少年 (谷崎潤一郎)
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二十年ほど前に、日本橋有馬小学校の四年の萩原の栄ちゃん(私)は同級生の塙信一に誘われて彼の家へ遊びに行く。その屋敷はお稲荷様のお祭りで縁日のような賑わいを見せていたが、そこから抜け出した「私」は信一に連れられて信一の姉光子や学校の餓鬼大将の仙吉と出会った。クラスでは常に女中が付き添うほどの弱虫と思われていた信一だった。しかし屋敷の中で年上の仙吉や妾腹の姉を虐げる存在であったというギャップに驚きを感じながらも「私」自身も美少年の信一の言いなりになることに喜びを覚えるようになっていく。信一が留守のある日に私と仙吉は屋敷内の西洋館で光子がピアノの練習をしているのを耳にする。光子の外は子供が入ることが禁じられていた西洋館に好奇心を抱いていた二人は普段と同じように光子を折檻し、夜に西洋館へと導き入れることを約束させる。「私」は水天宮の縁日に行くと偽って家を出て、西洋館へたどり着くと、光子は豹変しており、仙吉とともに彼女にひれ伏した。
概説
谷崎の創作としては8作目に当たるこの小説が発表されたのは1911年で、谷崎はこのときまだ東京帝国大学国文学科に在籍していた。前年の「誕生」「刺青」「麒麟」が同人雑誌であった第二次『新思潮』に掲載されたのに対し「少年」は『スバル』上で発表された。これは『新思潮』が1911年3月号に載せた芦田均訳の「パンテオンの対話」が問題となって発禁処分となった[2]ことに伴い谷崎が『スバル』へ移ったことによるが、結果として「少年」は多くの読者に読まれることとなり、谷崎が作家として一躍有名になるきっかけとなった。後年、自身で「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、由来私は最も花々しく文壇へ出た一人であるとされてゐる」としながらも実際に「世間に認められるやうになつたのは、(中略)「新思潮」が廃刊した後、六月の「スバル」に「少年」を書き、七月(?)の同誌に「幇間」を書いた前後からだつた」[3]と述べている通り、それまでの作品が自身の期待に反して殆ど文壇からの反響がなかった[4]だけにこの変化は著しいものだった。「少年」の発表から一月後の7月、谷崎は以前からの授業料未納で大学から退学処分を受け[5]、いよいよ商業作家となったが、『二六新報』などはこのことを報じて「帝大国文科に在学中二三篇の創作を発表せしところ案外にも好評を博したるより稍有頂天となり退学して創作家の生活に入るべしとは余りに己惚れ過ぎたる男と云ふべし」[6]と揶揄した。
作品の舞台となっているのは谷崎自身が幼少期を過ごした日本橋蠣殻町界隈で「創作余談 その二」や『幼少時代』[7]において作中の建物・登場人物・出来事といった事象にも実際にモデルがあったものが多いことを明かしている。ただ、信一ら登場人物とは違い、谷崎は有馬小学校ではなく阪本小学校の出身であり「ふるさと」でも「私の親戚の大部分は有馬学校出身なので、私にもこの学校の思い出がないわけではない」[8]と述べている。