反デューリング論

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エンゲルス(1877年)

反デューリング論』(はんデューリングろん、ドイツ語: Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft(オイゲン・デューリング氏の科学の変革)は、1878年フリードリヒ・エンゲルスの著作。哲学経済学自然科学社会主義の全領域にわたってマルクス主義の世界観が包括的に叙述された。1880年に社会主義への入門書として作られた抜粋版パンフレット『空想から科学へ』のオリジナルにあたり『共産党宣言』や『資本論』と並ぶ重要な古典的著作である。

以下は目次による[1]

  • 三つの版の序文
  • 序説
    • 第一章 総論
    • 第二章 デューリング氏の約束するもの
  • 哲学
    • 第三章  分類 先天主義
    • 第四章  世界図式論
    • 第五章  自然科学 時間と空間
    • 第六章  自然科学 宇宙発生論、物理学、化学
    • 第七章  自然科学 生物界
    • 第八章  自然科学 生物界(おわり)
    • 第九章  道徳と法 永遠の真理
    • 第十章  道徳と法 平等
    • 第十一章 道徳と法 自由と必然
    • 第十二章 弁証法  質と量
    • 第十三章 弁証法  否定の否定
    • 第十四章 むすび
  • 経済学
    • 第一章  対象と方法
    • 第二章  暴力論
    • 第三章  暴力論(つづき)
    • 第四章  暴力論(むすび)
    • 第五章  価値論
    • 第六章  単純労働と複雑労働
    • 第七章  資本と剰余価値
    • 第八章  資本と剰余価値(むすび)
    • 第九章  経済学の自然法則 地代
    • 第十章  『批判的歴史』から
  • 社会主義
    • 第一章  歴史的なこと
    • 第二章  理論的なこと
    • 第三章  生産
    • 第四章  分配
    • 第五章  国家、家族、教育

沿革

本書の出版の経緯は、本書にあるエンゲルスの序文に簡潔にまとめられている。

執筆の由来は、ドイツの二つの労働者党(アイゼナハ派とラッサール派)の1875年の合同に求められる[2]。両派の合同は普仏戦争の勝利を受けてドイツ統一が実現したということが契機となっている。ラッサール派はプロイセン王国を基軸に労働運動を展開するのが戦術であった。一方、アイゼナハ派はマルクスの指導によって反戦と国際主義の立場をとり、反プロイセン王国の立場に立って全ドイツの労働者の結集によって革命を起こし統一民族国家の実現させるという構想を持っていた。ドイツの統一によって党派的分立の根拠が一つ解消された両派は合同したのである[3]

かくして、アウグスト・ベーベルウィルヘルム・リープクネヒトが率いるドイツ社会民主労働党ドイツ語版フェルディナント・ラッサールが設立してドイツ内の労働者党の最大会派となっていた全ドイツ労働者同盟が合同し、ドイツ社会主義労働者党が結成された[4]。1878年、ビスマルクの主導によってドイツ帝国社会主義者鎮圧法が制定されたため、理論面での不一致は多かったものの、党勢維持の必要から共闘が不可欠となっていた[3]

この未熟な段階の政党内で理論的影響を広げつつあったのが、ベルリン大学で私講師を務めていた視覚障害者のオイゲン・デューリングの学説だった。デューリングはカール・マルクスの理論を一つの仮想敵として位置づけ、暴力革命や中央集権制、計画経済の導入を否定して、プルードンラッサールに似た独自の社会主義思想を作り出そうとしていた[3]

また、デューリングは尊大な人物だったがゆえに、自らを「科学の完成者」として位置づけるようになっており、ライプニッツフィヒテシェリングヘーゲルといったドイツの名だたる哲学者を中傷したほか、ダーウィンを誹謗し、サン・シモンシャルル・フーリエロバート・オウエンといった社会主義思想家を罵り、マルクスに対しても曲解をもって罵詈雑言を加えていた。

さらに、深刻なことにエドゥアルト・ベルンシュタインもデューリングの学説に影響を受け、ベーベルらにデューリングの著作を送り、ベーベルもこれに呼応してデューリングを支持することを『フォルクスシュタットドイツ語版』(: Der Volksstaat)誌上で表明するなど、次第に影響力を強めていったのだ。

リープクネヒトは危機感を強めてデューリング批判の必要性をエンゲルスに説き、論文を執筆するように要請した[5]。エンゲルスも「彼のまわりに一つの派閥、すなわち将来別個の党になる中核を公然とつくりはじめた」ことに懸念を感じたため、デューリングを批判する論文を機関紙『フォルウェルツドイツ語版』(: Vorwärts)で連載した[6]。デューリングは多方面にわたって論説を展開させていたため、エンゲルスはデューリング批判を全方面に拡大させていく必要に迫られていった[7]。その結果、ウラジーミル・レーニンが語るところの「哲学、自然科学および社会科学の諸領域に属する最大の諸問題が究明され」、「驚くべき内容豊富なまた教えるところの多い書物」が完成した。これが1878年に出版されて『反デューリング論』(正式名は「オイゲン・デューリング氏の科学の変革」)となった[8]

内容について

参考文献

脚注

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