山本鎮彦
日本の外交官 (1920-2012)
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人物像
長野県長野市生まれ。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類[1]を経て1943年東北帝国大学(現東北大学)法文学部法科卒。
1943年内務省入省。警視庁の初代公安三課長、警務部監察官など警備・公安畑一筋に歩む[2]。公安三課長時代にラストヴォロフ事件を手掛けたのを始め、公安部長時代には第二次安保騒動、警備局長時代には赤軍派による日航機ハイジャック事件、金大中事件、連続企業爆破事件など歴史的事件に遭遇し、陣頭指揮を執った[2]。フランス語、英語を使うことのできる国際派として知られ、警察庁長官としては初の非東大法学部出身者となった。その他、警察官僚出身としては初となる特命全権大使も務めた(後の三井脩人脈に連なる)。
退官後、広域暴力団との繋がりを指摘されていた株式会社佐々木通商が最大の出資先となっていた、社団法人公共ネットワーク機構の会長に就任したことを問題視された[3]。ただし、山本本人はそのことを知らないで会長職を引き受けていたと主張している。
警察庁OBのトップとして長年君臨し続け、警察庁を陰で牛耳るドンとして恐れられていた。旧内務省・特高警察の流れをくむ警察庁OBによる秘密グループにも参加しており、暴力団対策法の素案を練ったり、警察庁人事に影響力を行使するなど、絶大な権力を握っていた。このグループには、後の国民新党代表の亀井静香も参加している[4]。
エピソード
公安三課長時代だった山本は1954年7月、ワシントンのホテルの一室で約一週間にわたり亡命中のラストヴォロフを尋問した[6]。山本は話す。「背が高くてスマートな男でね。ソ連人というより米国人みたいに、にこやかで社交的、スパイに付き物の暗い影なんて全くなかった。『本来は日本に亡命したかったが、そうするとソ連から圧力がかかって日本が迷惑するだろうから米国に亡命した。自分の情報は全部日本にやってくれ』と米国に言うほど非常に日本びいきな男だった」[6]。ラストヴォロフは在日ソ連代表部時代、南麻布の東京ローンテニスクラブに入り、米国人らと盛んに交流を続けていた[6]。山本もラストヴォロフとその一年前、知人の紹介でテニスをしたことがある。大きな体から打ち出す強烈な球が印象的だったという[6]。
略歴
- 高等試験行政科試験合格(1943年)
- 内務省大臣官房人事課勤務
- 短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入校[7]。1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官[7]。海軍省経理局に配属[7]。1945年3月、海軍主計大尉に昇進し東京警備隊分隊長となり終戦を迎えた[7]。
- 福井県経済部農務課長
- 警視庁本富士警察署長(警視)(1948年~49年)
- 警視庁公安部公安第一課長(警視正)(1954年)
- 在フランス日本国大使館一等書記官(1958年~1962年)
- 栃木県警察本部長(1962年~1963年)
- 警察庁警備局外事課長(1963年~1965年)
- 警察庁警備局公安第一課長(1965年~1966年)
- 警視庁公安部長(1967年~1971年)
- 兵庫県警察本部長(1971年~1972年)
- 警察庁警備局長(1972年~1975年)
- 警察庁次長(1975年~1978年)
- 警察庁長官(1978年~1981年)
- 自動車安全運転センター理事長(1982年)
- 駐ベルギー特命全権大使(1983年~1986年)
- 財団法人保安電子通信技術協会会長
- 社団法人公共ネットワーク機構会長
- 日本シークレットサービス会長
- 社団法人東南アジア調査会会長
- 財団法人警察育英会会長
- さくら銀行顧問
- 日本碍子監査役
- 財団法人公共政策調査会理事長。