小西一男
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父・登は中山・岩佐宗五郎厩舎の騎手で、一女一男の長男として生まれる[2]。物心がつく前の2、3歳の頃から馬の背に登に乗せてもらっていたため、馬の世界で生きる以外は空想すらしなかった[2]。
父・登は太平洋戦争末期の1944年に騎手デビューするも、兵役で中途で放棄させられ、終戦後の10年間は実家の手伝いなどを余儀なくされたため実働僅か1年余り、通算66戦0勝という成績に終わっていた[3]。現役未勝利であった自分の代わりに一男がレースで躍動することを望み、息子の騎手願望に対し反対は全くしなかった[3]。
市川市立若宮小学校、市川市立第四中学校を終了して入所した[3]馬事公苑長期騎手候補生22期生の同期には池添兼雄、加藤和宏、佐々木晶三、佐野清広、西園正都、根本康広らがおり、全12人が一部屋に皆で雑魚寝し、朝の起床から夜の就寝まで、びっしりと団体行動であった[4]。
佐々木と共に騎手試験には一回で合格し[5]、1974年に中山白井・柴田欣也厩舎からデビュー[6]。
1年目の1974年には3月2日の中山第1競走4歳以上100万下・ヒシリキス(7頭中6着)で初騎乗を果たし、2戦目となる同10日の中山第1競走4歳以上100万下・ヒシリキスで初勝利を挙げる[7]。
ヒシリキスは元々気性の激しい馬であったが、調教で乗っている時と背中の動きが違ったため、小西にとってデビュー日は「生半可な気分では絶対この世界やっていけないな」と目覚めた日になった[5]。
ヒシリキスの体の使いこなしのダイナミックさに驚いたが、初勝利は同じ中山ダート1700mの連闘となった[6]。
デビュー1週間後に初勝利をあげ、父・登が手にできなかった勝ち鞍を手にした一男であるが、重賞勝利などの特筆すべき実績を挙げるには至らず、騎手として大成できなかったのは「環境面でうんぬん言う以前の適性だった」と後に述べている[6]。
初年度は6勝、2年目の1975年には5勝、3年目の1976年には11月20日・21日の福島で初の2日連続勝利[8]を記録するなど初の2桁勝利となる13勝をマーク[9]。
1977年の福島記念ではスカイダイバーでディアマンテの2着[10]に入り、登が一男の騎手デビューに発奮して調教師免許を取得し、厩舎を開業。
1980年には登の要望により父の厩舎に移籍し[6]、1月7日の中山で初の1日2勝[11]を挙げるなど、4年ぶりの2桁勝利となる10勝[9]をマーク。
1982年には茨城・東京大学農学部付属牧場[12]生産馬のベルワイド産駒タケデンフドーでクラシックに挑戦し、抽選で出走枠に入った[13]皐月賞は21頭中14番人気ながら4着に健闘すると、初出走で「東大に入るより難しい」と讃えられた[14]東京優駿ではゲートの中で「こんな凄いレースは、絶対他にない」と思ったが[6]、レースで良いところはなく[6]、20着と大敗[15]。
フリーとなった[6]1983年にはキタノカチドキ産駒マサノカチドキでダイヤモンドステークス3着[16]に入り、シンボリルドルフがデビューした7月23日の新潟では初の1日3勝[17]を挙げるなど3年ぶりの2桁で自己最多の13勝[9]をマークするが、結局この年が最後の2桁勝利[9]となった。
ローカル開催では増沢末夫と一緒になり、食事に連れて行ってもらうなど常に接する時間があったほか、岡部幸雄と何度も話をすることができた[18]。
1987年にはジャパンカップデーの11月29日に東京第7競走白樺湖特別をファーストコール[19]、1989年にはダービーデーの5月28日に東京第2競走4歳未勝利をサファイヤダンサーで勝利[20]。
1989年11月18日の東京第4競走4歳以上400万下をサンエイソロン産駒ヨツヤシャルダン[21]で勝ったのが最後の勝利となり、12月23日の中山第3競走3歳新馬・ホッカイジョイナー(16頭中16着)を最後に現役を引退[22]。
4度目の挑戦で調教師免許に合格した一男は1991年3月、定年退職した鈴木勝太郎厩舎を継ぐ形で美浦に開業。3月2日に初出走、同年6月23日に初勝利を挙げる。
1994年には管理馬から重賞ホルダー、GI出走馬を輩出。この他1990年代には中央・地方双方で活躍馬を擁し、1993年から2010年にかけ毎年2桁勝利を維持し続けている。
2026年3月3日をもって定年のため調教師を引退した[23]。