戴復古

From Wikipedia, the free encyclopedia

出生: 乾道3年(1167年
死去: 淳祐10年(1250年)?
職業: 詩人
繁体字 戴復古
戴復古
戴復古
プロフィール
出生: 乾道3年(1167年
死去: 淳祐10年(1250年)?
職業: 詩人
各種表記
繁体字 戴復古
簡体字 戴复古
拼音 Dài Fùgŭ
発音転記: たい ふくこ
テンプレートを表示

戴 復古[1][2][3](たい ふくこ、乾道3年(1167年) - 淳祐10年(1250年)?[4])は、「狂夫は本と是れ農家の子」[5]というふうに、台州黄巌県の農民であり、南宋時代の江湖派[6][注 1]の代表的詩人である。は式之(しきし)。郊外の石屏山に住んでいたことに因んで、は石屏(せきへい)とした[7]。台州黄巌県南塘(現在の浙江省台州市温嶺市)の人。幼時に死んだ父の戴敏(たいびん)は、処士[8][注 2]で終わったが、東皋子(とうこうし)と号する農民詩人でもあった。戴復古は、成長してから詩に思いを残した父の遺言を聞かされ、父と同じく一生官職に就かず、職業詩人として各地の有力者に詩を献上して謝礼を貰い、生活した[9][注 3]

南宋の孝宗の時代に生まれた。最初、林憲について詩を学び、ついで同郷の徐似道(じょじどう)に就き、後には陸游に学んだ。

紹定5年(1232年)、邵武府学教授となる[10]が、現在の四川省を除いて、浙江・福建・広西・湖南・江西・江蘇の各地を巡り、職業詩人として生業をたてた。理宗淳祐元年(1241年)、故郷に帰ったときには、既に70歳を超えていた[11]。非常に長命であり、80歳以上まで生きたことは確実で、晩年は故郷に落ち着いたうえで没したらしい[12]

親族

  • 父:戴敏(たいびん)…(?〜1168?)、字は敏才。号は東皋子(とうこうし)。『小園』という詩を書いた[13]

作品

詩風

戴復古の作品は、江湖派の流れを汲み、詩風は永嘉の四霊[14][注 4]が提唱した晩唐の詩に学んだものであるが、政治批判を含む社会詩も多く作っている。

後に江西派の風格も混入し、「自ら嘲(あざけ)る」という詩には、

自ら嘲る
原文 書き下し文
賈島形模原自瘦 賈島の形模 原(も)と自ら痩せ
杜陵言語不妨村 杜陵の言語 村なるを妨げず

とあり、賈島は江湖派の「二妙」[15][注 5]の中の一「妙」であり、杜甫は江西派のいわゆる「一祖三宗」[15][注 6]の中の一「祖」である。この詩の2句は、2つの流派の仲裁をしようという彼の企てが示されている[16]

戴復古の詩集は、『石屏詩集』(せきへいししゅう)[17]といい、趙汝讜(ちょうじょとう)が130首を選んだのちに始まり、今は10巻。『石屏詩集』には、放浪の境涯をうたう詩が多い。他に、『続集』4巻。『石屏詩』がある。

著名な作品

市舶提挙管仲登飲于万貢堂有詩(市舶提挙管仲、万貢堂に登飲し、詩有り)[12]
原文 書き下し文 通釈
七十老翁頭雪白 七十の老翁 頭(かしら)雪白 雪のような白髪をいただく七十の老いぼれが
落在江湖売詩冊 江湖に落在して詩冊を売る 広い世間に放り落とされ、詩を売り歩く商人暮らし
平生知己管夷吾 平生の知己(ちき) 管夷吾 旧交の深い管夷吾さんのおかげで
得為万貢堂前客 万貢堂前の客と為るを得たり この万貢堂の門前に身を寄せることができた
嘲吟有罪遭天厄 嘲吟 罪有りて 天厄に遭ひ 棘のありすぎる詩をうたったのがいけなかったのだ、天のお咎めを受け
謀帰未辦資身策 帰るを謀るも 未だ身に資するの策を辦(ととの)へず 帰郷を計画しようにも、先立つものの工面が難しい
鶏林莫有買詩人 鶏林 詩を買うの人有る莫きや ひょっとすると、私の詩を買ってくれる鶏林の商人がいるかもしれない
明日煩公問蕃舶 明曰 公の蕃舶に問ふを煩はさん お手数ながら、明日になったら外国の貿易船に問い合わせてみては頂けないか
淮村兵後(淮村の兵後)[18]
原文 書き下し文 通釈
小桃無主自開花 小桃 主無くして 自(ひと)り花を開き 小さな桃の木は、家の主人はいなくても、独り花をつけ、あてどもなく広がる
煙草茫茫晩鴉を帯 煙草 茫茫として 晩鴉(ばんあ)を帯ぶ 煙のような草原に、ねぐらへ帰るカラスの影
幾処敗垣囲故井 幾処の敗垣(はいえん)の故井を囲めるは 崩れた土塀の中の古井戸が、幾つとなく見えるのだが
向来一一是人家 向村 一一 是れ人家なりき あれは、ひとつひとつ元は皆、人の住まいだったと思う

評価

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI