内垣啓一

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内垣 啓一(うちがき けいいち、1925年大正14年)12月20日 - 1989年平成元年)8月17日)は、日本のドイツ文学者翻訳家演劇音楽評論家、舞台演出家オペラ演出家。東京大学名誉教授

京都府京都市に生まれる[1][2][3]京都第一中学校(旧制)、第一高等学校(旧制)を経て、1950年(昭和25年)京都大学文学部ドイツ文学科卒。1951年(昭和26年)に東京大学教養学部助手となり、1953年(昭和28年)戦後初めてのドイツ学術交流会招聘留学生としてハンブルクにおいて研究を続け[4]、以後ドイツ文学、ドイツ演劇、比較文学、比較演劇の講師助教授教授を務め、1986年定年退官。

ドイツ文学のエキスパートとして古典から現代までの数多くの文学作品や戯曲を翻訳し出版しているのみならず、研究領域はドイツ演劇に加え、ドイツオペラから新劇伝統芸能に至るまで舞台芸術全般に及んだ。クラシック音楽にも造詣が深く、音楽家の自伝・評伝の翻訳から音楽評論まで手掛けた。1950年代から演劇誌、音楽誌等にきわめて旺盛な執筆活動を行う傍ら、畑中良輔との共同作業によるリヒャルト・シュトラウスばらの騎士』の訳詞を手始めに、研究者の枠を超えて実演の領域にも進出。1960年代から劇団新人会などに所属し演劇の舞台演出も手掛けている。1963年(昭和38年)に日生劇場のこけら落としで来日したベルリン・ドイツ・オペラ、とりわけグスタフ・ルドルフ・ゼルナーの演出は鈴木敬介や内垣など多くの聴衆・舞台関係者にとっては「価値観がひっくり返る衝撃[5]」であった。内垣はその後、二期会等のオペラ演出も行い、自らの知識と経験を実演の場で表現した。中でもリヒャルト・ワーグナーの楽劇『パルジファル』日本初演をはじめとするドイツオペラの演出は、「ドイツ的世界観」を理論と実践の双方で身に付けている内垣ならではの仕事であり、後世にわたって大きな影響を与えている。演劇界においても、国際的な事情を熟知したうえで次々と綴られた内垣の演劇評は常に重要な示唆をもたらした。1976年(昭和51年)1月号 - 6月号の半年間にわたって『悲劇喜劇』に掲載された早野寿郎との対談演劇時評は特に名高い。なお、内垣は早野の死去後『悲劇喜劇』1983年(昭和58年)5月号に追悼文を寄せている。

1989年(平成元年)8月17日死去。63歳没。島根県大田市明善寺に埋葬[6]。早逝のため栄典はないが、日本の舞台芸術を語る上では不可欠の人物である。

エピソード

著書

講義録

  • 外国語科研究紀要.34(1)東京大学教養学部外国語科 編[他]([東京大学教養学部外国語科]、1986-11)内垣啓一教授最終講義『演劇論』記録=Zur Dramaturgie. Aus Prof.Uchigakis letzter Vorlesung 14.2.1986/内垣啓一[7]

共編著

翻訳

※新版が出ているものも併せて掲載した。

寄稿・掲載等

オペラとの関わり

脚注

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