史燿
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史燿は金末の混乱期にモンゴル帝国に降った史秉直の曽孫にあたり、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯の中でも屈指の名家の出であった。史燿は史天倪の息子の史権の息子で、史権が屯田万戸として鄧州に駐屯していた時期、1256年(丙申)に鄧州で生まれた。史燿は史家の総領で大おじにあたる史天沢の下で育ち、史天沢は自らの孫と変わりなく史燿を愛したという[1]。
至元6年(1269年)より襄陽包囲戦が始まると、史天沢の息子の史格は亳州の兵を率いて遠征軍に加わった。このころ、史格にはまだ息子がいなかったため、史燿を養子に求め、史天沢がこれを許したことで史燿は史格の跡取りとなった。史燿は史格の下で軍事について学び、後に参政の崔斌のとともに趙宣機を討った時には、自ら敵勢を射殺す功績を挙げたことで「まさしく将種である」と評されたという[2]。
襄陽の陥落後、バヤンを総司令とする南宋領侵攻が始まると、史燿はエリク・カヤの率いる軍団に加わった。静江の陥落後、史燿は兵を率いて静江に残留することを命じられたため、理由を問いただしたところエリク・カヤは「吾が去った後土着の民が叛乱を起こせば、残った将軍は必ず処刑されるが、史宣慰(史燿)は功臣の息子であり、朝廷は重ねて罪を問うことはないだろう」と語ったという。これを聞いて史燿は静江に残留することを受け容れ、孤軍で広西地方の昭州・賀州・梧州・潯州・藤州・容州・象州・貴州・鬱林州・柳州・融州・賓州・邕州・横州・廉州・欽州・高州・化州の18州、広東地方の肇慶府・徳慶府・封州の3府州を平定する功績を挙げた。これらの功績により、同知潭州総管府事の地位を授けられている[3]。
その後、肇慶の盗賊趙都を内、更に奉訓大夫潭州路治中・広東道宣慰副使の地位に移った。黎徳の賊を平定した時は船1千艘を獲得し、更にソゲドゥとともに現在の広東省方面に進出した。浙江宣慰副使の地位に移ると、呂成・婁蒙才羅率いる10万の軍団を破る功績を挙げている。また、崖山の戦いで南宋を名実共に滅ぼした張弘範が帰還すると、史燿が率いていた亳州兵を譲るよう求めたため、詔を受けて史燿は亳州兵を張弘範に譲り自らは鄧州兵を率いるようになった[4]。
このころ、父の史格は既に右丞の地位にあったが、鄧軍の指揮権を張温に譲ろうとした。これを聞いたクビライは「太尉(史天沢)の軍を他の誰が率いることができようか」と述べ、血縁の者から後継者を選ぶよう指示した。そこで史格は改めて史燿を推薦したものの、史燿はこれを固辞したため、まだ幼い実子の史栄が長ずれば鄧軍を継承するよう遺言した。その後、史格が亡くなると史燿は朝列大夫・鄧州旧軍万戸の地位を継いだものの、棺の前で「史栄が成長すれば必ず鄧州旧軍万戸の地位を譲ります」と誓ったという。やがて史栄が14歳となるとともにクビライに謁見し、誓約通り鄧州旧軍万戸の地位を譲ることを申し出、クビライに認められている[5]。
至元29年(1292年)、ジャワ遠征の計画が始まった時には栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事としてジャワ遠征軍の司令官に任命されることになったが、史燿は自らが年少であることを理由に辞退し国人(モンゴル人)を起用するよう請うた[6]。これに対してクビライは「太尉(史天沢)は漢人と同列ではなく、その孫もまた国人とかわりない」と述べたため、史燿は改めて高興・史弼を推薦し、この2名がジャワ遠征軍の司令官を務めることになったという[7]。
元貞元年(1295年)、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世に入ると資徳大夫・江浙行省右丞の地位を授けられた[8]。大徳元年(1297年)、江西左丞に任じられた後、一時湖広左丞とされたが、再び江西左丞の地位に戻った。このころ、贛州で屯田を行っていたが、風土病の流行により兵の死者が多発したため、広東宣慰司とともに田租以外に丁糧を課す者を罪として処罰している。大徳7年(1303年)、ブルガン・カトン主導の政変によって政府高官が一斉に入れ替えられると、史燿も大司農に抜擢されている[9]。しかしそれから2年後、大徳9年(1305年)2月に50歳にして亡くなった[10]。