大門大橋
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沿革
1609年(慶長14年)の高岡城築城により北陸道が高岡と富山城下を結ぶルートに改められたのを機に、1646年(正保)3年に現在の大門大橋より下流地点に初めて庄川に橋が架けられた[6]。この時の庄川には渡船と橋を併用したルートが整備され、『大門大橋』と名乗った。右岸側では架橋を機に大門の町並みが発展した[5]。1668年(寛文8年)の大洪水の後、大門大橋は西は乗り継ぎ舟越しとなった[7]。
1848年には全川架橋の本格的な木橋『大門橋』が5か月かけて架橋された。長さ150m、幅員が狭いため駒除け(待避所)が2箇所設けられていて、当時の越中国では愛本橋に次ぐ古い橋であった[1][7]。
その後洪水による流失の度に度々架け替えられていたが[5]、1888年(明治21年)12月[8]、長さ82間の木橋が架設され[5](これにより総延長は243間となった、なお、幅員は3.33間であった[8])、庄川の別名、雄神川にちなんで『雄神橋(おがみはし)[注釈 1]』と改称された。1907年(明治40年)2月の庄川の河道改修工事に伴い、長さ243間、幅20尺の木橋に架け替えられた[5][10]。
長い間国道の橋として使用されてきたが、1937年(昭和12年)に高岡大橋が開通したのを機に国道の橋の指定から外れ、1938年(昭和13年)に長さ441.3 m(244間)、幅3.8 m(2間3尺)の木桁橋に架け替えられた[5][11]が、国道から外れたため先代より幅員が狭くなった[12]。1952年(昭和27年)には戦後の新しい工法による一大補修工事が行われ[12]、同時に旧称にならい、現在の『大門大橋』に改められた[1]。この橋は土橋であったため、排水が悪く、結果的に腐朽、損傷を早めることになった。その後、町を挙げての運動や正力松太郎の努力もあって、1957年(昭和32年)9月に国営事業による永久橋建設が決定し、旧橋より130m上流地点にて1958年(昭和33年)3月に着工した[13]。しかし、その矢先の同年4月23日、旧橋が決壊し交通不能になった[14]。
現在の橋は道路橋が1961年(昭和36年)竣工[1]、1962年(昭和37年)11月15日開通[2][3]、この時点での幅員は6mであった[15]。
その後、自動車の通行量が急増し歩行者の通行が危険となってきたため、1971年(昭和46年)9月に下流側に歩道橋を設置する工事が始まり、1972年(昭和47年)4月20日に歩道橋(延長443.5m幅員、幅員1.5m、融雪装置付き)が完成した[16][17]。その後上流側の歩道橋が、富山県により総事業費13億5千万円を投じて建設され、1996年(平成8年)7月10日に開通した。総延長は和田川の錦橋を含めた671m、幅員は3.5m、歩道橋の親柱や勾欄などには、大門の曳山や庄川の清流に注ぐ鮎、凧をイメージしたデザインが施されている[18][17]。
