和歌山利宏
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和歌山 利宏 (わかやま としひろ、1954年2月18日 - ) は、滋賀県大津市出身[1]の元オートバイ・ロードレーサー、モーターサイクル・ジャーナリスト。ヤマハ発動機およびヨコハマタイヤでオートバイ及びオートバイ専用タイヤの開発を手掛け、1987年に日本での22年ぶりの開催となったロードレース世界選手権では250ccクラスに出場した[2]。
WOWOWにおける全日本ロードレース選手権中継では解説者を務めた[3]。
少年時代からオートバイに魅力を感じており、将来は携わる仕事に就きたいと志望していたため[4]、工業高等専門学校へ進学[4]。
1975年にヤマハ発動機入社、希望が叶いRD400のエンジン開発・実験に携わり、車体の操作安全性テストライダーも担当するようになった[4]。ライダーとしてヤマハ社内チームである「磐田レーシングファミリー」に所属し、1976年よりロードレース公式戦への参戦を開始すると、1977年ノービス125cc年間ランキング10位にランクされる[5]。前年の成績により1978年はジュニアライセンスへ昇格、参戦クラスも250ccクラスにステップアップ。このシーズンのジュニア250年間ランキング3位となる[6]。
1979年より国際A級に昇格。ヤマハ・TZ350で全日本ロードレース・国際A級350ccクラスに参戦。1980年にランキング4位、1981年は2位と好成績を継続した。
1982年はTZ500で最高峰の国際A級500ccクラスに参戦、第3戦鈴鹿では水谷勝(スズキ)、平忠彦(ヤマハ)に次ぐクラス3位に入った(※フォーミュラリブレ参戦のワークスマシンを含めた総合順位では6位)。年間ランキングでは500ccでの9位にランクインする[7]。この1982年からは、4ストロークエンジン車であるヤマハ・XJ750をベースにしたTTフォーミュラレース車両(TT F1クラス)の開発も担当しており、車体の基本的な設計方針を定める重責を担った[8]。この車両開発は、ヤマハが1984年から徐々に本格化させる鈴鹿8時間耐久レース参戦の礎となり[9]、1985年に発売となるヤマハ・FZ750[10]の開発にも生かされることとなった[8]。1982年7月末に行われた鈴鹿8時間耐久レースにもXJで参戦、台風による豪雨での開催となった悪コンディション下において一時トップを走行する快走も見せ、4位という結果を残した[11]。1983年もこのXJ750ベースのマシン開発を継続し、TT-F1クラスに参戦した。
1984年、全日本選手権ではヤマハ・TZ250で国際A級250ccへと参戦クラスを変更する。1984年末にヤマハ発動機を退社し、全日本F2選手権など国内4輪レースで実績を積み、2輪用タイヤに進出したヨコハマタイヤへ移籍。同社の2輪用タイヤ、ラジアルタイヤの開発を担当する。全日本ロードレース選手権では引き続きヤマハ・TZ250での参戦であったが、全日本250ccクラスではダンロップタイヤユーザーが多勢を占めており、ミシュラン、ブリヂストン、ヨコハマは少数の新興勢力であった。1986年シーズンはホンダ・ヤマハ両メーカー共に250ccクラスへのワークスマシン(ホンダNSR・ヤマハYZR)を複数台投入しはじめる中[12]、和歌山は市販レーサーであるTZ250での参戦だったが、ヨコハマのGETTARラジアルタイヤを装着したTZ250でトップ10での入賞を重ね、年間ランキング7位を獲得した[13]。
1990年からは2輪ジャーナリストとしての活動が主となり[14]、1992年より衛星放送WOWOWが放映権を獲得した全日本ロードレース選手権中継の解説者として活躍。このほか、多くのオートバイ雑誌上で多様なメーカー・車種のスポーツバイク走行インプレッション記事、メカニズム解説記事を寄稿した。
同じくロードレース出身で引退後にジャーナリスト活動を開始した八代俊二は和歌山について、「日本を代表する2輪ジャーナリスト」とのリスペクトを記している[4]。