戴復古
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戴 復古[1][2][3](たい ふくこ、乾道3年(1167年) - 淳祐10年(1250年)?[4])は、「狂夫は本と是れ農家の子」[5]というふうに、台州黄巌県の農民であり、南宋時代の江湖派[6][注 1]の代表的詩人である。字は式之(しきし)。郊外の石屏山に住んでいたことに因んで、号は石屏(せきへい)とした[7]。台州黄巌県南塘(現在の浙江省台州市温嶺市)の人。幼時に死んだ父の戴敏(たいびん)は、処士[8][注 2]で終わったが、東皋子(とうこうし)と号する農民詩人でもあった。戴復古は、成長してから詩に思いを残した父の遺言を聞かされ、父と同じく一生官職に就かず、職業詩人として各地の有力者に詩を献上して謝礼を貰い、生活した[9][注 3]。
親族
- 父:戴敏(たいびん)…(?〜1168?)、字は敏才。号は東皋子(とうこうし)。『小園』という詩を書いた[13]。
作品
詩風
戴復古の作品は、江湖派の流れを汲み、詩風は永嘉の四霊[14][注 4]が提唱した晩唐の詩に学んだものであるが、政治批判を含む社会詩も多く作っている。
後に江西派の風格も混入し、「自ら嘲(あざけ)る」という詩には、
自ら嘲る 原文 書き下し文 賈島形模原自瘦 賈島の形模 原(も)と自ら痩せ 杜陵言語不妨村 杜陵の言語 村なるを妨げず
とあり、賈島は江湖派の「二妙」[15][注 5]の中の一「妙」であり、杜甫は江西派のいわゆる「一祖三宗」[15][注 6]の中の一「祖」である。この詩の2句は、2つの流派の仲裁をしようという彼の企てが示されている[16]。
戴復古の詩集は、『石屏詩集』(せきへいししゅう)[17]といい、趙汝讜(ちょうじょとう)が130首を選んだのちに始まり、今は10巻。『石屏詩集』には、放浪の境涯をうたう詩が多い。他に、『続集』4巻。『石屏詩』がある。
著名な作品
| 市舶提挙管仲登飲于万貢堂有詩(市舶提挙管仲、万貢堂に登飲し、詩有り)[12] | ||
|---|---|---|
| 原文 | 書き下し文 | 通釈 |
| 七十老翁頭雪白 | 七十の老翁 頭(かしら)雪白 | 雪のような白髪をいただく七十の老いぼれが |
| 落在江湖売詩冊 | 江湖に落在して詩冊を売る | 広い世間に放り落とされ、詩を売り歩く商人暮らし |
| 平生知己管夷吾 | 平生の知己(ちき) 管夷吾 | 旧交の深い管夷吾さんのおかげで |
| 得為万貢堂前客 | 万貢堂前の客と為るを得たり | この万貢堂の門前に身を寄せることができた |
| 嘲吟有罪遭天厄 | 嘲吟 罪有りて 天厄に遭ひ | 棘のありすぎる詩をうたったのがいけなかったのだ、天のお咎めを受け |
| 謀帰未辦資身策 | 帰るを謀るも 未だ身に資するの策を辦(ととの)へず | 帰郷を計画しようにも、先立つものの工面が難しい |
| 鶏林莫有買詩人 | 鶏林 詩を買うの人有る莫きや | ひょっとすると、私の詩を買ってくれる鶏林の商人がいるかもしれない |
| 明日煩公問蕃舶 | 明曰 公の蕃舶に問ふを煩はさん | お手数ながら、明日になったら外国の貿易船に問い合わせてみては頂けないか |
| 淮村兵後(淮村の兵後)[18] | ||
|---|---|---|
| 原文 | 書き下し文 | 通釈 |
| 小桃無主自開花 | 小桃 主無くして 自(ひと)り花を開き | 小さな桃の木は、家の主人はいなくても、独り花をつけ、あてどもなく広がる |
| 煙草茫茫晩鴉を帯 | 煙草 茫茫として 晩鴉(ばんあ)を帯ぶ | 煙のような草原に、ねぐらへ帰るカラスの影 |
| 幾処敗垣囲故井 | 幾処の敗垣(はいえん)の故井を囲めるは | 崩れた土塀の中の古井戸が、幾つとなく見えるのだが |
| 向来一一是人家 | 向村 一一 是れ人家なりき | あれは、ひとつひとつ元は皆、人の住まいだったと思う |