ダイナカーペンター
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ダイナカーペンター | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 欧字表記 | Dyna Carpenter[1] | ||||||||
| 品種 | サラブレッド[1] | ||||||||
| 性別 | 牡[1] | ||||||||
| 毛色 | 鹿毛[1] | ||||||||
| 生誕 | 1984年5月17日[1] | ||||||||
| 死没 | 1995年8月(12歳没・旧表記) | ||||||||
| 父 | フレーミングユース[1] | ||||||||
| 母 | ファイアフラワー[1] | ||||||||
| 母の父 | Dike[1] | ||||||||
| 生国 |
| ||||||||
| 生産者 | 社台ファーム白老[1] | ||||||||
| 馬主 |
(有)社台レースホース →成田トシ[1] | ||||||||
| 調教師 |
増本豊(栗東) →林正夫(北海道)[1] | ||||||||
| 競走成績 | |||||||||
| 生涯成績 |
53戦8勝[1] 中央競馬:25戦8勝 地方競馬:28戦0勝 | ||||||||
| 獲得賞金 |
2億261万2000円[1] 中央競馬:1億9388万2000円 地方競馬:873万円 | ||||||||
| |||||||||
ダイナカーペンター(欧字名:Dyna Carpenter、1984年5月17日 - 1995年8月)は、日本の競走馬[1]。主な勝ち鞍に1988年の阪神大賞典、1989年の京都記念。
競走馬時代
1986年11月23日、中京競馬場第3競走の3歳新馬戦でデビューするも2着。折り返しの新馬でも2着し、年が明けた1987年4月、3戦目の未勝利戦で初勝利を挙げた。続くたちばな賞(400万下)では7着に敗れるも、5ヶ月後の条件戦を6番人気で勝ち2勝目を挙げる。その後11月の条件戦も勝ち3勝目を挙げると、年末の愛知杯で重賞初出走を果たしたが13着の惨敗に終わった。
1988年は万葉ステークス(1400万下)より始動し、5番人気というまずまずの評価であったものの、メイショウエイカンやマルブツファーストといったのちの重賞馬を相手に勝利。そのまま京都記念へ向かうも10着のブービー負けを喫したが、続く阪神大賞典では7頭立て5番人気という評価を覆し激走。単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持されていたタマモクロスと前々走で下したマルブツファーストが猛追してくる中、逃げ粘るも最後は3頭並んでゴールし、結果はダイナカーペンターとタマモクロスが1着同着[注 1]、マルブツファーストがハナ差3着というものになった。その後、天皇賞・春でGI初出走を果たしたが16着と惨敗。続くエメラルドステークス(OP)では4着となるも、アンドロメダステークス(OP)、鳴尾記念(OP)で2戦連続2桁着順と惨敗が続いた。しかし、年末の六甲ステークス(OP)では2着と久々に馬券圏内に入り、復調の兆しを見せたところでこの年のレースを終えた。
1989年は日経新春杯より始動。しかしここでは8着と2度目の重賞でのブービー負けを喫した。しかし、続く京都記念では逃げ切りに成功し優勝。昨年の屈辱を晴らした。その後、天皇賞・春では昨年と同じく16着に沈むもエメラルドステークスを勝ち、宝塚記念ではバンブーメモリーなどを抑え4着と掲示板を確保。さらにカシオペアステークス(OP)も制しオープン4勝目を挙げた。この後は鳴尾記念3着を挟み5番人気で有馬記念へ出走。しかし11着と惨敗し、このレースを最後に中央競馬の登録を抹消。その後、1990年9月よりホッカイドウ競馬へと移籍したものの、28戦して2着が4回あっただけで未勝利に終わり、1993年の9月に現役を引退した。
引退後
引退後は種牡馬入りする予定があったものの、血統面などが評価されず、門別町の前川ファームで当て馬となった[2]。1995年8月、蹄葉炎を患い、その2週間後には起き上がることもできなくなりそのまま息を引き取った[2]。12歳没。