ミスターシクレノン

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欧字表記 Mr.Cyclennon[1]
性別 [1]
ミスターシクレノン
欧字表記 Mr.Cyclennon[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1985年4月15日[1]
死没 2012年2月19日(27歳没)
ミルジョージ[1]
ナオユキ[1]
母の父 ジルドレ[1]
生国 日本の旗 日本北海道門別町[1]
生産者 白井牧場[1]
馬主 藤立啓一[1]
調教師 小林稔栗東[1]
競走成績
生涯成績 32戦5勝[1]
獲得賞金 3億4609万6000円[1]
勝ち鞍
GII鳴尾記念1989年
GIIIダイヤモンドS1992年
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ミスターシクレノン(欧字名:Mr.Cyclennon1985年4月15日 - 2012年2月19日)は、日本競走馬種牡馬[1]。主な勝ち鞍に1989年鳴尾記念1992年ダイヤモンドステークス

半弟に、中央競馬における最高齢出走記録を持つミスタートウジンがいる。

3歳時(1987年)

1987年9月12日阪神競馬場第6競走の3歳新馬戦で河内洋を鞍上にデビューし、2着に5馬身も付ける圧勝で1番人気に応えた。続く野地菊賞(OP)も制し、1番人気でデイリー杯3歳ステークスへ出走したが、ここでは1着に1秒近く離された7着に沈み、阪神3歳ステークスでも3番人気を裏切り8着と惨敗し3歳シーズンを終える。

4歳時(1988年)

1988年シンザン記念より始動したもののラガーブラックの8着。その後8ヶ月ほど休養し、STV杯(900万下)、京都新聞杯と2戦して掲示板を外すが、続く衣笠特別(900万下)で久々の勝利を掴んだ。この後翌月の鳴尾記念で5着となり、この年のレースを終えた。

5歳時(1989年)

1989年は初戦のスポーツニッポン賞金杯、続く京都記念で連続で2着し、前年の不振から変わって好走を見せた。その後の中京記念では11着と惨敗してしまうが、16番人気の低評価で挑んだ天皇賞・春ではイナリワンに5馬身離されたものの2着と大健闘。さらに宝塚記念でも3着となった。この後は3ヶ月の休養を経てUHB杯4着、京都大賞典2着と善戦。天皇賞・秋は9着に敗れたものの、続く鳴尾記念では1番人気に応え快勝し、重賞初制覇を果たした。その後は有馬記念に出走するも13着と惨敗した。

6歳時(1990年)

1990年日経新春杯より始動し5着と掲示板を確保。続く阪神大賞典では2着、さらに天皇賞・春でも5着と好走した。しかし、その後は年末の有馬記念まで全休となり、有馬記念では8着であった。

7歳時(1991年)

7歳初戦は日経新春杯、ここでは2着となり、続く京都記念でも5着。その後の宝塚記念では6着であった。秋シーズンは京都大賞典より始動し4着。続く天皇賞・秋では半弟ミスタートウジンとの兄弟での出走が実現し、弟に先着し11着(ミスタートウジンは14着)。その後アルゼンチン共和国杯では7着を経て鳴尾記念では2着と好走した。

8歳時(1992年)

この年も日経新春杯より始動するも6着。その後、ダイヤモンドステークスに6番人気で出走。テン乗りの柴田善臣を鞍上に、ここで8歳馬ながら激走し、2着を3馬身以上離した圧勝で重賞2勝目を挙げた。しかし、これがラストランとなり現役を引退することとなった。

競走成績

種牡馬時代

引退後は種牡馬入りしたものの、中央競馬で重賞を勝つような活躍を見せる産駒は現れず、1999年9月9日には用途変更となり種牡馬を引退した[4]。その後名馬のふるさとステーションに移動したが、同地が経営難により閉鎖されると、新設された新ひだか町のローリング・エッグス・クラブにタケノハナミシンチェストとともに移動し、そこで繋養された。2004年より引退名馬繋養展示事業の助成対象馬となる[5]2012年2月頃より体調を崩し始め、身体の痙攣なども見られたため2月19日になって安楽死が取られることとなった[6]が、同日16時40分、獣医師が注射を打つ直前に息を引き取った[6]。27歳没。4月28日には、前年11月13日に死亡したライフタテヤマとの合同のお別れ会が[7]、その後桜舞馬公園で追悼式が行われた[7]

主な産駒

  • 1994年産
    • シロヤマスパーク(若草賞)[8]

血統表

脚注

外部リンク

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