田中幹也

日本のプロ野球選手 (2000-) From Wikipedia, the free encyclopedia

田中 幹也(たなか みきや、2000年11月28日 - )は、神奈川県愛甲郡愛川町出身のプロ野球選手内野手)。右投右打。中日ドラゴンズ所属。

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (2000-11-28) 2000年11月28日(25歳)
身長
体重
166 cm
68 kg
概要 中日ドラゴンズ #2, 基本情報 ...
田中 幹也
中日ドラゴンズ #2
2024年4月20日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県愛甲郡愛川町
生年月日 (2000-11-28) 2000年11月28日(25歳)
身長
体重
166 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手
プロ入り 2022年 ドラフト6位
初出場 2024年3月29日
年俸 3600万円(2026年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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経歴

プロ入り前

愛川町立中津小学校時代は中津リバーズ、愛川町立愛川東中学校時代は相模原リトルシニアに所属[2]

高校時代は若林弘泰が監督を務める西東京の強豪・東海大学菅生高等学校でプレー。1年時より出場し、2年夏には1学年上の松本健吾や同級生の戸田懐生らとともに西東京大会の決勝で清宮幸太郎擁する早稲田実業高等部を破り甲子園大会に出場。甲子園大会ではベスト4に進出。その後のえひめ国体にも出場。甲子園大会では俊敏な守備や俊足、シュアな打撃が注目された。後輩に成瀬脩人がいる。

高校卒業後は東都大学野球亜細亜大学に進学。1年春のリーグからベンチ入り。1年生ながら日米大学野球の日本代表に同学年かつ東都大学野球でライバルの中央大学森下翔太とともに選出された。その後も二塁手として公式戦の出場を重ね、2学年先輩で遊撃手のレギュラーであった矢野雅哉が卒業後は遊撃のレギュラーに定着し、3年春のリーグ戦においてはベストナインを獲得。しかし、この頃から体調に異変を感じていた。その後3年夏のキャンプ時にスズメバチに刺されて病院で検査を受けた際に、偶然国指定の難病潰瘍性大腸炎」と診断され入院[3][4]。投薬治療(対症療法)が芳しくないことから、秋に大腸全摘出の大手術を受けた。これによって2か月入院して体重も11kg減少、秋のリーグ戦も2打席のみの出場となった[4]。その後もリハビリを重ね、4年春のリーグ戦で本格的に試合復帰。2022年4月14日の第2週最終日の対國學院大學3回戦では日本大学時代の真中満と並ぶ、1試合6盗塁を決めリーグタイ記録を刻む[4]。亜細亜大学のチームとしても1試合で12盗塁を決めリーグの1試合の最多盗塁記録を更新している[4]。田中はチームの盗塁数の半分を記録し、記録更新と試合の大勝に大きく貢献している。大学の同期に青山美夏人松本晴重松凱人らがいる。

同年のドラフト会議では、中日ドラゴンズより6位指名を受け[5]、11月14日に契約金3500万円、年俸720万円で仮契約を結んだ[6]。背番号は2[7]

中日時代

2023年は、春季キャンプで一軍メンバーに抜擢され完走[8]オープン戦では、一時首位打者に浮上する活躍を見せる[9]。しかし、3月19日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦にて四球で出塁後、牽制で頭から一塁へ帰塁した際に右肩を脱臼しチームを離脱[10]。同月29日には、佐賀県内の病院で右肩鏡視下バンカート修復術という患部の手術を受けた[11]。その後はリハビリを進め、6月24日には術後初となるスローイング練習を行った[12]。9月7日から一時はノースロー調整となっていたが、16日からスローイングを再開。送球以外はプレー可能な状態であったため、約6か月ぶりの実戦復帰の運びとなり、同月20日の広島東洋カープとのウエスタン・リーグ公式戦(ナゴヤ球場)で、福田永将の代走として公式戦プロ初出場を果たした[13]。11月8日の契約更改交渉では、65万円減の推定年俸655万円でサインした[14]

2024年は、開幕戦となった3月29日の東京ヤクルトスワローズ戦で「2番・二塁手」として先発出場すると、第1打席でプロ初安打を記録した[15]。5月21日、対読売ジャイアンツ戦で、7回表に山﨑伊織からプロ初本塁打を放った[16]。107試合に出場していたが、9月5日にこの年初めて登録を抹消された[17]。登録抹消の理由は左足首の捻挫であった[18]。同20日に実戦復帰を果たす[19]。その後再昇格し、最終的に112試合の出場で、打率.224、2本塁打、23打点、5盗塁という成績だった。球団からは守備面の評価をされ、オフに1195万円増の推定年俸1850万円で契約を更改した[20][21]。また、翌年以降のヘッドスライディングを解禁することを明かした[22][注 1]

2025年はキャンプを二軍で迎えるも、3月の二軍での試合中に左手有鈎骨を骨折[23]。12日に同個所の摘出手術を受けた[24]。4月22日に二軍で実戦復帰を果たすと[25]、5月6日に一軍昇格し、同日の横浜DeNAベイスターズ戦で先発出場した[26]。しかし、6月には打撃で不調が続き月間打率.082となった[27]。9月9日のヤクルト戦では自身初の1試合4安打を放つと[28]、その2日後の9月11日のヤクルト戦でも、1試合4安打を放った[29]。こういった好調もあり、9月には59打数25安打でリーグトップの打率.424を記録した[30]。後半戦で見るとリーグ2位の打率.337を記録し[31]、シーズンでは95試合に出場し、打率.270、1本塁打、21打点、12盗塁をマークした。11月24日の契約更改では1750万円増の推定3600万円で契約を更改した[32]

選手としての特徴

50m走5.9秒、大学通算48盗塁を記録した俊足が武器[6]

守備では、小柄な体格を生かした俊敏なプレーを見せ、的確なポジショニングと打球反応の良さで好守を連発する[33]高木豊からも「反射神経がよくて守備範囲が広く、前後左右どの方向にも俊敏に動ける」と評されている[34]

人物

  • 目標とする選手に大学の先輩である井端弘和を挙げており[6]、動きを参考にしている選手には菊池涼介を挙げている[35]
  • 東海大菅生高校時代の愛称は小柄な体ですばしっこく動き回る姿から監督の若林弘泰らからは親しみを込めて「サル」と呼ばれていた[4][35]。大学・プロではその軽快な守備と走塁から「忍者[33][35][36][37]、名前の幹也から「ミッキー」と呼ばれている[38]
  • 田中の父は東海大学付属相模高等学校の野球部出身で1985年には主将も務めている。田中の父の1学年先輩が後に田中の恩師ともなる若林であった。
  • 2025年シーズンオフの契約更改後、報道陣向けに記者会見を行い、同年8月に結婚したことを報じた。相手は高校時代の同級生だという。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
2024 中日 11234331326708228823511002010463.224.270.281.551
2025 9536531533851311103211222222412352.270.324.327.651
通算:2年 207708628591552133191441733224422815.247.297.304.601
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  • 2025年度シーズン終了時

年度別守備成績

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二塁遊撃
























2024[39] 中日 103206258449.991101001.000
2025[40] 92210293660.988123001.000
通算 19541655110109.990224001.000
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  • 2025年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録

背番号

  • 2(2023年[7] - )

登場曲

代表歴

脚注

関連項目

外部リンク

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