帷子川
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帷子川本流の全域が神奈川県横浜市内を流れている。旭区若葉台団地に隣接し国道16号との間に挟まれた上川井町の警察犬訓練施設脇の畑と産業廃棄物埋め立て地に源を発し、源流から程ない場所に二重構造の人工河川として「上川井町小川アメニティ」が整備されている[3]。ここに湧き水のように見える排出口の開いた穴のついた岩があるが、これは人工河川用の揚水ポンプであり、自然の源泉ではない。その側にコンクリートで河岸の固められた細い本流があり、それを遡ると源泉にたどり着く。
保土ケ谷区を南東に流れ、横浜駅東口を取りかこむように流れ、万里橋(北緯35度27分47.8秒 東経139度37分21.3秒 / 北緯35.463278度 東経139.622583度座標: 北緯35度27分47.8秒 東経139度37分21.3秒 / 北緯35.463278度 東経139.622583度)のすぐ下流、西区のみなとみらい地区と神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ[4]。
治水
流域の自治体
歴史

- 平安時代:袖ヶ浦と呼ばれた入り江が、現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、天王町付近の河口は帷子湊(かたひらみなと)と呼ばれ、橘樹神社付近は「かたひらの宿」「かたひらの里」として栄えた。
- 江戸時代:河口に河岸・船着き場があり、薪炭などの物流の地として栄えた[11]。
- 1707年(宝永4年):富士山の大噴火による降灰で川筋が埋まり、河口は浅くなって砂州や干潟が出現する[12]。
- 1732年(享保16年):幕府により拡幅や蛇行修正工事が行われる[13][12]。
- 1754年(宝暦4年):宝暦新田が開発される[12](現・南浅間町東部)。
- 1779年(安永8年):尾張屋新田が開発される[14](現・西平沼町)。
- 1780年(安永9年):安永新田が開発される[12](現・浅間町南東部)。
- 1817年(文化14年):藤江新田が開発され(現・岡野西端)、新田間川の前身の悪水路が作られる[14]。
- 1847年(弘化4年): 弘化新田が開発される[12](現・浅間町北東部)。
- 1833年(天保4年)-1850年(嘉永3年):岡野新田が開発される[15](現・岡野)。
- 1839年(天保10年)-1867年(文久3年):平沼新田が開発され[15](現・平沼)、石崎川の前身の悪水路が作られる[14]。河口が現在の平沼橋のあたりとなる。

- 1858年(安政5年):日米修好通商条約調印による神奈川(横浜)開港にあわせ、東海道と横浜港をつなぐため、芝生村(現・浅間町交差点付近)と横浜村(現・関内)の間に横浜道を開き、岡野新田と平沼新田の海岸側に新田間橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)を架けた[16]。
- 明治時代:絹のスカーフの輸出増大を受けて、染色・捺染工場が集まる[17]。八王子からの「絹の道」が通り、天王町が栄えた[18]。

- 1870年(明治3年):日本初の鉄道路線が着工。路線敷設のため、河口の沖合が築堤で埋め立てられる(現・高島)。
- 1913年(大正2年):河口に残された内海の埋立も完成(現・北幸・南幸・鶴屋町南部)、ほぼ現在の河口となる。
- 1923年(大正12年)9月 関東大震災後:国の復興事業として改修工事が行われ[19]、新田間川と石崎川が接続されて派川となる[12]。
- 1958年(昭和33年):台風22号(狩野川台風)により堤防が決壊して数万戸が浸水[20]。
- 1965年(昭和40年): 河口から下川橋の区間が二級河川に指定[19]。
- 1970年度(昭和45年度):都市基盤河川改修事業による改修工事が行われる[8]。
- 1971年度(昭和46年):二級河川区間を上流の大貫橋まで延伸、支川の中堀川及び今井川を二級河川に指定[19]。
- 1982年度(昭和56年度)-1996年度(平成8年度):地下トンネルと帷子川分水路が整備される[8]。
- 2004年(平成16年)10月:台風22号により、横浜駅西口付近で帷子川の水があふれ[21]、ホテルの地下駐車場や飲食店街地下部分が浸水した[22]。
名称の由来
現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある[5]。
神奈川の名称の由来説
神奈川の地名の由来は、帷子川へ関東ローム層のなかの酸化した鉄分が流れだし 川をあかがね色に染めるからだといい「金川」と書くこともあるとする説もある。(「神奈川県の歴史」 旧版より引用)[信頼性要検証]
並行する交通
主な橋
川沿いの施設
支川・派川
環境・生物
保土ケ谷区上星川付近には、かつて捺染業が多く存在した。この染色・捺染の染料を流すこと(生地を水に晒す工程)や周辺の生活排水や工場廃水などが増え始め、一時期は汚染が進んだ。 下水道の普及など状況は改善されつつあることや魚の放流などもなされた結果、自然が戻りつつあり、アユ[25]、神奈川県でも珍しいギバチ[26]のほかやホトケドジョウ、トウヨシノボリなど横浜市の2011年度の調査では全部で18種類の魚が確認されている[27]。また東日本大震災の復興事業として2013年よりサケの稚魚の放流が行われているが2019年時点では成長したサケが泳ぐ姿は確認されていない[28]。
横浜市環境創造局が発表している水質汚濁及び地盤沈下状況記者発表資料によれば帷子川の水道橋地点における生物化学的酸素要求量(BOD)の数値が1984年をピークに年々低下をみせ、1991年以降は5mg/Lを下回って安定しているなど水質の改善がデータ上でも見られる[29]。 現在では中流域のBOD平均値は1.0まで低下しており、これは神奈川県東部の河川で最も低い数値である。[30] 一方で2012年の環境科学研究所による調査では帷子川河口周辺では有機物や硫化物の濃度が高く、汚濁が進行していることが示され、水産用水基準による底質評価や七都県市底質環境評価では、夏には魚介類や底生生物にとって厳しい生息環境にあると判定された[31]。


