三輪敬司

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-07-26) 1976年7月26日(49歳)
身長
体重
185 cm
85 kg
三輪 敬司
中日ドラゴンズスタッフ時代の三輪敬司
(2022年8月16日、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県幡豆郡一色町(現:西尾市
生年月日 (1976-07-26) 1976年7月26日(49歳)
身長
体重
185 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1994年 ドラフト5位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

三輪 敬司(みわ けいじ、1976年7月26日 - )は、愛知県幡豆郡一色町(現:西尾市)出身の元プロ野球選手捕手)。

現在は、中日ドラゴンズブルペン捕手

一色西部小学校一色中学校出身[1]。小学生時代は地元のソフトボールクラブ、中学生時代は地元中学校の野球部で活躍。

愛工大名電高校では春の県大会、東海大会で優勝を経験した。1994年11月18日に開催されたプロ野球ドラフト会議では、入団希望球団であった中日ドラゴンズから5位で指名され[2]、同月30日に契約金4000万1995年シーズンの年俸480万円という契約条件で入団に合意した[3]。本人は高校の先輩であるイチローや、西武ライオンズの正捕手として活躍していた伊東勤のような選手として、12球団で最強の打線と評されていた中日打線に名を連ねることを夢見ていた[4]

しかし1年目の1995年二軍ウエスタン・リーグ)でも20試合出場、19打数4安打、打率.211、1打点の成績にとどまる[5]。2年目の1996年も22試合に出場して30打数5安打、1打点、打率.167の成績だった[6]1997年までは二軍戦でも出場機会は少なかったが、秋季キャンプごろからは打撃面で急成長を見せ、首脳陣から高い評価を得ていた[7]。1997年は30試合に出場して39打数8安打、打率.205、0本塁打、5打点の成績で、1998年は31試合に出場して26打数3安打、打率.115、0本塁打、1打点の成績だった[8]

1999年は当時捕手最年少で2年目だった3学年下の清水清人が急成長し、自身は15試合に出場して15打数2安打、打率.133、0本塁打、0打点の成績に終わった[9]2000年は清水が41試合に出場して94打数21安打、打率.223、3本塁打、11打点を記録した一方、自身は23試合に出場して15打数4安打、打率.267、0本塁打、2打点の成績に終わった[10]。同年12月9日に結婚式を挙げた[10]

2001年は18試合に出場して21打数2安打、打率.095、0本塁打、0打点の成績だった[11]。一軍出場を果たせないまま、同年10月19日までに球団から戦力外通告を受け、現役を引退[12]ブルペン捕手に転向した[13]2004年からは、同じ西尾市出身で2学年上の岩瀬仁紀のブルペン捕手を務めた[14]。岩瀬からパートナーに指名されたことがきっかけであり、それ以来彼を引退まで専属ブルペン捕手として支えていた[15]。岩瀬が引退した後の2024年時点では一軍ブルペン捕手としては最年長であり、祖父江大輔田島慎二、外国人投手ら救援陣を中心に担当していた[13]

2005年9月27日横浜ベイスターズ戦で井端弘和が、2009年5月31日ソフトバンク戦でトニ・ブランコが、2010年3月7日の対オリックス・バファローズオープン戦で高橋聡文が、2025年5月13日東京ヤクルトスワローズ戦で田中幹也が、ユニフォームを忘れたため、三輪のユニフォームを着て試合に出場した[16]。また試合に出場はしなかったが、2016年7月5日広島東洋カープ戦では藤井淳志がユニフォームを忘れたため、三輪のユニフォームを着てベンチ入りしていた。

選手としての特徴

ドラフト指名を受けた時点で100メートル走のタイムは11秒5、遠投は110メートルと俊足、強肩が持ち味であった[2]。また打撃面でも、高校2年生だった1993年秋からドラフト指名を受けるまでの1年間で23本塁打を放っていた[2]

詳細情報

脚注

関連項目

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