大成火災海上保険

From Wikipedia, the free encyclopedia

古河グループ > 古河機械金属 > 大成火災海上保険
廃止 2002年12月1日[要出典]
大成火災海上保険株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
102-0073
東京都千代田区九段北4丁目2番1号[1][注釈 1]
設立 1920年1月10日[3]
廃止 2002年12月1日[要出典]
業種 保険業
事業内容 損害保険
代表者 小澤一郎[1][4]
下河辺和彦(保全管理人・弁護士[1][4]
資本金 100億円[1]
売上高 約887億9,200万円(2001年3月期)[1]
従業員数 1,571名[1]
主要株主 古河機械金属
関係する人物 益子逞輔(創業者)[3]
李景盛(初代社長)[3]
小松任(破綻時の代表取締役会長)
外部リンク http://www.taiseikasai.co.jp/[リンク切れ]
特記事項:2001年11月22日付で東京地方裁判所更生特例法適用申請[1][5]。上記の企業データは同日時点[1]
テンプレートを表示

大成火災海上保険株式会社(たいせいかさいかいじょうほけん)は、かつて東京都千代田区本社を置いていた日本損害保険会社[1]東証一部上場企業[1]損害保険ジャパンSOMPOホールディングス)の前身会社の1つ。

古河機械金属系列の中堅損害保険会社であった[1]1920年大正9年)1月に創業[1]第二次世界大戦前までは日本統治時代の台湾企業であった[3]。戦後の1950年昭和25年)6月に法人改組した[1]

2001年平成13年)9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響を受け[5]した[6]、同年11月22日付で東京地方裁判所更生特例法の適用を申請[1][5]、同日付で保全命令を受けた[1]

古河鉱業(現:古河機械金属、古河財閥)系列の損害保険会社として、古河グループ(古河三水会)に属していた。

事業内容は、自動車保険(47.2%)、火災保険(25.23%)、傷害保険(11.26%)、自動車損害賠償責任保険(8.32%)、海上保険(0.65%)、その他(7.52%)であった(保険別扱い比率は経営破綻時の2001年11月22日時点)[1]

1988年昭和63年)9月には東証一部上場[1]、ピーク時の1997年平成9年)3月期の年収入高は約1,012億3,400万円を計上したが[1]景気低迷規制緩和、同業他社との過当競争などにより、2000年(平成12年)3月期の年収入高は約915億7,100万円(対前年比2.5%減)[1]、翌2001年(平成12年)3月期の年収入高は約887億9,200万円へ低下[1]した。

そのため当社は、業務効率化・合理化による生産性と収益性の向上を目的に[1]、2000年(平成11年)11月より[6][7]安田火災海上保険(以下「安田」)および日産火災海上保険(以下「日産」)との合併に向けて協議を開始[6]、損保業界国内1位の東京海上火災保険への対抗を目指すとした[7]。3社は、翌2001年(平成13年)4月25日付で合併契約を締結[6]2002年(平成14年)4月1日を期日として合併し[1]株式会社損害保険ジャパンとなるべく準備を進めてきた[1]

しかし、2001年平成13年)9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に伴う保険金支払いにより、約744億円という巨額の再保険金支払い負担が生じたことから[1][6]、約398億円の債務超過に転落して経営破綻[1]、同年11月22日付で東京地方裁判所更正特例法適用を申請[1]、同日付で保全命令を受けた[1]。負債総額は4,131億円[1]

戦後日本の損害保険会社の経営破綻は、2000年5月に金融監督庁(現・金融庁)から業務停止命令を受けた第一火災海上保険があるが[1]倒産法に基づくものは初となる[1]。また生命保険会社を含めれば、更生特例法の申請は、東京生命保険(本社:東京都、2001年3月、負債9,802億円)に続いて4社目となる[1]

当社の経営破綻を受け、安田・日産・大成の3社合併予定を、安田・日産の2社合併へ変更し[5]、当社は経営再建中の2002年(平成14年)10月1日付で国内部門(大成火災海上保険)と再保険部門(大成再保険株式会社[6])を会社分割[4]。その上で後から合流する形を取り[5][8]、安田火災海上保険が日産火災海上保険を吸収合併して損害保険ジャパン(損保ジャパン)となってから、大成火災海上保険の資産を損保ジャパンへ移転した[5]

2002年(平成14年)12月1日付で、安田火災海上保険日産火災海上保険合併した損害保険ジャパン吸収合併された。[要出典]

当社の会社更生手続の過程で、会社分割により設立された再保険部門・大成再保険株式会社は、2011年(平成23年)10月14日付で清算結了[6]した。

台湾での創業と終戦後

1920年(大正9年)1月10日日本統治時代の台湾台北)にて大成火災海上保険株式会社として設立[3]。創業時には台湾でのみ営業していたが[3]1922年(大正11年)5月に日本本土での営業を開始[3]。その翌年、1923年(大正12年)9月1日関東大震災が発生し、大規模な地震火災被害が生じた[3]約款上、火災保険では地震火災への保険金が支払えないため、日本政府からの融資により見舞金が支払われることとなり[3]、契約数の多い同業他社はこれに手間取ったが、当社は日本本土への進出直後で契約が少なかったため早期に見舞金の支払いができ、好評を博して東京下町へ進出[3]。これを足がかりに、震災後には日本本土の全国各地に支店・出張所を拡大していった[3]

第二次世界大戦中は、損害保険業界でも戦時統合がなされ、損害保険会社を統合して1941年(昭和16年)7月21日付で日本損害保険協会が設立、台湾でも同年12月30日付で台湾損害保険協会が設立(当時の大成火災海上保険取締役が会長就任)された[3]日本政府(大蔵省)は当社を他社へ合併させたい考えがあったが、当社が台湾と日本で事業を行っていたため、台湾総督府は統治政策的に合併を望まず当社の単独経営を大蔵省へ陳情し許可を得たことから、当社は戦時中にも他社と合併せず独立して存続した[3]。このため当社は、台湾における損害保険の中核的地位を強めるに至った[3]

1945年(昭和20年)8月15日日本の降伏により、台湾は日本領ではなくなったことから、翌1946年に当社の台湾における資産と業務は事実上接収され、その後は日本国内での事業のみを行うこととなった[3]

経営破綻と「再保険」

当社が経営破綻に至った経緯は、上述のとおり、2001年平成13年)9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に伴う保険金支払いにより、約744億円という巨額の再保険金支払い負担が生じたためである[1][6]

保険会社同士で保険を掛け合う「再保険取引」とは、顧客から預かった保険料の一部を他の保険会社に回し、保険金の支払いリスクを肩代わりしてもらう制度である。再保険を引き受けた保険会社が、さらに別の会社に保険料を回していくこと(再々保険)で、多くの会社間で支払いリスクを分散させる複雑な仕組みである。

1972年10月より[6]、当社および日産火災海上保険、千代田火災海上保険(現:あいおいニッセイ同和損害保険)の3社は、再保険取引を専門に手がけるアメリカの保険代理店であるフォートレス・リーと組み、他の損害保険会社から保険リスクを引き受ける再保険事業を共同実施[6]してきた。

3社が再保険事業を始めた1970年代には、引き受けリスクをきちんと再々保険に出し、安定的な取引をしていたというが、1980年代以降は様相が変わり始めた。世界各地で大規模な自然災害が頻発したことで再保険市場の保険料が高騰し、他社から引き受けたリスクを再々保険に回すことが難しくなった。

そこで3社がフォートレス・リーとともに考え出したのが、再々保険料を極端に割安にしてもらう代わりに、万一事故が起きたときにはその損失を3社が負担する仕組みであった。リスクを外に転嫁するのではなく、自分で丸ごと被ることにしたわけである。この時点で、保険リスクを複数の保険会社で分散するという再保険の機能は失われた。

ただ、そのままでは大きな事故が起きた場合、3社は保険金を支払いきれなくなるおそれがある。3社はそのため、保険金支払いを5年間にわたって分割できる再々保険を出す保険会社と組んだ。万一事故が起きても支払い負担を5年に分散すれば問題ないと考えたためである。つまり、3社が考案した仕組みは、リスクを外に出すのではなく自分で抱えた上で、支払い負担を複数年度に分けることで、事故を乗り切ろうという狙いがあった。

この方法は、3社にとって支払う保険料が大幅に安くなる一方で、他の保険会社から受け取る再保険料は変わらないため、その利ザヤが大幅に広がって高利回りな取引になる。しかし、事故が起きれば保険金支払い負担は丸ごと3社が被ることになる。その落とし穴がアメリカ同時多発テロ事件という史上最悪の事故で一気に露呈し、巨額の保険金が支払いきれなくなったことから、当社は経営破綻という結末に至った。

古河機械金属への影響

当社の経営破綻により、筆頭株主であった古河機械金属も大きな打撃を受けた。当社が更生特例法の適用を申請した2001年(平成13年)11月22日、古河機械金属の株価は暴落、終値は前日比20円安(14%下落)の123円となった。また、古河電気工業富士電機など、古河グループ各社の株価も軒並み下落した。大成火災海上保険の株式について、古河機械金属は18.2%を保有、古河不動産は2.4%を保有(両社あわせて計20.6%)していた。さらにに、大成火災と合併予定だった安田火災海上保険(74円安の744円)、日産火災海上保険(69円安の492円)も株価を大きく下げることとなった。

また、経営破綻時の大成火災海上保険の代表取締役会長は、古河機械金属出身の小松任(こまつ あつし)であった。小松会長は1931年(昭和6年)東京生まれ、1953年(昭和28年)早稲田大学法学部を卒業し古河鉱業(現・古河機械金属)に入社。取締役機械本部長・プラント部長、産機本部長・機械部長、常務取締役ユニック本部長、古河ユニック社長、専務取締役事業開発本部長などを経て、1996年(平成8年)に大成火災海上保険へ移り代表取締役会長。損害保険会社の代表権を持つ会長に就任するまで、保険業に携わった経験は皆無と思われる。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI