大竹宏

日本の俳優、男性声優 (1932−2022) From Wikipedia, the free encyclopedia

大竹 宏(おおたけ ひろし、1932年3月14日[5][1][12][13] - 2022年8月1日[14])は、日本俳優声優。最終所属は81プロデュース[8]神奈川県川崎市幸区出身[4][注 1]東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田)育ち[5]

本名 大竹 宏[1][2]
愛称 タケサン[3]
性別 男性
概要 おおたけ ひろし大竹 宏, プロフィール ...
おおたけ ひろし
大竹 宏
プロフィール
本名 大竹 宏[1][2]
愛称 タケサン[3]
性別 男性
出身地 日本の旗 日本神奈川県川崎市幸区[4]東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田[5]
死没地 日本の旗 日本東京都[6]
生年月日 (1932-03-14) 1932年3月14日
没年月日 (2022-08-01) 2022年8月1日(90歳没)
血液型 B型[7]
職業 俳優声優
事務所 81プロデュース[8]
配偶者 あり[9]
公式サイト 大竹宏 Official
公称サイズ(時期不明)[10]
身長 / 体重 160 cm / 52 kg
声優活動
活動期間 1956年 - 1991年[11]
1995年 - 2022年
ジャンル アニメゲーム吹き替えナレーション
俳優活動
ジャンル 舞台
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経歴

生い立ち

姉とその下の3人の兄に続く5人きょうだいの末っ子として神奈川県川崎市幸区で誕生[4]。6歳の時に両親が離婚して以来、上の兄と共に父方に引き上げられて静岡県熱海市に転居[4]。同時に大竹の長兄(長男)と次兄(次男)は夭逝している[4]。物心ちてまもなく突然と去っていった母についての記憶は極めて乏しかった[4]。その時は背負われて買い物に出かけた帰り道の川崎駅の地下道で、立ち話をやめなかった母に大竹は「早く帰ろうよ」と言っていたこと、駅近くの不思議な暗い部屋に連れて行ってもらったこと、遠くの巨大なモノクロ画面の中のテンプルちゃんチャップリンを見ていたぐらいしか浮かんでこなかった[4]。姉についても同じだが、姉の膝で渡辺はま子が唄っていた当時の流行歌を聞いていた[4]。父については兄以上に末っ子の大竹を可愛がっていたが、その父は性格的に極めてわがままであり、批判的な眼で見ることも少なくなかった[4]。ある日、大竹を一目見たかった姉は1人で熱海市の家を訪れたこともあった[4]。しかし、父は姉が家に入ろうとするのを強く拒み、その時の姉は「宏、ひろしーっ!」と泣き叫びながら会おうとしていた[4]。大竹も泣いて必死に姉を求めるも結局、姉は家に一歩も入ることができず、逃げ帰った[4]。この体験が、当時の大竹の決定的な心の傷として残り、その日を境として「もう父の前で姉や母の話は決してするまい、何も聞かない何も知らない」という固い決意をしていた[4]

小学時代に戦時中の父の逆疎開の断行により、東京府芝区(現:東京都港区三田)を経て、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田に一家そろって移住[4][5]。以来、ここで育ったため、「俺は江戸っ子」だと自認していた[5]

小さい頃は小柄だったものの、相撲に強くメンコに夢中になっていた[4]。その一方で幼い頃から色々な書物に読みふけったこともあり本を好み、それを人前で読み聞かせることも得意であった[4]。当時読んでいた本で最も印象強かったのは、久米元一の『アラビアンナイト[4]。大竹の本好きのきっかけを作ったのは父で、その父は趣味で謡曲をこよなく愛し、芸能への理解もとりわけ深く、本への理解もあった[4]。父は『幼年倶楽部』に始まる成長とともにあった幾多の雑誌を買っていたという[4]

戦時中の東京都台東区浅草で行われていた商業演劇で初めて大竹がかつて物語で読んでいた『鞍馬天狗』の劇や水の江滝子の「たんぽぽ劇団」が公演していた生の演劇などの戦意高揚劇にも触れて、その時に「演劇っていいなぁ……」と思うようになった[4]。終戦後に一番に心にとらえたのは当時目新しかった外国映画であり、特に日本劇場で公開された映画『鉄腕ターザン』については夢中になっていたという[4]

明治大学付属明治高等学校時代は生来から手先が器用であり、絵画の才能も抜群であり、中学高校時代は美術部に所属していた[5][15]。同時に映画を通じて興味を持つようになった演劇の世界に触れてみたいという気持ちがあったことや人前で落語をしたり、喋ることも好きだったこともあり、演劇部にも所属して高校時代には部長を務めた[5][15][16]。当時は榎本健一に憧れていた[15]。中学時代の演劇部で最初に与えられた劇は、菊池寛の戯曲『父帰る[15]。この戯曲の設定や展開は、自らの育ってきた境遇と微妙に重なっていた[15]。しかし、その時はめげず、その衝撃を芝居への意欲に転化しており、大竹にとっては読者から演技者への飛躍となった[15]。その時は母親役や長男役といった中学生の演じるにはとても荷の重いものばかりの役柄も演じており、それでファイトを掻き立てるエネルギーとなり、芝居の面白さに魅せられていった[15]。高校時代の演劇部では体育館下の空きスペースを利用して大道具の資材で演劇部の部室を新設[15]。当時は自ら脚本を書き、演出をして、舞台に立っていた[15]。必要な小道具や以前は大学生の世話になっていた背景など大道具の製作も大竹たちで行い、大道具作りに熱中していた[15]。大竹が絵の具を塗っていた背後には、時折美術の教師がいたが、その教師はじっと腕組をしてわずかに頷きながら大竹の動きを見ていた[15]。しばらくして教師の「答」が返ってきており、大竹の学期末の美術の評価は、出席日数が足らなくともすべての項目において最高点であった[15]。手製の大道具や小道具を駆使して演劇部では中学時代とは比べものにならないくらいの幅広いジャンル劇に取り組んでいた[15]。中でも白眉は大竹が主役を演じていた栗原一登原作の『炎』の上演で、その舞台を見ていた教師たちもその完成度の高さと大竹の演技に驚き、それ以来「演劇部の大竹・明治のチャップリン」と一目置かれるようになった[15]。高校2年から3年生まで演劇部の部室に入り浸り、勉強はほとんどしていなかったが、美術も得意だった[16]。体育祭の入場門も手作りしており、自作、自演、自演出、舞台装置まで手掛けて公演していた記録を持っている[5][16]。次への進路を考える時期に演劇に携わろうとしていたが、それだけで生活するだけの収入を得ることが困難だったこともあり、上級学校に進学することも言えなかった[15]。一緒に心配していた父に勧められて、再び美術への道を選ぼうと、多摩美術大学を受験して合格[15]。しかし、家には入学金を支払えるだけの余裕がなく、同美術大学の受験を勧めた父も大竹にこの期に及んでは謝っており、大竹の卒業まであとわずかな時期に進路は一気に白紙に戻ってしまった[15]1951年、同高校卒業後、父の知り合いの関係で紹介された東京都台東区浅草の装飾専門店に就職[15][16]アルバイトをしながら東京都新宿区四谷にあった東京広告美術学校[注 2]へ通って商業美術の世界を目指していた[15][5]

キャリア

数か月後、演劇への情熱やみ難しく役者の道へと進む[16][17]児童劇団・合唱団ちどり會を経て内田研吉の劇団ちどりに入る[18]。当時は内田が、メガネの奥の目を光らせて、「ずっと演劇の道を歩みたいんなら、のめり込めよ」と言っていた[16]。この頃より友人の紹介で児童劇団ちどりの公演を手伝うようなったという[5]。劇団では、前述の経験が役に立って、内田から舞台監督に任命されていた[16]。当初は大道具係であったが、内田に才能を認められて内田のアシスタントやカバン持ちを務め、内田が出演していたNHKに出入りするようになり、大竹が二十歳の頃にはNHKのラジオドラマに出演するようになった[16][18]。その頃、装飾専門店務めを辞めた[16]。内田没後の1952年(昭和27年)頃には劇団ちどりを主宰した[13][16][19]1955年(昭和30年)からはこけし座に移り、舞台俳優を務めるとともに子供の演技指導も行っている[5][18][19]。こけし座に移籍後の舞台初仕事はジャンニ・ロダーリ作の『チポリーノの冒険』[18]

テレビでは草創期から活動[20][21]。初めて放送に出演したのは1953年(昭和28年)のNHKの公開ラジオ番組『犯人は誰だ』の「金太郎物語」のクマ役となる[5][8]。NHKテレビの人形劇『アシンと十三人の盗賊』(1955年)や『ガンツ君』(1956年)において声優を務め[8]、これらの演技が評価されて1956年(昭和31年)に人形劇『チロリン村とくるみの木』の声優の一員に選ばれた[5][7][9]。同作ではタコチュー役を8年間に亘って務めた[13]。同じ頃に大竹の兄は大竹の姉の住所を調査しており、その兄を通して母と嫁いでいたその姉が川崎市内に住んでいたことを知り、それで母と姉に再会を果たしている[9]。1963年にはマスコミの仕事が増加して2月以降はトヨタテイジン大正製薬といった大手企業のコマーシャルの声も担当[9]1966年(昭和41年)からはフジテレビの子供向け番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』に声優として出演、放送開始2年後にマスコットキャラクターを登場させることになり、河童のカータンの着ぐるみが作成された。歌って踊れて絵がうまく、また子供と遊ぶのが好きなことから大竹に白羽の矢が立ち、カータンの声だけでなく着ぐるみの操演も担当した[21][22]。その時はプロデューサーが「お前が入れ」と言い出し、その頃、着ぐるみの操演を担当する人物は、体育学校の人物などダンサーのアルバイトのような感じだったことから、一度は断っていた[7]。しかし「セリフがしゃべれる、歌が歌える、踊りがおどれる、絵も描けるだろ」とおだてられ、ギャラにもつけられたという[7]。『ママとあそぼう!ピンポンパン』には16年間に亘って出演した[13]。しかし当初は着ぐるみの操演を担当した時に「ああ、これはいけないもんに入っちゃった」と思い、汗でずぶずぶになり、息苦しく、「明日辞めよう明日辞めよう」と思いつづけて十何年という感じだったという[7]。声優の世界に戻れば、周囲もたててくれたが、着ぐるみの操演を担当していた時は、裏方と同じように見られてしまうようなところがあり、そういうジレンマをいつもかかえていたといい、思いすごしだったかもしれないという[7]。それで、本当に「辞めよう」と思ったこともあったが、その時に、『ママとあそぼう!ピンポンパン』のプロデューサーだった横澤彪から「9年でやめたら、他人は評価しないよ。10年やったといえば重みが違うよ」と言ってくれて、思い止まったりしていた[7]。結局、ある時に、プロデューサーが代わったのを機会に、また「辞めたい」と伝えていたところ、あっさり「いいですよ」と言われてしまい、「ほんとうに辞めてやる」と心を決めたという[7]。その人物も冷たかったわけではなく、『ママとあそぼう!ピンポンパン』の放送終了が、その時すでにわかっていたようだったという[7]

『ママとあそぼう!ピンポンパン』の毎日のレギュラーを務めるかたわら、数多くのアニメ作品にも出演しており、アニメでのデビューは1963年、『狼少年ケン』のブラック役となる[5][23]

劇団東少[12]東京俳優生活協同組合[13]青二プロダクション(創立メンバー)[13][23]オフィス薫[13]ぷろだくしょん★A組に所属していた。また、晩年には後進の育成にも力を注ぎ銀プロダクション養成所、CHK声優センターなどで講師も務めている[6][12]

一時休業・復帰

1991年1月、一時休業のために『キテレツ大百科』のブタゴリラ役と『魔法使いサリー』の花村利夫役を途中降板した。後任にブタゴリラ役は龍田直樹[11]、花村利夫役は石森達幸に引き継がれた。当時、大竹は個人的な事情により活動を中断しており、その期間中は朗読やワンマンショーなどの舞台活動に専念していた[7]。その後、1995年に『超力戦隊オーレンジャー』のバラクローズ役で声優活動を再開している。

1996年には『激走戦隊カーレンジャー』のガイナモ役で久しぶりにテレビ番組のレギュラーとして出演していた[24]

晩年・死去

2015年1月から、81プロデュースに所属している[25]。同年に、東京アニメアワード2015功労部門(第11回)[26]、第9回声優アワードにおいて多年に亘る貢献を表彰する「功労賞」を白石冬美と伴に受賞した[27][28]

晩年は持病はなく元気な様子だったが、2022年8月1日、急性心不全のため東京都で死去した。90歳没[6][14][29]

人物

演劇仲間に劇団東少の代表の相羽源次郎がいる[18]。1963年に以前、教員を務める傍ら劇団の公演用パンフレットや宣伝ポスターを手掛けていたあるスタッフを訪ねており、そのスタッフは相羽共々勤務先だった小学校に赴いていたこともあった[9]。偶然にもそこで当時ソニーの秘書課に勤務していた女性に出会っており、その後は2人だけで会うようになった[9]。出会いからほぼ1年後にはその女性と結婚している[9]。2人の息子がおり、そのうちの二男は幼稚園児だった年に偶々同じ園に通っていた友人とともに『ママとあそぼう!ピンポンパン』にも出演していた経験もある[22]。高校時代の長男は大竹に「僕が大学生になったら、代わりにぬいぐるみに入ってやるから、お父さんはカータンの声だけをやりなよ」と言っていたこともあったという[22]

特色

声種は「明るく賑やかな特異なテノール[3][30]」。

三枚目的な役柄を得意としており、『ひみつのアッコちゃん(第1作)』の大将役以降はガキ大将的なキャラクターを演じていた[24][31]。また感情豊かな動物役でも知られており[31]、「動物をやらせるなら大竹宏」、「動物をやらせたら彼の右に出る者はいない」との定評を得ていた[5]。動物役を演じることを少しも嫌がっておらず、ノミ、ゴキブリ役であろうとも、常に真剣に取り組み、自分のものにしていた[5]。しかし時には不快な思いもすることもあり、の「鳴き声だけをやってくれ」と言われた時などであった[5]。これまで怪獣からゴキブリまで数多く演じていたが、決して動物の声のモノマネ屋ではないことから「ドラマに登場してくる動物のキャラクターを演じる心は十分に持ち合わせているが、効果音として動物の声を出せといわれても、それに応じることはできない」と言っていた[5]。動物役では、持ち前のカン高い声を使っていたが、人間役では野太い声を出して演技をしていた[5]

マジンガーZ』で演じたボスの登場時のセリフ「ジャンジャジャーン!」は大竹のアドリブとされる[6][32]。大竹は以後のロボットアニメでボスに似たキャラが登場したことについては、「ほとんどが類似品で、自分の演じたボスがより適役だったと自負しています。愛着を持って演じていましたから……」と語っている[33]

Dr.スランプ アラレちゃん』でニコチャン大王を演じる際、愛知県出身である杉山佳寿子から名古屋弁の指導を受けてアフレコに臨んだ[34]

スーパーロボット大戦シリーズ」における収録の際、大竹は自分の持ち役である『マジンガーZ』のボスの台詞を見て、「台詞がボスくさくない」という理由から、骨子はそのままに自分でワープロで打ちなおして持参した。その後、スタッフ側から増やした台詞の修正を依頼され、「ここまでしてくれる方は他にはいない」と絶賛された[7]

『激走戦隊カーレンジャー』に大竹が起用されたのは東映のプロデューサーだった髙寺成紀の意向があったようだった[24]。ガイナモは悪の暗部だったが、『マジンガーZ』で演じていたボスのイメージが重なっていたようで劇中でも「ボス」と呼ばれているあたりが、プロデューサーの狙いだったようだったと『カータンのなみだ』の著書の山口真一が語る[24]

第9回声優アワードで功労賞を受賞した際には、100歳まで現役生活を送ることを宣言していたが、果たせなかった[6][35]

趣味・嗜好

趣味・特技はスポーツ全般[36]イラスト指笛ハーモニカ[8]

後任

大竹の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

さらに見る 後任, 役名 ...
後任役名概要作品後任の初担当作品
間宮康弘サトシのオコリザルポケットモンスターシリーズポケットモンスター(2019)
関智一パーマン2号(ブービー)パーマンFシアター「ゆめの町 ノビランド」
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出演

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ

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2016年

劇場アニメ

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2007年
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OVA

Webアニメ

ゲーム

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1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
  • 天外魔境 ZIRIA〜遥かなるジパング〜(小角)
2008年
2009年
2010年
2012年
2021年

吹き替え

映画

ドラマ

テレビ番組

アニメ

人形劇

特撮

人形劇

CD

  • ゲゲゲの鬼太郎 テーマ曲集「燃えろ!鬼太郎」、「闇夜に気をつけろ」
  • ドラマCDぱにぽにだっしゅ! Vol.1 - Vol.3、セカンドシーズン Vol.2(ジジイ)

CM

その他コンテンツ

関連書籍

  • 『カータンのなみだ - 声優伝・大竹宏』 (山口真一・著、新風舎、1999年) ISBN 4-7974-0846-4

脚注

外部リンク

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