城光寺剛
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じょうこうじ つよし 城光寺 剛 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| 愛称 | ジョー・フラメンコ |
| 出身地 |
|
| 生年月日 | 1960年7月24日(65歳) |
| 血液型 | A型[1] |
| 最終学歴 | 早稲田大学教育学部社会科卒業 |
| 勤務局 | MBC南日本放送 |
| 部署 | 報道部 |
| 職歴 | 報道部→アナウンス部→東京支社業務部[注釈 1]→報道部 |
| 活動期間 | 1983年 - |
| ジャンル | 報道、情報、バラエティ |
| 配偶者 | 既婚 |
| 公式サイト | MBC南日本放送 |
| 担当番組・活動 | |
| 出演中 | 『ゆうぐれエクスプレス』 |
| 出演経歴 |
『MBCニューズナウ』 『5時からテレビ』 『ユアヒットパレード』 『城山スズメ』 |
城光寺 剛(じょうこうじ つよし、1960年〈昭和35年〉7月24日[1] - )は、MBC南日本放送のアナウンサー。鹿児島県鹿児島市出身[1]。
1991年(平成3年)度の第17回・アノンシスト賞では、テレビCM・テレビショッピング番組部門で優秀賞を受賞。報道ドキュメント『11人の墓標』では、民放祭テレビ報道部門で最優秀賞を受賞[1]。
両親により、力士の柏戸剛から剛と名付けられ、鹿児島市で生まれ育つ。高校3年のとき、自転車で帰宅しようとした際に後ろから来た友人から「そんなに喋るならアナウンサーになれば」と言われ、学習雑誌『大学受験 高3コース』に大学のアナウンス研究会の意義について写真付き記事が書かれていたことや、野球中継をよく聴いていたこともありアナウンサーを志望。
早稲田大学では教育実習期間中であった大学4年生の時、横山欣司に電話をして会ってもらいMBC南日本放送への入社を決意。1983年(昭和58年)、早稲田大学教育学部社会科を卒業[1][2]。
1983年(昭和58年)4月1日、MBC南日本放送に入社し報道部に配属され、入社から2年間は報道記者として勤務[1][3]。鹿児島県警察の記者クラブに所属し、ENGカメラ、スタジオカメラ、VTR編集などを扱う[1]。その4年後、当時としては異例であったアナウンサーへ移籍が内々で決まり、横山の下で働くことが決まる。黙っていなさいと言われたから半年近く黙っていたが、移籍前に実技試験が行なわるなどバレバレで社内では噂になっていたため、最近気になることを社内で聞れた際には「僕が異動するという噂」と答えていた。
『5時からテレビ[注釈 2]』では生放送で司会をしていたが、そのときのプロデューサーが城光寺剛という名前は長いからと「
ラジオでは『城山スズメ』のほか、薗山麗や植田美千代と組んだ『夜の城山スズメ』『ユアヒットパレード』『うまか情報局』などを担当[1]。ユアヒットパレードは横山の代役として担当し、後に正式な司会者として就任。1993年(平成5年)、全日本実業団対抗駅伝競走大会の中継所で実況を行った。
1995年(平成7年)9月26日から同年11月初めまで、国際ロータリークラブ2730地区[注釈 3]が行ったアメリカ・バージニア州7600地区へのグループ・スタディ・エクスチェンジ[注釈 4]に参加者5名の一員として選ばれ、リッチモンドなど4都市のクラブ員宅にホームステイしつつ、バージニアビーチ、ウィリアムズバーグ両市の市長を表敬訪問し、工場などを視察したほか、10月末に開催される7600地区の地区大会にも参加[4]。
1999年(平成11年)1月まで14年足らずの期間、アナウンサーとしての業務を行い、その最後の生放送が城山スズメであったが、番組で流したレコードを持って展望スタジオからラジオの部屋に帰った際、立った状態の同僚から拍手で迎えられ、もう二度とこんな業務はできないんだろうという想いもあり涙がポロポロとこぼれた。
報道部に異動し、2000年(平成12年)4月からはMBCニューズナウのキャスターを横山から引き継ぎ、月曜日から金曜日まで竹下志麻と4年半ほど務める。その後、報道記者に戻って東京支社へ転勤となり、業務部の次長として記者をしつつ経理のような仕事もやり、寮で生活する[5]。東京支社のときには、若島津が親方を務める千葉県習志野市の相撲部屋を訪れ、当時は女将であった高田みづえ[注釈 5]にラジオ番組用のインタビューをとったことがあった。
再び鹿児島へ転勤となった後は、鹿児島市政記者、鹿児島県政記者として活躍し、テレビやラジオでは選挙特別番組などの番組で選挙解説なども行うほか、MBCラジオ『ゆうぐれエクスプレス』のニュース解説コーナーでは解説を行う。
2021年(令和3年)3月で定年退職となり、同年4月からは嘱託での再雇用となる[3]。2021年(令和3年)11月に、MBCラジオスペシャルウィークで32年ぶりの歌唱を披露したことを期に[6]、念願だったアナウンサーへ復帰。MBCラジオではピンチヒッターも行う[7][8]。2022年(令和4年)3月27日には、20時からの50分枠でMBCラジオの特別番組『西郷輝彦さん追悼番組〜星は輝く』において司会を進行。
人物
性格は真面目だが、日常会話や番組での同僚との会話の中では、ちょくちょく駄洒落や昭和のオヤジギャグなど言葉遊びを挟み、MBCでの夜勤の際に廊下で先輩である釆野吉洋とすれ違う際には「お疲れ様です。今日は、なべやきんです[注釈 6]」というオヤジギャグを口にする程である。モットーは、意志あれば道は通じる。尊敬する人物は、西郷輝彦。
カレーライスが好きな子供だった。学生の頃は、カセットテープに学習内容を自分の声で吹き込み、入浴時に流して暗記していた。アナウンサーになっていなかったら、弁護士になりたかった。鹿児島は食べ物が美味しいところが特に気に入っている。料理はイタリア料理と中華料理が好きで、中華料理では特に青椒肉絲と麻婆豆腐が好きである。
好きな色は、緑。アイドルでは岡田奈々が好きで、かつては壁に等身大に近いポスターを貼っていた。特技は、踊って歌うこと。休日は、録画したテレビ番組を視聴することも多い。私生活でも、選挙に関心や興味がある。
国内国外問わず旅行が趣味で、何時十分に着き食事など計画を立て歩行ペースを計算し、その計画をMicrosoft Wordで打ち込み行動するが、計画通りいかないことも楽しんでいる。20代の頃は旅が好きで、暇があればプラっと出掛けていた[1]。
他の趣味は音楽鑑賞とスポーツ観戦で、特にプロ野球は大学時代は(関西にゆかりはないが)猛虎会に入会していたほど阪神タイガースのファンであり、その理由は強者を好きになるよりも、強者を倒してやりたいと考えるタイプだったため[1]。チューリップの楽曲が好きで、ベスト盤をカセットテープに複製し友人に聴きなさいと勧めていた程で、同窓会でもみんなでチューリップを歌う。
ある日、女性英会話講師から「あなたの名字はアルファベットにHを付けたほうがいい」と指摘されて以来、苗字を自分でアルファベット表記する際にはJohkohjiと記載している。大学4年のとき、家系図を所有している池袋に住む親戚に、城光寺という名字について訊ねたところ、鳥取県で寺院をやっていた坊主が江戸時代に武士の娘と恋仲になり、娘はやるから武士になれと言われ、お城入りしたことが由来で、源範頼が鳥取に落ち延びて城光寺というのを作ったという逸話を説明された。
仕事では、番組進行表のQシートに書き込み様々な色の蛍光ペンで線を引くようにしており、子供の頃から様々な色を使っていたこともあり文字を打ち込む際には黒以外の文字も使う。アナウンサーになりたての頃は、ニュース番組の冒頭で「こんばんわ城光寺剛です」と名乗っており、一般視聴者から「あなたは、こんばんわ城光寺剛です」と名乗る人ですねと声を掛けられていた。ゆうぐれエクスプレスでメールのテーマが3つなのは、これならば答えられるというテーマが1つでもあれば投稿しやすいだろうという考えで行っている。
ジョー・フラメンコ
ゴールデンタイムのテレビ番組『どーんと鹿児島』において、福地高子が司会だった1989年(平成元年)4月、MBCアナウンサーの采野吉洋が担当し夢は何かを聞く内容のコーナー「夢一夜」の第2回で、城光寺が「夢は歌って踊れるエンターテイナー」と語ったところ実現しようということになり、ジョー・フラメンコとして歌手デビューが決定[11][12]。ジョーとしての活動には、どーんと鹿児島のカメラが密着。
MBCラジオの番組『歌謡指南道場』の指南役であり、高田みづえを指導したこともある坂元政則が経営する坂元政則音楽教室へ通って歌い方を習ったり、その合間に坂元が作曲中の楽譜に城光寺が注文を付けたりしつつも、デビュー決定から約2か月後に作曲を坂元、作詞を当時の『どーんと鹿児島』番組ディレクターである山崎兼敏[注釈 7]、編曲を岩元寛[注釈 8]が行ったデビュー曲「鹿児島がオレに惚れてるぜ[注釈 9]」が完成[12][13]。
その4日後には振り付けが完成。大阪有線鹿児島放送所へ、有線音楽放送で自身の曲を流してもらおうと、カセットテープ持参で訪問し売り込むも「レコードならOKなんですが…」と返答される。
MBCタレントの遠山明男[注釈 10]がジョー・フラメンコの専属司会者を担当。城光寺がラジオパーソナリティの1人であるラジオ番組『うまか情報局』では、城光寺と組んで番組進行を行っていたパーソナリティの山下美智代が西城秀樹のファンであったことから、山下の発案で西城秀樹の弟・妹コンテストを真似た企画「ジョーの弟・妹コンテスト」を番組イベントとして実施。選ばれた弟や妹たちはMBC南日本放送本社の7階ホールにおいて、歌うジョーの後ろでジョーに似た衣装を着て西城秀樹のような振り付けの派手なダンスを踊った。
同年6月、鹿児島市で行われた約1万人の来場者で賑わうイベントのウォーターフロントフェスティバルにおいて、MBCラジオの番組『チェストいけ!ヤング』が中継を行い、ジョーは「ウォーターフロントフェスティバル1万人ファーストライブ」と称し舞台上で「鹿児島がオレに惚れてるぜ」を披露[注釈 11]。夏には照国神社の六月灯[14]、桜島納涼観光船でも歌を披露。
池田学園では「池田学園夏祭り」のゲストとして在校生に呼びたい有名人のアンケートを実施した際、3位がプリンセス プリンセス、2位がジョー・フラメンコ、1位がTM NETWORKという結果だったため、教師の池田由實[注釈 12]が「この人は誰?鹿児島のアナウンサー?じゃあ呼ぼう」と興味を示し、うまか情報局に応募した結果、ジョーの池田学園夏祭りへの出演も実現し、どーんと鹿児島でも密着取材した内容が放送された。池田学園夏祭りに来ていた小学5年生だった豊平有香も、なんだあの面白い人はとジョーを初めて目にして憧れ、アナウンサーを志望する動機となりB'zと城光寺のファンだと公言するようになった程であり、MBCに入社した直後に豊平は、たまたま城光寺と一緒に働く機会に恵まれ感激している[15]。
同年9月15日[注釈 13]にはレコードを発売し、当日に発売会をMBC本社玄関前の階段で行う。レコードには、うまか情報局を題材にムーヤン荒田が作詞した替え歌「鹿児島がオレに惚れてるぜ~うまかヴァージョン~」と、カラオケ音源を含めた3通りが収録され、レコードの初回特典にはジョー・フラメンコの生写真、振り付けの分解写真が付いた。その際にジョーは、ファンから手作りのジョー人形や歌詞が書かれた焼き物の皿を手渡される人気でレコードはそこそこ売れた。当時の鹿児島県の有線では3か月間に一度でもリクエストし続ければ曲が流し続けてもらえたはずが、飲み会に行く回数が減りリクエストし忘れたことで、後に有線では流れなくなった。
2023年(令和5年)2月19日放送『地方創生プログラム ONE-J』に城光寺が電話出演した際には、鹿児島がオレに惚れてるぜを一節歌った[16][17]。
定年退社後、ジョー・フラメンコとしては2021年(令和3年)の、MBCラジオスペシャルウィーク[6]や2024年(令和6年)『てゲどん感謝の日!3時間SP~てゲてゲ500回&どんかご40周年~[18]』など事あるごとに出演。城光寺が報道記者からアナウンサーへ復帰した2022年(令和4年)4月後は、城光寺が出演するラジオ番組には、鹿児島がオレに惚れてるぜがリクエストされることも少なくない。
余ったレコードは、城光寺剛の結婚披露宴における二次会で配るなど城光寺が事あるごとに配ったが、残りはMBC本社の倉庫に眠っているため2025年(令和7年)時点では、てゲてゲハイスクールフェスティバルなどのイベントやMBCラジオスペシャルウィークにおけるMBC本社などの会場で販売されている。