。よって、オルク・テムル・ハーン政権は、マルハザとアルクタイらに代表されるウスハル・ハーンの元配下集団と、オルク・テムルとその直属の部下のイェスンテイに代表されるオゴデイ家集団の連合体であったと考えられている。
しかし、来歴の異なる二つの集団が連合したオルク・テムル・ハーン政権は団結力に欠け、1404年-1405年にオイラトとの戦闘で敗北を喫すると、二つの集団は分裂の兆しを見せ始めた。1406年(永楽4年)10月にはオルク・テムル・ハーン政権が瓦解する決定的な事件が起こったようで、明朝の側には「イェスンテイは部下に殺され、マルハザはオイラトに投降し、アルクタイはハイラルの地に逃れた」との報告がなされている[7]。
これ以後、東モンゴルではアルクタイが主導権を握り、オルジェイ・テムル(ペンヤシュリー・ハーン)らを擁立してオイラトに対抗した。一方、オイラトに投降したマルハザも後ほどペンヤシュリー・ハーンの下に戻ったようで、1407年(永楽5年)には「韃靼太師右丞相マルハザ(馬児哈咱)」として明朝に使者を派遣した記録が残る[8]。また、1409年(永楽7年)には「ペンヤシュリー・ハーンの臣下」としてアルクタイ・脱火赤・哈失帖木児らとともに名を挙げられている[9]。
しかし、1413年(永楽11年)に明朝に使者を派遣した事[10]を最後に記録が見られなくなり、その晩年については定かではない。
脚注
- 1 2 3 4 和田 1959, pp. 182–183.
- ↑ 『明太祖実録』洪武二十一年十月丙午(六日),「初虜主脱古思帖木児在捕魚児海、為我師所敗、率其餘衆、欲還和林、依丞相咬住。行至土剌河、為也速迭児所襲撃、其衆潰散独与捏怯来等十六騎遁去。適遇丞相咬住・太尉馬児哈咱領三千人来迎、又以闊闊帖木児人馬衆多、欲往依之、会天大雪、三日不得発。也速迭児遣大王火児忽答孫・王府官孛羅追襲之、獲脱古思帖木児、以弓絃縊殺之、並殺其太子天保奴。故捏怯来等恥事之、遂率其衆来降」
- ↑ 井上 2002, p. 3.
- ↑ 和田 1959, p. 202.
- ↑ 『明太宗実録』永楽元年二月己未(十二日),「遣使齎書往迤北諭韃靼可汗鬼力赤曰……并遣勅諭虜太師右丞相馬児哈咱・太傅左丞相也孫台・太保枢密知院阿魯台等、以遣使往来之意。賜馬児哈咱等文綺各二、及賜朶児只等白金・鈔幣・衣服有差」
- ↑ 和田 1959, p. 202/215.
- ↑ 『明太宗実録』永楽四年十月乙卯(二十九日),「百戸趙賢等自兀良哈察罕達魯花処還言、虜酋也孫台為部下所殺、馬児哈咱往帰瓦剌阿魯台往居海剌児河之地。上曰……」
- ↑ 『明太宗実録』永楽五年三月甲戌(二十日),「遣韃靼僧耳亦赤也児吉你児灰等還命齎綵幣、賜韃靼太師右丞相馬児哈咱及頭目脱火赤等。勅寧夏総兵官左都督何福及諸将辺将曰……」
- ↑ 『明太宗実録』永楽七年四月丁丑(五日),「遣都指揮金塔卜歹・給事中郭驥、齎書往虜中諭本雅失里曰……并賜其臣阿魯台・馬児哈咱・脱火赤・哈失帖木児等綵幣各四・表裏」
- ↑ 『明太宗実録』永楽十一年二月庚戌(一日),「韃靼太師馬児哈咱等、遣使阿魯帖木児等貢馬、賜之遣回」
参考文献
- 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
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