史天倪
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史天倪の祖先はかつて唐朝に仕え大官を輩出していたが、唐の滅亡後衰退して中央政界から離れ、農村の名家となった家系であった。史天倪の曾祖父の史倫は末子でありながら偶然金塊を発見したことで裕福になり、史倫の家系が史家の総領的地位についた。1211年からチンギス・カンによる金朝侵攻が始まると、各地で敗北を喫した金朝は遂に長城を突破され、華北平原はモンゴル軍の掠奪に晒されることになった。この頃史家の統領であった史秉直は掠奪を免れるためにいち早くモンゴル帝国に投降することを決め、1213年に陥落したばかりの涿州に赴き太師国王ムカリの軍に投降した。華北でも名家で知られた史家が抗戦の末の降伏ではなく、自発的に投降してきたことはモンゴル軍を大いに喜ばせ、これ以後史家はモンゴル帝国統治下の華北において有力諸侯の一つとして遇されるようになった[1]。
史家の投降を受けたムカリは史秉直に自軍に従軍するよう依頼したが、史秉直は代わりに自らの長男史天倪が従軍することを提案した。史天倪はこの時28歳で英雄豪傑の風貌をもって知られ、道士が史天倪の風貌を見た時「後に王侯・宰相に封ぜられるだろう」と語ったという。勉学も好み、金朝の科挙も受けているが進士には落第し「大丈夫が立身する手段は文だけではない」と語ったとされる。史天倪を配下に加えたムカリは万人隊長(トゥメン)につけるとという厚遇を示し、史天倪もこの期待に応えて多くの武功を挙げた。かつて史天倪の曾祖父の史倫が亡くなった時、史倫を偲ぶ周囲の者達は史倫を祀る「清楽社」という相互扶助組織を形成していた。史天倪はこの清楽社の構成員から1万人を選抜して「清楽軍」と号し、族兄の史天祥を先鋒として向かうところ敵なしの活躍を見せたという[2]。
その後も史天倪は華北の平定に従事したが[3]、1225年に武仙の起こした叛乱によって殺された[4]。史天倪が急死したことによって史家の家督は弟の史天沢が継ぐことになり、以後史天沢は漢人軍閥の中でも最も有力な将軍として活躍するようになった。