大迫尚敏

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渾名 薩摩の乃木大将
死没 (1927-09-20) 1927年9月20日(82歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府豊多摩郡中野町大字大塚(現:東京都中野区
所属組織  大日本帝国陸軍
大迫おおさこ 尚敏なおとし
渾名 薩摩の乃木大将
生誕 1844年12月24日
天保15年11月15日
江戸幕府薩摩国鹿児島郡冷水通町(現:鹿児島県鹿児島市冷水町
死没 (1927-09-20) 1927年9月20日(82歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府豊多摩郡中野町大字大塚(現:東京都中野区
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1907年
最終階級 陸軍大将
勲章 勲一等旭日桐花大綬章
功二級金鵄勲章
除隊後 学習院院長
墓所 興国寺墓地(鹿児島市)
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大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]1844年12月24日天保15年11月15日〉- 1927年昭和2年〉9月20日)は、明治大正期の日本の陸軍軍人[1]学習院長第7師団長等を務める。栄典陸軍大将正二位勲一等功二級子爵

薩摩国鹿児島郡薩摩藩冷水通町(現:鹿児島市冷水町)で[2]薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。

戊辰戦争従軍の後、1871年(明治4年)3月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉中尉と進み1873年(明治6年)、陸軍省八等出仕、1874年(明治7年)には陸軍大尉を命ぜられる。

1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、熊本城籠城戦に参加。2月27日、草場学校制圧の指揮を取り、顔面を負傷[3]

少将時代の大迫尚敏

戦中の同年4月に陸軍少佐熊本鎮台参謀に進む。1883年(明治16年)6月、陸軍中佐歩兵第6連隊長、1885年(明治18年)5月、近衛歩兵第1連隊長、1887年(明治20年)には陸軍大佐に進級し、1890年(明治23年)10月、第4師団参謀長、翌年の参謀本部第1局長を経て、1892年(明治25年)9月、陸軍少将に進み歩兵第5旅団長に就任する。

この時、日清戦争が起こり出征する。その功により1895年(明治28年)8月、男爵の爵位を授かり華族に列せられ、功三級金鵄勲章を賜る。その後、職は参謀本部次長、階級は陸軍中将に進み1900年(明治33年)4月、永山武四郎中将の後任として第7師団長に就任する。第7師団の母体は北海道開拓と防衛を目的とした屯田兵で、師団改編から4年しか経っていなかった。

1904年(明治37年)2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、8月に第7師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し1906年(明治39年)3月に帰国する。この時の功により同年4月、功二級金鵄勲章を賜り、5月に陸軍大将に進む。

1907年(明治40年)9月、子爵に陞爵し、同年11月13日、予備役に編入となる[4]1909年(明治42年)4月1日に後備役となる[5]。大正3年(1914年)4月1日に退役した[6]

1912年大正元年)11月から殉死した乃木希典大将の後任として学習院院長に就任し、1917年(大正6年)8月まで務める。1927年(昭和2年)9月20日、薨去。享年84。同日付勲一等旭日桐花大綬章受章。

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1885年(明治18年)11月19日 勲三等旭日中綬章[17]
1889年(明治22年)11月29日 大日本帝国憲法発布記念章[18]
1895年(明治28年)5月23日 勲二等瑞宝章[19]
1895年(明治28年)8月20日 功三級金鵄勲章[15]
1895年(明治28年)8月20日 旭日重光章[15]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[20]
1903年(明治36年)5月16日 勲一等瑞宝章[21]
1906年(明治39年)4月1日 功二級金鵄勲章[22]
1906年(明治39年)4月1日 旭日大綬章[22]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[22]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[23]
1913年(大正2年)9月26日 御紋付御杯[24]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章[25]
1919年(大正8年)5月7日 金杯一個[26]
1923年(大正12年)1月10日 御紋付銀杯[27]
1927年(昭和2年)9月20日 旭日桐花大綬章[14]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1886年(明治19年)9月24日 ドイツの旗 ドイツ帝国 赤鷲第三等勲章英語版[28]
1899年(明治32年)7月4日 清 大清帝国 第二等第一双竜宝星中国語版[29]

人物

古武士的な風貌に加え、和歌や漢詩に長じ、息子を旅順戦で亡くしたり、乃木の後任として学習院長を務めるなどの経歴から「薩摩の乃木大将」の異名を持つ。

親族

脚注

参考文献

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