亀井町 (高松市)
From Wikipedia, the free encyclopedia

高松市役所より0.3km、高松市中心部の都心に位置し、西は中央通り、北は国道11号高松北バイパス、南は市道常磐町八番町線、東は市道亀井町102号線、市道亀井町106号線、市道南新町1号線によって区切られ、特に東側は南新町および田町の市道丸亀町栗林線(高松中央商店街)に面した建物の裏手にあたる町である。北部および西部の中央通り付近は四国地方における企業の拠点が集積し域内有数の中心業務地区を形成しているほか、当町内には県内を地盤とする金融機関の本店が複数置かれており(百十四銀行、香川銀行、香川県信用組合)、関連企業の事務所も多く位置している[5]。
南東部は高松中央商店街の三叉路「南部3町ドーム」から連続した広場「4町パティオ」(500m2)に面しており、広場からの賑わいが連続する形で映画館(ホールソレイユ)や飲食店といった商業施設が立地している。当広場を中心とした0.4haは、広場の賑わい創出と沿道施設との一体化を目的とした地区計画が指定されており、当町もその一部が含まれている[6]。百十四銀行本店ビルと同別館の間の市道亀井町2号線は「祇園通り」と愛称され、当町の中央通り交点を西端として塩上町の八坂神社祇園稲荷に至る街路であり、道中の瓦町周辺は飲食店が密集する繁華街である。
2020年国勢調査[2]による人口は111人(男67人/女44人)、世帯数は81世帯、面積は4万8,105.634m2、人口密度は2,307.42人/km2。2021年経済センサス[7]によれば事業所数は169、従業者は3,953人である。居住者(常住人口)に対して通勤者(昼間人口)が圧倒的に多いため昼夜間人口比率は30倍以上であり、業務地区の性格を顕著に表している。
公立小学校・中学校の校区は全域が新番丁小学校・紫雲中学校に指定されている[8]。町内における都市計画法に基づく用途地域は全域が商業地域で、容積率は中央通りおよび高松北バイパス沿いが600%、それ以外が500%である[9]。
歴史
1958年(昭和33年)7月11日、高松市南亀井町の全域並びに田町、天神前、五番丁および南新町の各一部から新設[10]。町名は当町が編入した南亀井町と鍛冶屋町に編入された北亀井町による。
戦後、常磐町商店街や南新町商店街近辺では闇市が発達し、そこから近い当町南東部でも高松大映劇場が開館するなど商業地域か形成されていった。一方、中央通りの沿線およびその周辺地区においては、1960年代~1970年代にかけて百十四銀行、香川相互銀行、香川県信用組合、四国電力高松支店、岡内勧弘堂といった地場資本の大手企業や、日本長期信用銀行高松支店、日産海上火災保険高松支社といった一般顧客向けの域外企業が事業所を置いたほか、それ以降の1980年代~1990年代にかけては全国規模で展開する企業の支社・支店が進出し、支店経済都市としての中心業務地区の一角を成すようになった。
南亀井町

南亀井町(みなみかめいまち)は、かつて存在した高松市の町丁。町名の由来は、高松城下の上水道源になっていた井戸およびその周りの貯水池「亀井」(通称:新井戸[注釈 1])があったことによる[11]。その亀井の名の由来は、神亀が住んでいたためという説(亀井霊泉碑文)[12][13]と、それが甕の形状だったことから
高松城下の一町で、地名の初出は寛政元年(1789年)の絵図に南亀井町一帯を単に亀井町と記しており、その後文化年間(1804年~1818年)および安政4年(1857年)の絵図ではいずれも新井戸の北西側を北亀井町とし、その南側は2つの通りのうち南新町裏側の通りを片亀井町、その西の通りを南亀井町としているが、いずれも南北亀井町の区分は明確でない[17]。
高松城築城(1590年)から生駒氏時代を通して当町は城下町外だったが、松平氏入封(1639年)以降、城下町の拡張に応じて南部の要害として武家屋敷が立ち並んだ[18]。江戸の玉川上水から遡ること9年前、正保元年(1644年)12月に松平頼重が亀井町に新井戸を設け[11][19]、これに加え西瓦町の大井戸、外磨屋町の今井戸を水源として高松城下に水道管を敷設した[20]。特に新井戸からの配水区域は最も広く、丸亀町以東から八重垣新地に至るまでの広範囲におよぶ[21][22][23]。この水道維持費の上納金分担を記した嘉永6年(1853年)の水道年賦銀上納割高控によれば、南新町、南鍛冶屋町、丸亀町、古馬場町、七十間町、塩屋町、新塩屋町、御坊町、野方町、桶屋町、今新町、大工町、片原町、東百間町、西百間町、通町、新通町、新材木町、東浜、新湊町、本町、鶴屋町が記されている[24]。
1877年(明治10年)、亀井町に県内の英語研究者幸田学、安達伝昌、中村俊次、森田一郎らにより私塾「共立義塾」が開かれ、英語のほか漢学と数学が教えられた[25]。1887年(明治20年)、町内に工場を置く岡内勧弘堂が千金丹の行商を始め、四国のほか吉備地方へ派出を行う[26]。1890年(明治23年)2月15日にはそれまでの高松城下に市制を適用して高松市が成立し、亀井町もその一部となった。1892年(明治25年)、市費をもって町内の西横手筋、本通り筋を改修する[27]。町内の医療機関として、1901年(明治34年)に柏原義雄が産婦人科を[28][29]、1902年(明治35年)1月に高坂柳軒が皮膚科を[30]、1906年(明治39年)に増田正奛が医院を[31]、1941年(昭和16年)に田井稔が耳鼻科を[32]、1949年(昭和24年)2月に猪木脩治(1885年生。京大医学部卒。妻の甥に遠藤周作)[33]が内科を[34]開業している。なお、増田正奛は1915年(大正4年)ごろ、高松で最初にヨーグルトを愛飲した人物である[35]。四国で最初のヨーグルトは広瀬牧場が発祥で、最盛期には内町に100頭の乳牛を放牧しており、華下天満宮に寝牛の石像を奉献している[36]。
1945年(昭和20年)7月4日未明、高松空襲によって町域の100%を焼失した[37]。空襲で壊滅的な被害を受けた高松市中心部では、大部分で土地区画整理事業(戦災復興土地区画整理事業)が計画され、1946年(昭和21年)6月5日の戦災復興院告示第39号によって当町でも全域が第一工区一次として区画整理の対象となることが決定した[38]。この区画整理で城下町由来の狭隘な既存街路はすべて拡幅整備された他、都市計画道路として高松港栗林線(中央通り)および五番丁千代橋線(高松北バイパス)が拡幅され、天神前瓦町線(県庁通り→菊池寛通り)が新設された[39]。当町を含む第一工区一次地区にける換地処分公告は1958年(昭和33年)7月10日である[40]。換地処分の効力により当日をもって従前の地番が廃止され、その翌日から新たな地番が振られたこと(地番整理)で町域も変わり、南亀井町は全域が亀井町に編入され消滅した[17]。
人口推移
- 1995年:総数189人(男76人/女113人)、91世帯[41]
- 2000年:総数141人(男58人/女83人)、69世帯[42]
- 2005年:総数140人(男57人/女83人)、70世帯[43]
- 2010年:総数149人(男69人/女80人)、90世帯[44]
- 2015年:総数134人(男72人/女62人)、91世帯[45]
- 2020年:総数111人(男67人/女44人)、81世帯[2]
