史天安
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史天安の祖先はかつて唐朝に仕え大官を輩出していたが、唐の滅亡後衰退して中央政界から離れ、農村の名家となった家系であった。金末、モンゴル軍の侵攻を受けて華北が混乱すると、史家の当主たる史秉直は一族のみならず里中の住民数千人を率いて興隆里を出立し、陥落したばかりの涿州に駐屯するムカリに投降を申し出た。ムカリは史家の投降を歓迎し史秉直を配下の軍団に加えようとしたが、史秉直は老母の世話を見なければならないことを理由にこれを辞退し、代わりに史天倪・史天安・史天沢ら自らの息子たちを推薦した。ムカリは史秉直の申し出を受け入れ、史天安はトルカク(質子)という扱いでムカリの配下ウヤルの下に配属された[1][2][3]。
1217年(丁丑)、張致が義州・錦州を拠点にモンゴルに対して叛旗を翻すと、ムカリはウヤル[4]を中心とする史天安・史枢[5]・史天祥[6]・移剌捏児[7]・王珣ら遼西地方の軍団を招集して進軍し張致を討伐したが、諸将の中でも最も功が多かったのが史天安であったという[8]。
1219年(己卯)にはムカリに従って関右(陝西地方)に侵攻し、鄜州で「鉄槍」の称で知られる張資禄を討ち取ったことで史天安の威望は鳴り響いた[9]。その後、一度モンゴルに降りながら再び寝返った武仙が史天倪を殺害すると、史天安は史天沢らとともにこれを討って西山に敗走させた[10]。1229年(己丑)、武仙を討って兄の仇を討った史天安は、それまでの功績により行北京元帥府事とされた[11][12][13][14]。
1232年(壬辰)、群盗を討伐して尽くその巣窟を平定した[15]。1234年(甲午)に宣権の職を拝し、1246年(丙午)には新帝グユク・カンに入観し牝馬100匹・黄金50両・白狐裘1を与えられた[16][17]。
1254年(甲寅)、病により史天安は先に帰還し、1255年(乙卯)5月5日に57歳にして亡くなった[18][19]。史天安の墓は獲鹿県の東8里にある馬村郷の東にあり、墓に建てられた神道碑に史天安の事蹟を伝えている[20]。