大阪府立泉陽高等学校
大阪府堺市堺区にある公立高等学校
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概要
高等女学校令施行に伴い明治後期に堺市が開設した、大阪府内では2校目、かつ大阪市外では初の高等女学校であった堺市立堺高等女学校を前身校とする。校地は、南東に府道12号堺大和高田線、南西に土居川公園に囲まれた堺の旧市街地の北東部に位置し、校地内には、堺市立堺女学校[注釈 1]の卒業生であった与謝野晶子の詩碑「晶子碑」が設置されている[1]。
2025年8月、「府立高校改革アクションプラン」が大阪府教育委員会会議において決定された事に伴い、生徒が多様な個性・ニーズに応じて新たなことを学び、挑戦する意欲を育むための学びへの変革を推進するため、2029年度以降順次、泉陽高等学校に「文理探究科(学際領域)」が設置される予定である。
スクール・ミッション
歴史ある堺の旧市街地に位置する普通科高校として、主体的に課題を発見し、個性を発揮しつつ、協調・協働しながら解決する人間力を醸成し、バランスのとれた知と心及び高度な人権感覚と倫理観を身につけた、地域や国内外で活躍する人物を育成する[2]。
めざす学校像
志の高いリーダーを育成する学校
「世のため人のため、世界のため」という社会貢献意識を強くもち、気品に溢れる、情操豊かな生徒を育て、その進路実現を叶える学校[3]
めざす学校像を示す4つのキーワード
スローガン
進取果敢 挫折を知りて己持つ
スクール・ポリシー
グラデュエーション・ポリシー
カリキュラム・ポリシー
アドミッション・ポリシー
本校は、主体的に課題を発見して協調・協働しながら解決する力を育み、地域や国内外で活躍できる人物を育成することを学校の使命と考えている。その使命を実現すべく、自ら進取果敢に様々なことに挑み、社会に貢献する意識を高く持つ生徒を求める。
沿革
略歴
学校創立
1874年5月、堺県によって開口神社[注釈 2]境内に設置された女紅場(にょこうば)を源流とする[1]。開口神社境内の女紅場は正確には堺中央女紅場と称し、同年9月には堺北女紅場、同年11月には堺南女紅場も設置された。1880年4月、堺県における郡区町村編制法施行によって堺区[注釈 3]が設置され、堺区の所管となった。なお、堺県は1881年2月に大阪府へ編入されて消滅した。1882年6月、堺中央女紅場の分教場が4ヶ所設置された。同年12月、女紅場は裁縫場と改称され、1884年1月、公立小学校附属に改組された。
女学校設立の機運が高まると、1886年3月に4分教場が廃止され、1887年3月には堺区会にて女学校設立が決定した。1888年1月、堺区立堺女学校が設置され[1]、これをもって残る3裁縫場も廃止された。1889年4月、市制施行によって堺区は堺市へ移行し、堺市立堺女学校と改称した。
堺高等女学校
高等女学校設立の機運が高まると、1899年11月に堺市会にて高等女学校設立が決定した。1900年4月、堺市立堺女学校跡に堺市立堺高等女学校が設置され[6]、これをもって堺市立堺女学校は廃止された。尚、この高等女学校設立を以て、学校創立と位置づけている[6]。高等女学校を前身校とする大阪府内の高等学校としては、大阪府立大手前高等学校[注釈 4]に次いで2番目に古い歴史を有する。
1911年8月、朝日新聞関西講演会により夏目漱石が来校し、「中身と形式」と題して講演を行った[7]。そして、1912年には堺市から大阪府に移管され、大阪府立堺高等女学校に改称された[1]。
1945年、空襲により校舎が全焼し、翌1946年より大阪アルミニウム株式会社[注釈 5]青年学校[注釈 6]を仮校舎として移転し、授業を再開した。その後1948年には、現在地に校舎が改築され、復旧した。
泉陽高等学校
1948年、学制改革により新制高等学校に改組された[1]。名称選定にあたっては、所在地名「堺」の使用を巡って堺中学校[注釈 7]との調整が難航した。最終的には、堺高等女学校および堺中学校の双方とも「堺」を使用しない事で合意し、堺の別称である「泉陽」を冠した名称大阪府立泉陽高等学校が選定された。
いわゆる高校三原則に基づく男女共学の導入開始にあたり、堺市では当初、堺中学校・堺高等女学校・堺市立高等女学校の3校を新制高等学校に改組した後に、3校間での生徒交流の実施を構想していた。しかし、当時の学校間に大きな格差があったことを背景に、三国丘高等学校[注釈 8]から堺市立高等学校[注釈 9]に転籍となる男子生徒が拒絶する等して紛糾し、生徒交流作業も難航した。最終的には、堺市立高等学校校長が同校を廃校する決断を行い[8][注釈 10]、泉陽高等学校と三国丘高等学校の2校間での生徒交流となった。泉陽高等学校では、生徒交流で三国丘高等学校から転籍した男子生徒に加え、廃校となった堺市立高等学校から転籍した女子生徒も受入れた。
年表
- 1874年5月 - 女紅場が開口神社境内に設置される。
- 1882年12月 - 裁縫場と改称される。
- 1888年1月 - 車之町東1丁(現:2丁)に堺区立堺女学校が設置され、裁縫場が廃止される。
- 1889年 - 市制施行に伴い、堺市立堺女学校に改称される。
- 1900年4月1日 - 高等女学校に改組され、堺市立堺高等女学校となる(学校創立)。
- 1907年 - 車之町東2丁(現:3丁)へ移転する。
- 1911年8月 - 夏目漱石来校、講演。
- 1912年4月1日 - 堺市より大阪府へ移管され、大阪府立堺高等女学校に改称される。
- 1917年7月27日 - 校舎焼失。
- 1919年3月 - 校舎再建。
- 1922年9月21日 - 堺高等女学校同窓会愛泉会により堺愛泉女学校[注釈 11]が設立される。
- 1934年 - 室戸台風により校舎を損壊する。生徒が1名死亡する。
- 1938年3月 - 校舎改築。
- 1939年 - 泉北郡福泉町に農園を開設し、撫子寮(宿泊施設)を併設する(1949年に処分)。
- 1945年7月 - 堺大空襲により大部分の校舎を焼失するし、生徒1名が死亡する。
- 1946年 - 大阪アルミニウム株式会社青年学校を仮校舎とする。
- 1948年 - 元の校地(現在地)へ復帰し、同時に隣地(宅地・墓地)を買収して拡張する。
- 4月1日 - 学制改革により大阪府立泉陽高等学校に改組される。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)との間で教員・生徒を交流し男女共学となる。
- 2002年 - 大阪府教育委員会からエル・ハイスクール事業の指定を受ける。
基礎データ
設置する課程、学科、コースならびに定員
特別活動
学校行事
- 海外語学研修
希望者を対象に、夏休み始めに約2週間で実施しており、これまでオーストラリア、イギリス、カナダでの実施実績がある。
- 福を招く会
3年生を対象としたPTA企画である。
- クラスマッチ
大浜体育館にて行っており、種目は生徒の実行委員会にて決めている。
- 合唱コンクール
課題曲と、各クラスの自由曲を披露、指揮やピアノ伴奏もクラスで行う。生徒主体の実行委員会で行事運営する。
- 泉陽マラソン
毎年2月に2年生・1年生を対象に行われる。浜寺公園の周回コースを、男子は10km、女子は7kmを走る。
宿泊を伴うオリエンテーションは無い。水泳大会や水泳合宿といった夏季の体育行事も無い。また冬季の体育行事としては、耐寒登山は無いが、球技大会とマラソン大会は行われている。文化行事としては、芸術選択科目の作品展示会・発表会や予餞会は無いが、芸術鑑賞会と百人一首大会、合唱コンクールは行われている。
- 前期
- 後期
部活動
運動系クラブは22、文化系クラブは17あり、中でも、合唱・吹奏楽・弦楽・ジャズ(軽音楽部)・ポップス(ポピュラーミュージック部)と、音楽系のクラブ数は大阪府内の高校で最多である。
- 運動部(運動系)
- 文化部(文化系)
高校関係者と組織
高校関係者組織
- 大阪府立泉陽高等学校学校運営協議会 - 保護者、地域住民、校長、関係行政機関の職員の中から委嘱された委員による機関。学校運営及び当該運営への必要な支援に関して協議する。
- 大阪府立泉陽高等学校PTA - 生徒保護者と教員による父母と教師の会(PTA)組織で、会員は入会金及び年会費を納入する。
- 大阪府立高等学校PTA協議会 - 大阪府教育庁に近接する大阪市中央区糸屋町に事務局を置くPTA協議会。大阪府立泉陽高等学校PTAの会員をもって会員とし、会員は単位PTA分担金として会費を納入する。
- 大阪府立泉陽高等学校泉陽会 - 前身学校を含む卒業生による同窓会組織。本部を校地内に所在する同窓会館「泉陽会館」に置く。
高校関係者一覧
著名な出身者
- メディア
- 清水健 - 元読売テレビアナウンサー(高校47期)
- 田代純 - NHK大津放送局アナウンサー(高校37期)
- 栂井丈治 - 元関西テレビプロデューサー(高校4期)
- 土井悠平 - 文化放送アナウンサー(高校59期)
- 松井昭憲 - 元毎日放送アナウンサー(高校17期)
- 矢吹寿秀 - NHK制作局チーフプロデューサー(高校35期)
- 学術・教育
- 文芸
- 芸術
- 舞台芸術・芸能
- スポーツ
